私たちは自分の中にある罪の現実を見つめることを避け、まるで罪などないかのように生きようとします。けれどもパウロは、どんな人も言い逃れできない程の徹底した罪人であり、罪と死が全ての人を支配してしまっていると語ります。 
 そのように全人類に罪が及んだのは、最初の人アダムが罪を犯したことによります。アダムがエデンの園に置かれたとき、「善悪を知る木の実を食べてはならない、食べると死ぬであろう」と主に言われました。けれども妻エバが最初に食べ、誘われたアダムも同じように食べてしまいました。罪とは、神の言葉に対する不従順であり、神だけを神とせよ、という十戒の第一の戒めに反するものです。アダムが神の言葉に背いたとき、言われていたとおり、死が人間の中に入り込みました。 
 パウロがアダムをここで紹介するのは、全ての者たちはアダムの子であり、「原罪」と呼ばれるような罪の性質を生まれながらに負っているからです。アダムが罪を犯したとき、エバにその罪の責任を押しつけて自分を守ろうとしました。それと同じように、私たちは自分を守るために他者を平気で切り捨てるような自己中心性を持っています。アダムそのものの姿が私たちの中にあります。 
 そのような自らの罪の姿を素直に認めることができるのは、キリストによる救いを知っているからです。そのような罪人たちのために、御子キリストが十字架にかかってくださったという驚くべき恵みを知っているからこそ、罪の現実から目を逸らすことなく見つめることができます。私たちはルターが言うように、赦された罪人たちなのです。 
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 私たちは自分に注がれている神の愛を、身の周りに起こってくる出来事で判断しようとします。けれどもパウロが指し示す場所は違っています。御子キリストが私たちのために、私たちに代わって十字架で死んでくださったことにより、神の愛が示されたと語ります。
 私たちがその愛を受けたのは、「まだ罪人であった時」です。神の愛を受ける資格など全くない時に、キリストは私たちのために死んでくださいました。それがどれほど驚くべきことなのか、パウロは、正しい人のために死ぬ人などいない、情け深い人のためなら、あるいはいるかもしれない、しかし、罪人のために死ぬような人など決していない、ということを語りながら、キリストはそのような考えられない愚かなことをしてくださった、と語ります。私たちがまだ罪人であったとき、そればかりか、「私たちが敵であった時」、敵対する私たちのために、キリストが十字架にかかってくださったと述べます。これこそ、神が私たちに注いでいてくださる本物の愛である、と。
 パウロは自らの人生を振り返りながら、実感を込めてこれを語ります。パウロ自身、かつてはキリスト者を迫害し、キリストに敵対して生きていました。しかし、ダマスコ途上で復活の主と出会い、救いへと招かれました。悔い改めたパウロではなく、罪のただ中にいたときに、罪人のかしらであったときに、パウロを招き、救いへと入れてくださいました。
 この神の愛が分かるとき、私たちは患難の中でも耐え忍び、神を喜びつつ生きることができます。愛の神は私たちを決して捨てることがないからです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 主イエスの十字架の死と埋葬を見届けた女性の弟子たちが、安息日が終わった日曜日の朝、墓へとやってきました。主イエスの復活を期待してやってきたのではなく、主イエスの亡骸に香料を塗りつつ、その死を悲しみ嘆くために来ました。彼女たちも主イエスが復活されることを聞いてはいましたが、とても信じることなどできませんでした。
 ところが、彼女たちの予想を裏切るような出来事が起こりました。墓に着くと、大きな地震が起こり、み使いが天から下り、墓の入り口を塞ぐ大きな石を転がし、その上に座りました。恐れ戸惑う彼女たちに、み使いは主イエスの復活を告げ知らせました。「恐れることはない。あなたがたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わたしにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたとおりに、よみがえられたのである」。女性たちは、主イエスの亡骸を目当てにやってきましたが、その期待は完全に裏切られたというのです。主は甦られたため、死者が住む世界である墓にはおられない、というのです。
 み使いの言葉に、彼女たちの中で命を失っていた主イエスの言葉が甦りました。そのとき、彼女たちの中で主イエスが甦り、また悲しみに沈んでいた彼女たち自身も甦り、大喜びで、他の弟子たちに喜びの知らせを告げるために走り出しました。
その途中、復活された主イエスが彼女たちに出会い、「喜びあれ」と声をかけられました。主が死から甦られたからです。私たちも、毎週の礼拝において甦りを経験します。復活の主にお会いするとき、喜びの中に生きることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 主イエスがパリサイ人シモンの家に食事に招かれたとき、罪の女が入って来て、主の足もとに行き、涙でその足をぬらし、髪の毛でふき、足に口づけし、香油を注ぎました。
 これを見ていたシモンは心の中でこの女をさげすみ、されるがままの主イエスに対しても非難の目を向けました。罪の汚れが移るような行為をされるままにするのは預言者らしくない、というのです。
