第十の戒めは、「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」と命じています。これは、他人のものを欲しがり、何としてでも手に入れようとする貪欲の罪を禁じたものです。 私たちの欲望というものは、一度追い求め始めると、限界というものがありません。手に入れたもので満足できず、もっと多くのもの、もっといいものが欲しくなります。それは、モノがなくて生活できないような貧困の問題ではなく、満たされていない心の問題です。満たされない心の空しさを、人はモノによって埋め合わせしようとします。お金を貪欲に求めた取税人ザアカイは、まさにそのような人でした。
 そのような物質によって心が支配されてしまっている姿は、イエス・キリストの父なる神ではなく、お金や財産、物質を神としてしまっている人間の姿です。「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)とパウロが言ったように、盗みやむさぼりの罪は、神ならぬものを神として生きる偶像礼拝の罪です。この最後の第十戒にきて、もう一度最初の第一戒に戻ります。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。物質を神のように慕い求めるのではなく、神を神として生きるように命じられています。
 それができるのは、私たちの神は、私たちに必要な全てのものを与えてくださる神だからです。そしてすでに、私たちのために最も価値のある御子キリストを与えてくださいました。キリストの絶大な価値が分かるとき、私たちはもはや、モノによって心を満たす必要はなくなります。「あなたこそ私の主」と告白して生きる人生へと変えられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 第九戒は、「あなたは隣人について、偽証してはならない」と教えています。直接には、裁判の席で偽りの証言をすることの禁止です。そのようなことが横行すれば、健全な社会を築けなくなるからです。
 その上で、この戒めは隣人に関して偽りを語ることを禁じています。それは単に嘘をつくことだけでなく、陰口や悪口を言って他人を貶めるような行為を禁じるものです。私たちは普段の生活において、非公式の裁判を繰り返し行い、他の人を断罪しています。
 そのように、他者のことを悪く言おうとする心、それを密かな喜びとしてしまう心こそ問題です。その心の奥には、他人を悪く言って引き下げることによって、自分を高くしようとする思いが潜んでいます。シーソーのように、他人を引き下げることにより、カタンと自分のほうが上がるという非常に不健全な心理がそこにあります。そのような罪を持つ私たちにとり、十戒で禁じられたぐらいでは止めることはできません。
 しかし、私たちはもはやそのようにして生きる必要がなくなった者たちです。神が御子キリストによって、私たちを高く引き上げてくださったからです。どん底に落とされても仕方のない者たちのために、キリストが最も低いところへと降ってくださり、私たちを高く引き上げ、「あなたは価値がある」と告げてくださいました。だからこそ、私たちはもはや他人を引き下げることによって自分を高める必要はなくなりました。
 私たちは神に救われた者として、他人を引き下げるのではなく、他の人の徳を高める言葉を語る歩みを続けていきたいと思います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 「あなたは盗んではならない」というこの第八戒は、人の持ち物を奪うという一般的な盗みの罪を指すと理解して間違いではありませんが、もともとの意味は、人を盗むということでした。人を盗んで自由を奪い、奴隷として売買することを禁じたものです。聖書の時代、そのようなことが行われていたからです。
 現代に生きる私たちの国では、このような戒めは当てはまらないと思ってしまうかもしれません。しかし、精神的に相手を奴隷とし、支配し、自分の都合のいいように動かそうとすることは私たちの周りでも行われているのではないでしょうか。神は、そのような生き方から自由になることを求めておられます。
 この戒めが直接語られているのは、エジプトで奴隷としての苦しみを味わっていたイスラエルの民です。彼らの先祖たちは、兄弟が兄弟を盗んで奴隷として売り渡すという大きな罪を犯しました。その子孫が後に、自ら奴隷の苦しみを味わうことになったのです。神はその奴隷状態から解放してくださり、彼らを神のものとしてくださいました。その大きな恵みを受けた者たちだからこそ、もはや他者を奴隷とするような生き方はするな!と命じられます。
