み使いガブリエルによる受胎告知を信仰をもって受け止めたマリヤは、親族エリサベツのもとへ急ぎました。老年の身ながら子を宿していたエリサベツなら、自分の話を分かってくれると思ったのでしょう。マリヤを迎えたエリサベツは、「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女はなんとさいわいなことでしょう」と感嘆の声をあげ、マリヤを心から祝福しました。
 このとき、エリサベツがわざわざ「信じた女は」と言ったのは、同じようにみ使いの言葉を聞きながら、信じることができなかった夫ザカリヤのことを思っていたのでしょう。み使いはザカリヤに、「時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから」と語りました。ザカリヤに告げられたその言葉を思い起こしながら、神の言葉が成就すると信じたマリヤを喜んだのでした。
 けれどもこのとき、み使いの言葉はまだ半分しか実現していませんでした。必ず成就すると信じた神の言葉でしたが、現実にはそれとは正反対のことが起こって行ったのです。時が来て、マリヤが目にしたのは、我が子イエスが十字架につけられる姿でした。絶望しそうになりながら、神の言葉を思い起こしていたことでしょう。「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。マリヤは神に見捨てられたわけではなく、十字架の下にも神は共におられ、祝福が注がれていたのです。
 主イエスの十字架の死から三日目の朝、主イエスは死から復活されました。ついに、神の言葉が成就したのです。神の言葉を信じて従って行く者たちの人生に、主は生きて働いてくださり、その実現を見せてくださいます。この年、この幸いな信仰生活を続けていきたいと思います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 主はイスラエルの民に対して、「わたしは神、あなたの神である」と改めて宣言した上で、「悩みの日にわたしを呼べ」と言われました。そう語るのは、イスラエルの民が、苦難のとき、神を呼ぶのではなく、すなわち、神を頼みとするのではなく、いつも人の力を頼みとしていたからです。主こそ神であることを忘れ、人間に過ぎない者たちを神であるかのように恐れていたのです。
 そのような不信の民に対して、「お前たちなど知らない」と言われるのではなく、「悩みの日にわたしを呼べ」と言われます。その上で、「わたしはあなたを助ける」と約束されました。私たちが苦しみの中から神に助けを願い求めるとき、その叫び声は神の耳に届き、それに答えてくださるというのです。
 これはまるで“苦しいときの神頼み”のような感じがします。自分の利益のため、エゴのために神を求める、ご利益信仰と変わらないように見えます。そのために、私たちは「こんな時ばかり神を呼び求める信仰ではいけない」と思って、神の助けを願い求めることを躊躇することがあるかもしれません。しかし、神は「苦しいときの神頼みでもいい、私を呼びなさい」と言われます。なぜなら、必死になって神を呼び求めていくとき、そこで真の神と出会い、「ああ、神は確かに生きておられる」と、神をほめたたえるようになるからです。「わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」と。
 私たち信仰者の人生にも、大きな苦しみに直面するときがあります。そのとき、神ならぬものを頼みとするのではなく、まっすぐに神を予備求める者でありたいと思います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 エルサレム神殿の近くに住み、礼拝と祈りを続けていたシメオンは、救い主が来られるのを待ち望み続けていました。そのような彼は、神から「主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはない」との約束が与えられていました。そのため、シメオンは諦めることなく、救い主の到来を待ち続けていました。
 そこへ、マリヤとヨセフが幼子イエスを抱いて神殿の中に入ってきました。律法の規程に従って、幼子を主にささげるためでした。シメオンは3人を見たとき、この幼子こそ、待ち望んでいた救い主だと確信しました。女預言者アンナもそこに加わり、二人はメシヤとの出会いを喜びました。
 このシメオンたちの救い主との出会いは、羊飼いや博士たちとのそれとは大きな点で違っていました。羊飼いや博士たちは、自分たちから救い主に会いに行きました。けれどもシメオンたちの場合、救い主のほうがベツレヘムからエルサレムまで小さな旅をして、彼らのもとに来てくださったのです。年老いたシメオンたちにとり、遠くまで行くことができず、ただ来てくださるのを待つしかなかったのです。
 シメオンはマリヤに頼み、幼子を自分の腕の中に抱かせてもらいました。救い主をその腕に受け取ったのです。そのとき、「これでもう安心して死ぬことができる」と言いました。神による救いをその目で見たからです。主が自分を受け取ってくださると信じることができたのです。
 クリスマスは、神が与えてくださった救い主を受け取るときです。今日も、私たち一人ひとりに救い主が差し出されているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ナザレに住むおとめマリヤのもとにみ使いが現れ、「恵まれた女よ、おめでとう」と声をかけられました。イザヤの預言にあるとおり、おとめマリヤが男の子を生み、その子が神の子救い主となるというのです。神の救いのみわざのための器としてマリヤが神に選ばれたというのです。
 これに対してマリヤは、「どうして、そんな事があり得ましょうか」と答えます。まだ結婚もしていないのに、子どもができるなんてあってはならないことだからです。マリヤにとって、恵みどころか降ってわいたような災難です。戸惑うマリヤに、親族エリサベツが老年ながら子を宿していることを告げます。その上で、「神には、なんでもできないことはありません」とみ使いは語りました。
