パウロは、「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた」と語ります。「立てて」とは、キリストをこの世に遣わされた、ということです。神が人となられたクリスマスの意味を語っています。
 供え物とは、普通は人間が神にささげるものです。ところが、犠牲を受け取る側の神が、人間のために供え物を用意されたというのです。「あがないの供え物」と訳されている言葉は、本来、贖罪所と呼ばれ、至聖所にある契約の箱の上蓋を指します。年に一度、大祭司は動物の血を携えて至聖所に入り、契約の箱の上蓋にその血を注ぎました。その血によって民の罪が赦されると神が約束しておられたからです。
 ところが今、神は御子キリストを旧約に代わる新しい贖罪所とされたというのです。「その血による」とパウロが語るように、主イエスは十字架で血を流されることにより、罪の赦しを得させる新しい契約、新約を立ててくださいました。それにより、滅ぼされるべき罪人を救うという神の義を示されました。
  私たちの神がそのようなお方であると分かるとき、私たちの内に信仰が生まれます。それは恵みを恵みとして受け取る信仰です。それゆえ、私たちの側には何一つ誇るべきものはありません。ただ、私たちのために十字架で血を流し、救いを成し遂げてくださった御子キリストだけを誇ります。
 律法は、自分が何をしたかを見なさいと迫ります。福音は、神が私たちのために何をされたかを見なさいと勧めます。どんな人も、この恵みの契約へと招かれているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 パウロは、罪人が義とされるのは行いによるのではなく、信仰によると語ります。その信仰とは、救っていただくだけの立派な信仰が必要だというのではありません。もしそう考えるなら、信仰という名の良い行いが必要であるということになります。信仰とは、差し出された救いの恵みを感謝して受け取ることです。
 そこでパウロは、人が義とされるのは神の恵みによると語ります。「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。恵みによって救われるとは、「価なしに」救われるということです。このことを強調するのは、私たちは救われるだけの資格を自ら生み出そうとするからです。救いを無償で受けるのではなく、良い行いをすることによって、自分の努力などで救いを得ようとします。これは恵みのみ、という姿勢ではなくなります。
 「価なしに」と聞くと、安っぽい救いであるかのように思われますがそうではありません。受け取る私たちの側では無償であっても、神の側では無償ではありません。それが「キリスト・イエスによるあがないによって」ということです。私たちを罪の奴隷から解放するために、御子キリストの命という高価な身代金が支払われました。私たちを愛するゆえに、神はそのような大きな犠牲を払ってくださったのです。
 このキリストの命に値段をつけることなどできません。救いの恵みは、私たちが支払うことなど出来ないほど高価なものです。だからこそ、価なしに受け取るしかありません。神は私たちが感謝して救いを受け取るようにと呼びかけておられます。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 年老いたアブラムとサライは、数え切れないほどの子孫が与えられるという神の約束を待ちきれず、女奴隷ハガルによってアブラムの子を産ませようとしました。子を宿したハガルはサライを見下しましたが、逆にサライのいじめに耐えきれず、逃亡してしまいます。身重であるにも拘わらず荒野を放浪したハガルは、絶望と孤独の極みにありました。
 しかしそんなハガルを神は放っておきません。疲れ果てた彼女を見つけ、温かく声をかけられました。そして彼女の高慢の罪を示し、悔い改めへと導いた上で、家に帰って主人の下で謙遜に仕えるように励ましました。そここそが、ハガルと生まれてくる子にとって最善の場所なのでした。さらに神はアブラムと同じ祝福の約束をハガルに与え、生まれてくる子に「イシマエル(主があなたの苦しみを聞かれた)」と名を与えてくださいました。
 その驚くべき恵みに感動したハガルは、「あなたはエル・ロイです。私は神と出会った。そのお方は私を見ていてくださる神であった!」と信仰に目覚めました。私は孤独ではなかった、神は見ておられ、私の祈りを聞いておられる!その恵みに勇気を与えられたハガルは、顧みてくださる神と共にアブラム夫妻のもとに帰って行きました。
 神は十字架の愛のまなざしで私たちを見ておられます。即ち、私たちの人生の深みにおいて、神のみ業が起こるのです。そこに厳しい現実を生きる私たちの慰めがあります。私たちの日々の出来事が、見ていてくださる神との出会いに繋がっていきますように。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 主イエスは荒野での断食の後、深刻な飢えを覚えました。その時、悪魔は「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」と語ります。それが可能ならば、良い提案にも思える言葉です。しかし悪魔は、神の言葉にではなく、自分の言葉に従わせることで、主イエスを神から引き離そうとしたのです。
 主イエスを信じ、神の子とされた私たちにも、悪魔の試みの声は響いています。痛みや苦しみの中で、「もし私が神の子なら、神はこの苦しみを取り去ってくれるはずではないか?」と自分の内なる声が語りかけます。私たちを神から、神の愛から引き離そうとする声です。
