「罪の自覚による救いへの道」
(ローマ3:9-20)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 パウロはこれまで語ってきたことの結論のようにして、「ユダヤ人もギリシャ人も、ことごとく罪の下にある」と言います。、「義人はいない、ひとりもいない」とあるように、神の前ではすべての人は罪人であるというのです。その決定的な態度は、神に対する畏れがないことです。神に造られた存在でありながら、神を畏れず、自分が神のようになって生きようとします。そこに人間の罪の根源があります。
 その上で、ユダヤ人が誇りとしていた律法の意義について、律法を行うことによっては義とされることはなく、「律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」と語りました。これは、それまでの律法理解を逆転させるものでした。ユダヤ人たちは、律法によって自分たちの正しさが証明されると考えていたからです。ところがパウロは、律法によって隠れていた罪が明らかになり、罪人であるとの自覚をもたらすことになる、とその意義を説明しました。これは、律法が態度を変えてしまったのではなく、人間の罪が律法をそのような役割を果たすものとしたのです。
 そして、「罪の自覚が生じるのみ」とパウロは語りましたが、私たちのうちに罪の自覚が生じたならば、これは大きな恵みです。そのとき初めて、自分の中には救いの可能性がないことが分かり、キリストによる救いを求めるようになるからです。  ルカ18章にあるパリサイ人と取税人のたとえにあるように、私たちは神に赦しを願い求めるしかない者たちです。神はそのような者たちに赦しを与えてくださいます。そして、神による赦しを信じるからこそ、その神を畏れ敬う者とされるのです
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)