 マリヤはついに、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と答えました。あなたのみ心のままになさってください、ということです。マリヤは自らをはしため、女奴隷と名乗ります。それは、「あなたは私の主人です」という信仰の告白です。これはマリヤの命がけの献身の告白です。
 このような応答ができたのは、マリヤが神の献身を見ていたからでしょう。神の子が人となってこの世に降ろうとしておられる。不可能と思われることを神がなそうとしておられる。その神の命がけの献身を知ったとき、マリヤも主のしもべとして生きることを決意しました。
 クリスマスは、御子キリストを私たちの内に宿すときです。私たちのために十字架で命を捨てるために来てくださった主イエスを私の主として心の中心に迎え入れるのです。マリヤのように、私たちも「私は主のはしためです」と献身の道を歩ませていただきたいと思います。 
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 山上の説教を終えた主イエスのところに、重い皮膚病の人がやってきました。当時、重い皮膚病の人は「汚れている」とされて、町の中に住むことも、神殿での礼拝も許されず、神からも人からも見捨てられるような孤独と苦しみの中で、生きる望みさえも奪われていました。
 この人は、主イエスの前にひれ伏し、主イエスを礼拝し、その後、「みこころでしたら、きよめていただけるのですが」と信仰を告白しました。主イエスにはきよめる力があると信じつつ、その答えは主イエスのみこころに委ねたのです。すると主イエスは、手を伸ばし、身をかがめるようにして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と語りました。
 主イエスのみこころは、この人がきよくなることでした。神との交わり、人々との交わりが回復し、新しい命に生きるようになることでした。そのために主イエスは彼にさわり、その汚れを引き受けて、きよめて下さったのです。これは、イザヤが預言した、私たちのわずらいと病を引き受けることによって、いやしと回復を与える救い主の姿でした。
 イザヤの預言の通り、主イエスは私たちのすべての罪を背負い、十字架にかかります。こうして、私たちの罪を取り除き、私たちに新しいいのちを与えて下さったのです。ここに、なんとしても私たちを救おうとする、主イエスの愛のみこころがはっきりと示されています。
 辛く悲しい日々の中で、主イエスのみこころが分からなくなることもあります。しかし、主イエスを礼拝する時に、十字架に現された主の愛のみこころは変わらないことを、繰り返し知るようになるのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)

 ローマ教会では、食べ物のことに続いて、特定の日を重んじるか否かという暦のことで意見の対立が生まれていました。ある人たちは、ユダヤ教の規定にあった断食の日を続けて重んじるべきだと考え、ある人たちはどの日も同じであり、その必要はない、と考えました。これらのことは、食べ物のことと同様、救いにおいては関係のないこと、どちらもで自由に選んでよい事柄です。そのため、パウロはどちらの考えが正しいか、という判定は下していません。
 その代わりに、「各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」と伝えます。その確信とは、独りよがりのものではなく、一つの基準があります。それは「主のために」という基準であり、確信です。肉を食べるか否か、特定の日を重んじるか否かも、「主のために」という視点から、自分の行動を選び取るように、ということです。これは、誰かがこうすべきと強制するものではありません。同じ「主のために」であっても、人によって肉を食べることもあれば、肉を食べないこともあるでしょう。それぞれが主のために選んでいればそれでよいのです。
 なぜ、キリスト者はすべて主のために生きるようになったのか。それは、生きるにしても死ぬにしても、私たちが主のものだからです。救われたということは、私たちがキリストの十字架によって神に買い取られたことであり、主のものとされたということです。「私は主のもの」とは、「イエスはわが主」ということです。こんな私がキリストの恵みによって主のものとされたことを知るとき、私たちは喜びをもって主のために生きることを始めるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ローマ教会の中には、異教の神に献げられた後に市場に出回る肉を食べることを避けるべきとする人たちと、どんなものを食べても良いと考える人たちとの間に対立が生まれていました。肉を食べるべきではないと考える人たちは、平気で肉を食べる人たちを信仰の堕落した者たちであると断罪していました。反対に、何でも自由に食べる人たちは、食べ物のことで縛られている人たちのことを信仰の本質が分かっていない者たちとして軽蔑していました。
 パウロは教会の中のこのような対立に対し、どちらが正しいかという判断は下しませんでした。この問題は、その人の救いに関わるような事柄ではなく、どちらでもいい問題だからです。それゆえ、どちらが正しいかよりも、お互いに考えの違う相手を受け入れるようにと勧めます。
 肉を食べるか食べないかということは、文化の違いのようなものであって、それによって救われるか否かが決まるような問題ではありません。ところが、人は自分が大切にしている文化を「これが正しい」と絶対化して、他の人もこれに倣うべきだと押しつけようとします。そこに、もっと大きな問題、自分が主人になろうとする罪が生じます。このことのほうが大きな問題です。