 主イエスは悪魔に対して、『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と、みことばをもって答えました。これは、「命を与える神の言葉に聴きなさい」という、私たちへの招きの言葉でもあります。
 厳しい現実の中、悪魔の言葉に聞いてしまいそうになる私たちですが、主イエスは、その生涯を通して、神の言葉こそ真実であることを示して下さいました。十字架の苦しみの中でも、「もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」との声にではなく、神の言葉に従い、十字架に留まり続けました。十字架は、みことばが真実であることを証ししています。神の言葉は、私たちが愛されている神の子であることを語ります。この言葉が、私たちを生かします。苦しみの日も、嘆きの日も、十字架を仰ぎ、悪魔の言葉ではなく、神の言葉に聴くことを選び取っていく私たちでありたいと願います。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)

 私たちの教会では、この年、4人の方々を天にお送りしました。いずれの方々も、突然、召されてしまいました。聖書の中で、突然死を迎えた人の代表は創世記5章に出てくるエノクです。彼はひたすら神と共に歩んだ信仰者で、「信仰によってエノクは」とヘブル書の信仰偉人伝に名を連ねるような人でした。
 ところが、神はそのエノクを普通の人の半分の寿命でその命を取ってしまわれました。「神が彼を取られたので、いなくなった」と創世記は記します。愛する人を突然奪われた家族の思いが表されているようです。「神が私たちの愛する人を取ってしまわれた」と。
 ところが、ヘブル書はこのエノクの突然の昇天について、創世記とは違う視点で語ります。「エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった」。いなくなったのではなく、神によって天に移されたのだ、と言うのです。地上からはいなくなったものの、移された天において、今も生きていることを告げています。
 私たちは、地上では旅人としての人生を歩んでいます。はるかにまさる天にある故郷を目ざして旅を続けています。そこは、私たちを造り、今も愛し続けていてくださる父なる神がおられます。私たち一人一人の帰りを、住まいを用意しながら待っておられるのです。
 先に天に帰られた私たちの先輩たちは、「ここに、あなたがたの帰る場所、本当の故郷がある」と私たちに語っています。だからこそ、私たちは共に信仰の目を上げて、天の故郷を見つめて生きる歩みを続けていこうではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 長い罪の記述が終わり、この21節から福音の核心が語られます。神の義が律法とは別に、福音によって示されたとパウロは語ります。人は律法を行うことによっては義とされないことが明らかとなったからです。
 それはイエス・キリストを信じる信仰による義です。このとき注意すべきことは、キリストを信じる私たちの側の信仰が私たちを救う条件となるのではありません。「信仰によって救われる」というとき、私たちは自分の信仰の確かさが救いのカギとなるように考えてしまいます。そのために、自分にはそのような立派な信仰などないと思ってしまいます。「信仰のみ」と言うとき、信仰という人間の側の行為によって救いが与えられるのではありません。
 22節の聖句は、ギリシャ語の原文をそのまま訳すと、「イエス・キリストの真実によって」となります。すなわち、イエス・キリストに対する私たちの信仰によるのではなく、イエス・キリストが持っておられる真実、あるいは信仰が私たちを義とするのです。主イエスが私たちの罪を負って十字架にかけられたことにより、真実を貫いてくださいました。そのキリストの真実、まことが私たち罪人に救いをもたらしてくださったのです。
 この神の義は、信じる全ての人に差別なく与えられます。信じるとは、神が差し出しておられる救いの恵みをただ受け取るだけです。自分にその資格があるか否かということにもはや拘らず、恵みを恵みとして受け取る、ただそれだけが求められています。それが私たちに必要な「信仰のみ」という態度です。私たちではなく、神が救ってくださるのです
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 長い罪の記述が終わり、この21節から福音の核心が語られます。神の義が律法とは別に、福音によって示されたとパウロは語ります。人は律法を行うことによっては義とされないことが明らかとなったからです。
 それはイエス・キリストを信じる信仰による義です。このとき注意すべきことは、キリストを信じる私たちの側の信仰が私たちを救う条件となるのではありません。「信仰によって救われる」というとき、私たちは自分の信仰の確かさが救いのカギとなるように考えてしまいます。そのために、自分にはそのような立派な信仰などないと思ってしまいます。「信仰のみ」と言うとき、信仰という人間の側の行為によって救いが与えられるのではありません。
 22節の聖句は、ギリシャ語の原文をそのまま訳すと、「イエス・キリストの真実によって」となります。すなわち、イエス・キリストに対する私たちの信仰によるのではなく、イエス・キリストが持っておられる真実、あるいは信仰が私たちを義とするのです。主イエスが私たちの罪を負って十字架にかけられたことにより、真実を貫いてくださいました。そのキリストの真実、まことが私たち罪人に救いをもたらしてくださったのです。