 そこで主イエスは一つのたとえをシモンに話されました。ある金貸しに500デナリと50デナリを借りていた二人の人がいたが、二人とも返すことができなかったので、この金貸しは二人の借金を帳消しにしてあげたというのです。聖書では、よく罪は負債にたとえて語られます。私たちは皆、返すことが出来ないほどの大きな負債を神に対して負っている者たちです。それにもかかわらず、私たちはお互いの罪の大きさを比較して、自らを誇り、また他の人を蔑んだりします。私たちは皆、神の前では同じ罪人なのです。
 主イエスはこのたとえの後、シモンに対して、「二人のうち、どちらの人が多く金貸しを愛するか」と問われました。シモンは正しく、「多く赦された人です」と答えました。主イエスは続けて、この女の行為について、多くの赦しを受けているからこそ、多くの愛を表したのだと語られました。この女の行為を、赦しを与える主への感謝を表す愛として受け止められたのです。
 主イエスは私たちの罪を赦すため十字架にかかり、愛を注いでくださいました。私たちも多くの罪を赦された者たちです。それゆえ、私たちは主に愛を表して生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ガリラヤ湖のほとりを歩いていた主イエスは、湖で漁をしているペテロとアンデレをご覧になり、彼らの日常に入り込むようにして、「わたしについてきなさい。」と声をかけました。すると彼らは、すぐに網を捨てて主イエスに従いました。漁師という仕事を捨て、主イエスの弟子となる道を選んだのです。
 彼らは、漁師として代わり映えのしない日々を送りながら、思い通りにならない現実や、突然の痛みや苦しみを経験する中で、将来への希望と生きる意味を見失っていました。日々の生活の中に、神がおられなかったからです。主イエスは、暗黒と死に支配されて生きていた彼らに、希望といのちを与るために、彼らの生活の中にまで入ってこられました。彼らの人生に伴い、彼らと共に歩みたいと、強く願われたのです。
 「わたしについてきなさい。」これは、「わたしはこれから、どんな時にもあなたと共にいよう。」という約束の言葉です。主イエスの言葉から希望といのちを受け取ったペテロとアンデレは、大きな喜びをもって主イエスに従っていきました。
 今、主イエスは、聖霊によって私たちの生活の中にもおいでになって「わたしについてきなさい。」と招いておられます。どんな時でも、主イエスは私たちと共におられ、愛の御手をもって導いて下さいます。ここに、私たちの希望があります。主イエスが与える希望とは、「たとえ明日が嵐の日であっても、それも、私を愛しておられる方の手の中にある」と信じられることです。私たちは主イエスの言葉によって、未来への不安から解放されて、今を精一杯生きるようになるのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)

 パウロは神との平和が与えられた者として、「患難をも喜んでいる」と語ります。患難の中でも喜ぶというのではなく、患難そのものを喜ぶと言います。わたしたちは苦しみは喜びを奪い去るものとして、急いで取り除きたいと願うものです。
 パウロは、患難をも喜ぶ理由として、「患難は忍耐を生み出し」と説明を始めます。大きな苦難に襲われるとき、そこから逃げ出したいと思うものですが、神を信じる者たちは、なおそこに踏みとどまります。苦しみの中にあって、神の目が注がれていることを信じるからです。
 さらに、「忍耐は錬達を生み出し」と続きます。錬達とは、金属を熱して不純物を取り除くことを意味します。苦難を耐え忍ぶことをとおして、信仰における不純物が取り除かれていき、本物の信仰者へと形づくられていく、ということです。これらは工場で製品が造られるときのように自動的に生み出されるものではなく、神の御手の中で時間をかけて整えられていくものです。
 そして、「錬達は希望を生み出す」と続きます。それは自分の可能性にかける希望ではなく、「神が確かにおられる」という信仰に基づく希望です。パウロは、「希望は失望に終わることはない」と断言します。
 その理由として、「わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」と言います。どんなに大きな苦しみが襲ってきても、御子キリストを十字架に与えてくださった神の愛は決して変わることなく、わたしたちを裏切ることはありません。この神の愛に支えられて、苦難をもくぐり抜けることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ぶどう園のある主人が労働者を一日1デナリという契約で雇うために、求職中の人々が集まる広場に出かけました。朝の6時、9時、12時、午後の3時、仕事が終わる1時間前の夕方5時と、主人は何度も広場に足を運び、次々とぶどう園に連れて行きます。そして労働時間の長さ、仕事の量、努力と苦労の違いに関わらず、全員に1デナリを払いました。
朝一番で雇われた人たちは、それは不公平ではないか!と主人の気前の良さに文句を言いましたが、主人は「最後の人にもあなたと同様に払ってやりたいのだ」と諭しました。
 このたとえ話の主人は神であり、雇われた人はわたしたちです。そしてこの1デナリは「救い」です。神はどんな人にも救いを与えてくださるお方です。その救いは人間の頑張りや働き、良い行いに対する報酬として与えられるものではありません。わたしたちは救われるに値しません。しかし全くふさわしくない者であるにも関わらず、ただ主イエスの十字架の恵みによって救われるのです。
