私たち人間にとって、死は克服しがたい最大の敵です。「死の力を信じる」と言ってもいいほどに、死の力に支配されて生きています。パウロが手紙を書き送ったコリントの教会にも、死の圧倒的な力を信じて、死人の復活を信じることができない人々がいました。キリストの甦りは信じても、死人の甦りは信じることができないでいたのです。
 パウロは、キリストの甦りと人間の甦りは別物ではなく、キリストの甦りを信じるなら、当然、死人の甦りを信じるはずだと述べます。死人の甦りを否定することは、キリストの甦りを否定することになるからです。そしてもし、キリストが甦らなかったとしたら、私たちの信仰は土台から崩れてしまいます。私たちは今なお罪の中に生きていることになってしまいます。なぜなら、死はキリストをも呑み込んでしまったことになり、キリストは支配者ではなく、死こそ支配者だということになるからです。
 問題の焦点は、神が十字架につけられたキリストを甦らせたのかどうか、という一点にあります。事実、聖書に書いてあるとおり、キリストは死から復活されました。私たちの罪のために十字架で死なれたキリストを、神が甦らせたのです。それは、私たちの罪の赦しを神が承認してくださった、ということです。私たちを罪と死の支配から解放するために、御子キリストは十字架にかかり、甦られたのです。
 キリストの甦りのゆえに、死はもはや私たちの支配者ではなくなりました。復活して今も生きておられるキリストこそ、私たちの人生の支配者、主となってくださったのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 12弟子のひとりであったユダは、主イエスこそ、イスラエルをローマの植民地支配から解放する王であると信じていました。しかし期待外れの主イエスに失望したユダは、わずか銀貨30枚で、主を祭司長たちに引き渡してしまいました。
 最後の晩餐の席で主イエスは、「人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」。と仰いました。私たちも、自分の思い通りにならないなら主イエスなどもういらないと言って、神がせっかく与えてくださったひとり子を、その愛と命を捨ててしまうことがあります。それは、生まれてこなかったほうがよかったと言わなければならないような、重大な罪なのです。
 しかし、「わざわいである」とは「ああ」という嘆きの言葉であり、主は罪深い私たちを、子どもに背かれた母の嘆きにも似た悲痛な心で、悲しんでおられます。そして、私のもとに帰って来なさいと、愛と赦しをもって招いておられるのです。
 「自分の思いや期待とは違うというつまずきを乗り越えて、私に従ってくるのか、それとも、イエスなどもういらないと私を捨てるのか、あなたはそれを自分で決めなければならない。そして私は、今でもあなたを愛する弟子として招き続けている。ずっと待っている」、そのように主は私たちに語りかけています。
 私たちの罪を赦すために、その尊い命を惜しげもなく捨ててくださった主イエスです。私たちは、たとえどのような罪を抱えていても、決して見捨てることなく招き続けてくださる主の愛に、安心して飛び込んで生きていこうではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 十戒の中の第一戒は、その後に続く九つの戒めの土台となるものであり、私たちの信仰生活の第一ボタンとも言うべきものです。ここを外しては、信仰生活は成り立たなくなってしまいます。
 その第一の戒めは、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」です。主を礼拝しながら、他のものをも同時に拝むようなことがあってはならない、ということです。エジプトに長い間住んでいたイスラエルの民には、かつての偶像礼拝の生活へと逆戻りする危険がありました。だからこそ、まず初めに、神だけを神とするように命じる必要があったのです。
 私たちキリスト者は、救われたときから、もはや他の偶像の神を拝むようなことはなくなったことでしょう。しかし、神という名がついていなくても、被造物に過ぎないものをまるで神であるかのようにして生きてしまうことがあるのではないでしょうか。お金や富をはじめ、地位、名誉、評判などあらゆるものを神としてしまいます。すなわち、父なる神以上に私たちが寄り頼む存在があるとすれば、それが私たちにとっての神となっている、ということです。その究極は、自分が神になって生きようとすることです。