 この神の義は、信じる全ての人に差別なく与えられます。信じるとは、神が差し出しておられる救いの恵みをただ受け取るだけです。自分にその資格があるか否かということにもはや拘らず、恵みを恵みとして受け取る、ただそれだけが求められています。それが私たちに必要な「信仰のみ」という態度です。私たちではなく、神が救ってくださるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 教会がどのようにして主の御旨に従って物事を決めていくべきなのか、エルサレム会議と呼ばれる使徒行伝15章の大切な話し合いの中にそれが示されています。このとき、エルサレム教会のユダヤ人キリスト者と、異邦人伝道を進めるアンテオケ教会の人々との間で、異邦人がどのようにして救われるかについて大きな対立が生じました。主の御心を追い求めたからこそ、意見をぶつけ合ったのです。
 エルサレム教会の中心メンバーだったペテロが、アンテオケ教会の人々の主張を擁護するかのように、ユダヤ人も異邦人も、すべて主イエスの十字架によって救われるはずであることを語りました。すると、聴いていた人々は皆黙ってしまいました。話し合いを一時ストップし、神のみ声を聴こうとする沈黙でした。
 ユダヤ人たちにとって、今度は自分たちの意見と神の御心が対立する形となりました。このようなとき、私たちの信仰の根本が問われます。本当に「イエスは主」となっているか、と。自分の意見を押し通したいという思いに駆られるからです。
 議長役を務めていたヤコブは、勝手に結論を出さず、「私の意見では」と述べて、さらに皆の判断に委ねようとしました。どこまでも、話し合いの中に主の御心が示されると信じていたからです。ヤコブの意見を全会一致で受け入れた人々は、全教会に送る手紙に、「聖霊と私たちは……決めた」と記しました。自分たちの話し合いの中に、聖霊なる神が生きて働き、確かな導きを与えてくださったと告白したのです。今も、神を信じる者たちの話し合いの中に、主は御旨を表してくださいます。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 教会がどのようにして主の御旨に従って物事を決めていくべきなのか、エルサレム会議と呼ばれる使徒行伝15章の大切な話し合いの中にそれが示されています。このとき、エルサレム教会のユダヤ人キリスト者と、異邦人伝道を進めるアンテオケ教会の人々との間で、異邦人がどのようにして救われるかについて大きな対立が生じました。主の御心を追い求めたからこそ、意見をぶつけ合ったのです。
 エルサレム教会の中心メンバーだったペテロが、アンテオケ教会の人々の主張を擁護するかのように、ユダヤ人も異邦人も、すべて主イエスの十字架によって救われるはずであることを語りました。すると、聴いていた人々は皆黙ってしまいました。話し合いを一時ストップし、神のみ声を聴こうとする沈黙でした。
 ユダヤ人たちにとって、今度は自分たちの意見と神の御心が対立する形となりました。このようなとき、私たちの信仰の根本が問われます。本当に「イエスは主」となっているか、と。自分の意見を押し通したいという思いに駆られるからです。
 議長役を務めていたヤコブは、勝手に結論を出さず、「私の意見では」と述べて、さらに皆の判断に委ねようとしました。どこまでも、話し合いの中に主の御心が示されると信じていたからです。ヤコブの意見を全会一致で受け入れた人々は、全教会に送る手紙に、「聖霊と私たちは……決めた」と記しました。自分たちの話し合いの中に、聖霊なる神が生きて働き、確かな導きを与えてくださったと告白したのです。今も、神を信じる者たちの話し合いの中に、主は御旨を表してくださいます。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 パウロはこれまで語ってきたことの結論のようにして、「ユダヤ人もギリシャ人も、ことごとく罪の下にある」と言います。、「義人はいない、ひとりもいない」とあるように、神の前ではすべての人は罪人であるというのです。その決定的な態度は、神に対する畏れがないことです。神に造られた存在でありながら、神を畏れず、自分が神のようになって生きようとします。そこに人間の罪の根源があります。
 その上で、ユダヤ人が誇りとしていた律法の意義について、律法を行うことによっては義とされることはなく、「律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」と語りました。これは、それまでの律法理解を逆転させるものでした。ユダヤ人たちは、律法によって自分たちの正しさが証明されると考えていたからです。ところがパウロは、律法によって隠れていた罪が明らかになり、罪人であるとの自覚をもたらすことになる、とその意義を説明しました。これは、律法が態度を変えてしまったのではなく、人間の罪が律法をそのような役割を果たすものとしたのです。
 そして、「罪の自覚が生じるのみ」とパウロは語りましたが、私たちのうちに罪の自覚が生じたならば、これは大きな恵みです。そのとき初めて、自分の中には救いの可能性がないことが分かり、キリストによる救いを求めるようになるからです。  ルカ18章にあるパリサイ人と取税人のたとえにあるように、私たちは神に赦しを願い求めるしかない者たちです。神はそのような者たちに赦しを与えてくださいます。そして、神による赦しを信じるからこそ、その神を畏れ敬う者とされるのです
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)