 私たちは罪の奴隷から解放され、新しい主人である神のものとされました。その私たちは、神だけを主人として仕えて生きるとともに、他の人の主人となって隷属させることもしないのです。神のもとからその人を盗むことになるからです。
 贖われた者たちの集まりである教会は、お互いに尊び、他者を支配するのではなく、自ら進んで仕えて生きる、新しい歩みを始めるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ここでは、御霊と、水と、血とによる神のあかしが語られています。水は主イエスの洗礼を、血は主イエスが十字架で流された血を指し、神の御子が、私たち罪人の仲間になられたことをあかしします。それは、私たちに永遠の命を与えるためでした。神は、御子イエス・キリストを信じる私たちに、永遠のいのちを賜った、とあかししています。
 神のあかしは、私たち一人一人への愛の言葉です。愛の言葉は、受け入れるか拒むかの応答を求めます。しかし私たちは、永遠のいのちの価値よりも現実の問題の方が大きく思え、神のあかしを喜んで受けいれられないのです。そんな私たちに御霊は、主イエスが水と血とを通って私たちのところに来て下さったとあかしします。神の御子が、罪人が受ける洗礼を受けて下さり、私たちの罪を背負って十字架に血を流して下さいました。こうして、痛みや苦しみの多い私たちの生活の中に、失敗を繰り返す私たちの弱さの中に、罪を抱えた私たちの心の中にまで来て下さり、ご自分のいのちを私たちと分かち合って下さいました。
 永遠のいのちとは、主イエスご自身です。御子を信じる者は、永遠のいのちである主イエスを、私のものとして持っているのです。主イエスは、私の主、私の神、誰よりも親しい私の友です。永遠のいのちに生きるとは、死んだ後だけでなく、今ここで、主イエスとの親しいいのちの交わりに生きることです。私たちは一人ではありません。水と血とを通って私たちのところに来られた主が、私たちの痛みや弱さをご存知の主が、いのちの源である主が、いつも私たちと共にいて下さるのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)

 私たちが神に祈る祈りについて、14節には「神はそれを聞きいれて下さる」と言われています。文語訳では、「必ず聞き給う」と訳されています。神は私たちの祈りに必ず答えてくださるお方だというのです。
 そして、神に答えていただくための条件が二つあると聖書は語ります。一つは、「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」とあるように、神の御旨に叶った祈りをささげることです。それは、最も従順な子どものような態度をもって、神に祈り求めることです。従順な幼子は、神の御心に反することを求めるはずはないからです。
 もう一つの条件は、私たちが神を信じて祈ることです。「わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである」(15)。「かなえられた」という言葉は、「持つ」という意味です。神の御心に沿った祈りであるならば、それが実現する前から、すでに神からいただいたものとして、信頼することができるのです。主イエスご自身も、同じことをこう語っています。「あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)。私たちが祈ったことは、すべてもう受け取ったものと信じなさい、ということです。祈りは答えられると信じて祈るだけでなく、さらに一歩進んで、すでに叶えられたと信じるのです。
 そのような私たちの祈りに、主は必ず最善の時と方法をもって答えてくださるのです。
(山形ホーリネス教会 菊地新牧師) 私たちが神に祈る祈りについて、14節には「神はそれを聞きいれて下さる」と言われています。文語訳では、「必ず聞き給う」と訳されています。神は私たちの祈りに必ず答えてくださるお方だというのです。
 そして、神に答えていただくための条件が二つあると聖書は語ります。一つは、「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」とあるように、神の御旨に叶った祈りをささげることです。それは、最も従順な子どものような態度をもって、神に祈り求めることです。従順な幼子は、神の御心に反することを求めるはずはないからです。