 この第一戒は、私たちをそのようなところから回復させるところの悔い改めへの招きです。私たちのために十字架にかかってくださった主イエスを「私の神、私の主」として生きるようにと招きます。命まで与えてくださったお方以外に、私たちには神は必要ではなくなったのです。十字架の主のみ前に、「あなたこそ主」とひれ伏したいと願います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 十戒と聞くと、神からの厳しい戒めというイメージを持っている方がおられるでしょう。この十戒を正しく理解するためには、その前文にあたる2節の言葉を正しく受け止めることが必要です。
 神は契約を結ぼうとしている民に大切な言葉を語るにあたり、自己紹介をされました。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」。神はイスラエルの民に向かって、「わたしはあなたの神である」と告げられました。民の熱心さによるのではなく、ご自分のほうからそのように名乗り出てくださったのです。
 しかもそのお方は、彼らを奴隷となっていたエジプトの地から解放してくださった救い主であるというのです。そのように語られることによって、主はイスラエルの民を宝の民として愛しておられることを明らかにされました。そのような神が語られる言葉は、たとえどのように厳しい言葉であったとしても、彼らを苦しめる意図をもって語られるはずなどありません。彼らが健やかに生きることをひたすら願って語られる、命の言葉です。
 この主の言葉は、私たち一人一人に対する語りかけでもあります。神は私たちを宝と見なし、そのために御子キリストをお与えくださいました。キリストが十字架で命をかけて救い出してくださった私たちに対する言葉は、常に愛に基づく言葉です。たとえどんなに厳しい言葉であっても、私たちの救いを願い、祝福を願って語ってくださる言葉です。私たちはその愛に応えて生きるようにと招かれているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 12年間も難病を患っていた女性がいました。彼女は律法によって汚れた者とされ、社会から隔離されて大きな苦しみを負っていました。しかしある日、せめてみ衣にでも触れば治していただけるだろうと信じて主イエスにそっとふれると、その病気はたちまち癒やされたのでした。
 主イエスは彼女に、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」とおっしゃいました。
 彼女の信仰とは何でしょうか。それは彼女が、本来は信仰と呼べないようなやり方かもしれませんが、それでも主イエスの救いをひたすら願って、すがるように手を伸ばしたことです。主イエスを求め慕う思いがちょっと間違っているなら間違っているままで、しかし、このお方にこそ私を救う力があると信じて、彼女は主イエスに全てをかけました。
 すると自分ではそれを信仰などとは思っていなくても、主イエスの方で、「これがあなたの信仰だ。その信仰に私は喜んでこたえる」と言ってくださり、恵みのみ業を現してくださったのでした。
 私たちの姿勢も、本来の信仰のあり方からすれば相応しくないかもしれません。しかしそれでも、ただひたすら主に頼って主の服に触るような礼拝をささげるとき、主は「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言ってくださいます。そして「人生のあらゆる問題や苦悩や矛盾を、神の恵みにすっぽり包み込んでもらって、あなたは安心して生きていくことができるのだ」と、私たちの人生を保証してくださるのです。
 この励ましのみ言葉を聞きつつ、私たちもただひたすらに、主に寄り頼んでいこうではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 主イエスのもとに多くの罪人、取税人が集まっているのを見た律法学者やパリサイ人たちが、主イエスの態度を非難しました。そのような人々は、神に捨てられても当然の者たちであって、主イエスのように人々に律法を教える教師たる者が関わるべきではない、と言うのです。