 最後に滑り込んで1デナリを与えられた人は、自分のような者が他の人と同じように受け入れられ、愛され、同じ恵みを受けたことに気づいた時、主人の気前のよさにどんなに感謝したことでしょうか。それは、神の一方的な恵みによって愛され、罪赦されて神の子としていただいたわたしたちの姿です。神はこの気前のよすぎる愛、1デナリという名の救いを差し出しながら、「さあ、私のもとに来なさい」とわたしたちを招いておられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 信仰によって義とされた恵みについて、「神に対して平和を得ている」とパウロは表現しました。この平和とは、心に感じる平安ということではなく、神との間に平和の関係が築かれていることを意味します。この言葉は、ヘブル語の「シャローム」という言葉の意味を受け継ぎ、ただ争いがない状態ではなく、満ち足りて完全に良い状態を表します。
 このように語るのは、救われる以前は、神との間に不和があり、敵対関係にあったことを前提としています。わたしたちの問題は、自分が神に敵対していることに気づいていないことです。しかし、聖書が語る罪とは、わたしたちを創造された神を無視して生きることです。そのとき、人は神ならぬものを神とし、それを頼みとして生きてしまいます。それが神に敵対している人間の姿です。
 そのように神に敵対している者たちは、自分の力で平和を得ることはできません。パウロは、この平和は主イエス・キリストによって与えられたと語ります。それは「神との和解を受けた」(10)ということです。その和解は、神とわたしたちの両者がそれぞれ歩み寄って和解した、というのではありません。父なる神が御子キリストをこの世に遣わし、わたしたちの身代わりとして十字架にかけてくださいました。神の一方的な恵みのわざによって、わたしたちに和解がもたらされたのです。
 わたしたちにできることは、差し出された恵みを感謝して受け取るだけです。パウロは、キリストによってもたらされた神との平和を手放すことなく、そこに留まり続けるようにと勧めます。わたしたちには神との平和が与えられているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 信仰によって義とされたアブラハムについて、パウロは「死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じた」と語ります。「死人」とは、年老いていたアブラハムは、もはや新しい命を生み出す可能性はなかったことを示します。アブラハムもサラも、「望み得ない」状態になっていたのです。
 このため、神の約束の言葉を聞いたとき、アブラハムもサラも、神の言葉を笑いました。自分たちの体の衰えに絶望していたため、神の言葉を笑うしかなかったのです。
 このような絶望状態から、本当の信仰が生まれました。それは自分の力への信仰ではなく、神だけを頼みとする信仰です。自分たち内には可能性がないことを認めながらも、それに囚われず、自分たちの状況を絶対化しないのです。絶望を信じず、疑いを疑うところから、その信仰が生まれます。それが「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた」という態度です。
 アブラハムがそのような信仰に立つことができたのは、自分の力によるのではありません。「かえって信仰によって強められ」とあるのは受け身であり、神がアブラハムを強めてくださったということです。それは神がアブラハムの不信仰をも絶対とせず、彼の疑いを笑い飛ばしておられたからです。そして、疑うアブラハムに繰り返し約束の言葉を語られました。この神の信仰に押し切られるようにして、「あなたの言葉は真実です」と受け止めました。
 私たちが救われるのも、自分の力によってではありません。神の力強い福音の言葉によって向きを変えさせていただくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 自分たちの正しさを主張する祭司長やパリサイ人たちを前にして、主イエスはたとえで話されました。ある父親が二人の息子たちにぶどう園へ行って手伝うようにお願いしました。すると、兄は「はい」と返事をしたものの、実際には行きませんでした。一方の弟は、「嫌です」と一度は断ったものの、あとで心を変えて手伝いに行きました。
 このたとえ話は、神の目に映る人間の姿を描いています。祭司長たちは神に従っているように見えながら、実際には神の心に背くような生き方をしていました。それに対して、罪人と呼ばれる取税人や遊女たちは、心を変えて神のもとへ帰ってくることによって、父なる神の望みどおりのことをしたのです。
 主イエスはこれを語りながら、わたしたちが同じように心を変えて父なる神のもとへ立ち帰るようにと呼びかけておられます。ところがわたしたちは、素直に心を変えて神のもとへ帰ることができないことがあります。神のことを気むずかしい父親であるかのように誤解して、そう簡単には受け入れてくださらないように思っているからです。
 しかし、主イエスが紹介しておられる父なる神は、あとで心を変えて戻ってくる者に対して、「わたしの望みどおりにしてくれた」と喜んで迎え入れてくださるお方です。だからこそ、わたしたちは勇気をもって神のもとへ帰ることができます。
 そして、神のもとへ帰ることにおいて、遅すぎることは決してありません。主イエスと一緒に十字架にかけられた強盗が、死の間際に悔い改めたように、神は最後までわたしたちの立ち帰りを待っておられます。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)