 私たちはお互いに他者の主人ではなく、皆、主人であるキリストの僕です。私たちを裁くのは人ではなく、主人であるキリストです。もし、神が私たちを正しく裁くなら、私たちは神の前に立つことができないような者たちです。しかし、主イエスは私たちを立たせてくださいました。ご自分の命をかけて、私たちを救ってくださいました。この恵みを受けた者たちは、お互いに受け入れ合って生きることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 パウロはローマ教会の人々に、「眠りからさめるべき時が、すでにきている」と告げました。これはこの世の時間のことではなく、神の時のことです。すなわち、主イエスが再び地上においでになる時、再臨の時のことを指しています。主イエスの再臨が近づいている、というのです。パウロはそれを「救いの時」であると言います。主イエスは私たちを死に定めるのではなく、救いへと定めるために来られるからです。
 その近づいている時に備えて、「やみのわざを捨てて」と進めます。キリスト者が信仰の居眠りをしてしまい、闇のわざにふけってしまうことに忠告を与えています。それらをかなぐり捨てるようにと勧めます。
 さらに、「昼歩くように、つつましく歩こうではないか」と言います。救い主キリストの存在を消し去ってしまうとき、私たちの心は闇に覆われます。だからこそ、私たちは常に造り主なる神を畏れ、「あなたこそ私の主」と光なる主を心の中にお迎えして生きることが必要です。そのとき、キリスト者としてのつつましさ、品位というものが生まれます。
 それは、「主イエス・キリストを着なさい」とあるように、キリストを着た者たちだけが持つ品位です。私たちはすでに、洗礼とともにキリストを着た者たちです。ところが、信仰の居眠りを起こすとき、キリストを脱ぎ捨て、闇のわざを着込んでしまうことがあります。パウロは、繰り返し自覚的にキリストを着るようにと勧めます。私たちはキリストに包まれてこそ、私たちは生きることができます。やがての日、神の審きを受けるときも、キリストに覆われているがゆえに、安心して神の前に立つことができます。主キリストが執り成してくださるからです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 キリスト者の倫理として、パウロは隣人を愛すべきことを勧めます。律法を要約するならば、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」というこの教えに尽きる、と言います。
 この教えについて、「自分を愛するように」という言葉をどのように受け止めるべきなのか、私たちは戸惑うことがあります。キリスト者は自分を愛してはいけない、自己否定の道を歩むべきだと考えるからです。自分を愛することと、隣人を愛することの二つは両立しないものだと思っているのです。それどころか、自分を愛するとは、自己中心の罪である、と思ってしまうのです。
 確かに、「自分を愛する」と表現されるとき、罪の匂いがする生き方があります。それは隣人ではなく自分を愛する、あるいは自分だけを愛するという利己的な愛、利己愛と呼ぶべき生き方です。これは隣人愛とは対立する生き方です。
 聖書が「自分を愛する」と言うとき、それは自分の存在を尊ぶ、大切にすることであり、健全な意味での自己愛と呼ぶべきものです。これは隣人愛と対立するものではなく、むしろ、本当に自分を尊び、受け入れることができる人だけが、隣人をそのままで愛することができるものです。ありのままの自分を愛することができない人は、隣人をそのままで愛することができません。私たちは自分を愛せず、自己否定の心に苦しんでいる者たちです。
 しかし、そのような無価値な者たちのために、主イエスが十字架にかかり、救い出してくださいました。「あなたはそれでよい」と神が告げてくださったのです。この神の大きな愛を受けるとき、私たちは初めて、ありのままの自分を愛し、人を愛して生きる者へと変えられていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 この詩は、人の命の儚さを語ります。しかも、「人の子よ、帰れ」という神の呼びかけによって人は死ななければならないと言います。その人生は、ひと夜の夢のように、夕方には枯れる草のようだと、詩人は語ります。日本人は、儚さの中に美しさを見いだしますが、聖書は死をさらに厳しく見つめ、人はなぜ死ななければならないのか、ということを語ります。すなわち、罪のゆえに神の裁きを受けて、人は死すべき存在となったことを遠慮なく告げます。
 そこで、詩人に一つの祈りが生まれました。「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」。余命期間を知ろうというのではなく、人生に終わりがあることを弁えて生きるように、ということです。神によって造られた被造物である私たちは、神によってその人生が閉じられる存在であることを自覚し、今をどのように生きるべきかを悟るようにというのです。
 そのとき、詩人にもう一つの祈りが生まれました。「主よ、み心を変えてください。いつまでお怒りになるのですか。あなたのしもべをあわれんでください」。「み心を変えてください」とは、他の訳では「帰ってきてください」と訳されるように、「悔い改める」をも意味する言葉です。神のほうが向きを変え、私たちのところに帰ってきてくださるしか、救いの道がない、というのです。
 この詩人の切なる祈りは、御子キリストの到来によって成就しました。神は向きを変えるようにして、私たちのところへ来てくださり、私たちの罪の裁きを御子に向けられました。このキリストの十字架の恵みにより、私たちは神の招きに応え、今ここで、安心して神のもとに帰ることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)