 もう一つの条件は、私たちが神を信じて祈ることです。「わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである」(15)。「かなえられた」という言葉は、「持つ」という意味です。神の御心に沿った祈りであるならば、それが実現する前から、すでに神からいただいたものとして、信頼することができるのです。主イエスご自身も、同じことをこう語っています。「あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)。私たちが祈ったことは、すべてもう受け取ったものと信じなさい、ということです。祈りは答えられると信じて祈るだけでなく、さらに一歩進んで、すでに叶えられたと信じるのです。
 そのような私たちの祈りに、主は必ず最善の時と方法をもって答えてくださるのです。
(山形ホーリネス教会 菊地新牧師)

 「あなたは姦淫してはならない」というこの第七戒は、「現代には通用しない、時代遅れだ」という声が聞こえそうな戒めです。一般の方々にとってはそうかもしれません。けれども十戒は、神を信じる民に向けて語られた言葉です。神の恵みによって罪から救われたあなたがたは、このように生きなさい、と勧められています。それゆえ、キリスト者にとっては、時代遅れになることなどない神の教えです。
 神はこの戒めにおいて、夫婦関係以外の全ての性行為を禁じておられます。それは神が結婚を重んじ、夫婦の間においてのみ、性の営みを許されたからです。結婚とは、他の男女が入り込むことなどできない、一対一の特別な関係に入ることです。
 人が姦淫の罪を犯す大きな理由の一つは、愛されていることを実感したい、という心の問題があります。渇いている心を満たすために、性が手段となり、道具になってしまいます。姦淫の罪は、人格を持っている相手を欲望を満たすための道具にしてしまうこと、人格否定につながるところに大きな罪があります。
 十戒においてこれを禁じているのは、これが信仰との関係において克服されるということです。ヨハネ4章に出てくるサマリヤの女性は、主イエスに出会ったとき、渇いていた心が満たされました。ヨハネ8章に出てくる姦淫の罪の女性は、主イエスの前に罪を認めたとき、「わたしもあなたを罰しない」という赦しの宣言を聞き、「もう罪を犯さないように」との励ましを受けて送り出されました。福音により、お互いの人格を尊ぶ愛に生きることができるように変えられていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 「あなたは殺してはならない」という十戒の第六戒を聴くときに私たちが心に留めるべきことは、実際の統計においては、殺人事件による死亡者数よりも、自分で自分を殺す、いわゆる自死者のほうがはるかに多いという事実です。それゆえ、この戒めは、まず第一にこの視点から聴くべきでしょう。
 キリスト教会の2千年の歴史において、長い間、自死は大きな罪とされてきました。神が与えてくださった大切な命を自分の手によって絶つという罪であり、命を支配しておられる神に対する越権行為だからです。カトリック教会では、自死者の葬儀は認められませんでした。
 しかし、自死のほとんどは追い込まれた末になされるものです。それゆえ、自死を考えるときに大切なのは、自分を殺すという加害者としての側面だけでなく、被害者、あるいは犠牲者としての側面を持っているということです。自死者の多くは、自らを殺す前に、すでに自分の内面は死んでしまっている、周りの人や環境によって殺されてしまっている、という事実があります。
 それゆえ、この「殺してはならない」という戒めは、共同体社会に対して、自死者を生み出すような社会を形成してはならない、という意味を持ちます。なぜなら、社会を構成する私たち一人一人が持っている価値観は、自死という面においても内なる殺人を生み出しているからです。自分など価値がないと見捨ててしまうことがあります。しかし、キリストは、価値なき私たちのために十字架で命を捨ててくださいました。だからこそ、私たちは自らを尊んで生きていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 「あなたは殺してはならない」という第六の戒めは、旧約聖書においては限定的な禁止命令とされ、死刑や戦争は容認されていました。実際、神は殺人者を死刑に処するように命じており、戦争では他の民族を全滅させるように命じておられます。
 キリスト教会がこのような旧約聖書を読む場合、常に新約の光のもとで読むことが必要です。すなわち、主イエスをとおして旧約を理解するのです。主イエスは旧約の律法を引用しつつ、「しかし、わたしはあなたがたに言う」と述べて、律法の真意を述べられました。この第六戒については、実際に行動に移さなくても、言葉をもって心の中で人を殺すなら、それも罪であると言われました。主イエスにおいて、この戒めは全面的な殺人の禁止として語られたのです。それは、どんな人も神のかたちに似せて造られた尊い存在であり、神はどんな人も滅びてしまうことを望んでおられないからです。
 これに対して、私たちは心の中で密かなる殺人を繰り返しているのではないでしょうか。自分には合わない人との関係を断ち切ってしまい、心の中から抹殺してしまうのです。
 そのような私たちに、「あなたは殺してはならない」と語られます。それは、滅ぼされても仕方のない私たちが、主イエスの十字架によって生かされたからです。その私たちに、殺し合うのではなく、互いに生かし合う社会を形づくっていくようにと勧められています。私たちは平和を造り出して生きるようにと召されているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 十戒の後半、人との関係について語る最初の戒めは、「あなたの父と母を敬え」です。「敬う」とは、「重んじる」ということです。私たちは幼い頃からこの教えを学校などで聞かされていますが、必ずしも実行できているわけではありません。最も近い親との関係において、私たちは最も深く傷ついている、ということがあります。そのためこの戒めは、親を敬うことができない私たちの罪を裁く言葉となることがあります。
 しかし、そもそもこの戒めは私たちを裁くためではなく、私たちを祝福の中に生かすことを願って語られたものです。父と母を敬うことが、あなたにとっての祝福となる、というのです。親を重んじることができないとき、私たちはその子どもである自らをも重んじることができず、「こんな自分など価値がない」と思ってしまうものです。この戒めは、親を重んじ、自らをも重んじて生きる祝福へと私たちを招いています。
 具体的な回復のために、自分が親との関係において傷を負っていたことをまず認めることが大切です。「こんなことを思ってはダメだ、親不孝だ」と否定するのでなく、心にある思いをそのまま受け止めます。
 そのとき、自ら軽んじてしまいそうになる私たちのために、御子キリストが十字架で命をかけてくださったほどに、神は私たちを重んじてくださったという福音の恵みが輝くのです。そして、主にあって自らを重んじるようになるとき、その福音の恵みは私たちの周りに生きる家族にも及びます。キリストの恵みが、私たちの親をも重んじて生きる者へと私たちを変えていくのです。福音の恵みによる奇跡の始まりです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 主イエス一行がエリコの町を出られたとき、一人の物乞いが座っていました。彼は「ナザレのイエス」がお通りになると聞き、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出しました。主イエスのことを「ダビデの子」と呼んだのは、「あなたは救い主です」との信仰を告白したことを意味しました。
 ところが、人々は彼を叱って黙らせようとしました。必死に主イエスに向かって叫び求めるのを邪魔しようとしたのです。私たちの場合も、主に向かってまっすぐに祈り求めることを妨げるものがあるのではないでしょうか。私たちの場合、外からの妨害よりも、心の内からの妨害のほうが大きいかもしれません。「どうせ聞かれないのではないか」「祈っても無駄ではないか」という思いが妨げとなって、主に助けを求めることをやめてしまうのです。
 このとき、バルテマイは人々から妨げられても、主に叫び求めることをやめようとはしませんでした。彼はますます激しく叫び求めたのです。彼は、主イエスに頼るしか道はなかったのです。だからこそ、主の憐れみにすがるしかありませんでした。その熱心な信仰は、彼自身の中から生まれたものではありません。信仰とは、真実と訳される言葉です。キリストが真実なお方だからこそ、そこに信頼としての信仰が生まれます。主イエスに信頼して求め続けたとき、主は彼の求めに答えて、その目を開いてくださいました。
 私たちが信じ仰ぐお方は、私たちの救いのために十字架で命を捨ててくださった真実なお方です。だからこそ、このお方に信頼し、まっすぐに祈り求めることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)