 これに対して主イエスは、譬え話をもって律法学者たちの誤りを指摘されました。百匹の羊を飼っていた者が、そのうちの一匹がいなくなったら、その一匹を捜し歩かないであろうか?と。自分の力では帰ってくることができない羊のために、九十九匹を野原に残して、見つかるまでその一匹を捜し歩くに違いない、と語ります。そして、見つけたなら、大喜びで帰ってくるであろう、と。
 そのように、天の神にとって、「このような部類の人間は捨てられても仕方がない」というような人は存在しない、ということです。神は、ご自分のもとから離れ、失われてしまっている人々のことを、痛みと悲しみをもって捜し求めておられます。私たち一人一人は、神によって捜されている者たちです。神にとって、滅ぼされてもいい人など一人もいません。失われた一人をどこまでも捜し求めるお方です。
 これを語られた主イエスは、私たち失われた者たちを捜すために、人となってこの世に降りてきてくださいました。そればかりか、私たちを救い出すために、十字架でご自分の命を捨ててくださいました。
 神を信じるということは、「この私も神によって捜されている」と認め、受け入れることです。主の招きに応えて、父なる神のもとに帰ろうではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ここでは、神が私たちの内に住み、私たちも神の内に生きるという、神の内住と臨在の恵みが語られています。13節にあるように、父なる神と主イエスの内住は、聖霊の内住によって実現します。聖霊は、父なる神の霊であり、主イエスの霊だからです。私たちは、聖霊の内住によって神との交わりが回復され、互いに愛し合う者へと変えられるのです。
 しかし現実には、愛に生きるどころか、対人関係において、苛々や不満、怒りや憎しみなどに囚われてしまう私たちです。このため、自分の内には聖霊がおられないように感じてしまうのです。しかしヨハネは、「だれでも、イエスを神の御子と告白するなら」(15節、新改訳)、その人の内に聖霊が住まわれる、という約束を語ります。これは、父なる神が救いに必要なことを全て備えて下さったからです。神は大切な独り子を、世の救主としてお遣わしになりました。聖霊の内住を妨げる根本の原因である罪を贖うためです。遣わされた御子は、私たちの罪を全て背負って、十字架に命を捨てて下さいました。このイエスを神の子、救い主と告白する者の内には、聖霊なる神が住んで下さるのです。
 聖霊は決して私たちをお見捨てにはなりません。どんなに汚い心の中にも住み続けて下さいます。これは、父なる神が、主イエスが、どんな時でも私たちと共にいて下さるということです。神は、御子と聖霊を賜ったほどに、私たちを愛して下さいました。私たちは、この愛を受け入れ、「イエスは主」と告白するようにと招かれています。そしてこの告白は、私の内に聖霊が住んでおられることの確かな証でもあるのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直兄)

 私たちの教会の名誉牧師・山口明雄先生が昨日天に召されました。その山口先生の愛唱聖句の一つが、「生れてからきょうまでわたしを養われた神」というこのみ言葉です。
 これは、死の床についていたヤコブが、息子ヨセフの訪問に際して、孫への祝福の祈りの中で最初に口にした言葉です。「養われた」とは、「羊を飼う」という意味です。ヤコブは自ら羊飼いだったことから、羊飼いが羊のためにどんなに苦労して世話をするか良く知っていました。羊は人間に最も飼い慣らされた動物で、人間の世話がなければ生きていけない動物です。ヤコブは主なる神を羊飼いにたとえながら、自分はその羊であると認めたのです。
 「押しのける者」という意味の名を持つヤコブは、兄を押しのけて長子の権を奪い取り、家を飛び出して伯父ラバンのところに転がり込んだ後は、逆にラバンに苦しめられ、その後は子どもたちのことで苦労を重ねることになりました。そのようなヤコブに対して、主は見捨てることなく、羊飼いであり続けてくださった!と感謝したのです。そして、ヨセフたちに対して、この神を頼みとして生きて欲しいと、神による祝福を手渡したのです。
 山口先生の88年の生涯は、14才のときの出兵から始まり、苦労の連続で、大病を患って何度も死の淵を通りました。その人生を振り返ったとき、先生はこのヤコブの言葉に自らの人生を重ね、羊飼いなる主に感謝をささげられたことでした。
 山口先生をそのように支えられた神を私たちの主と仰ぎ、「生れてからきょうまでわたしを養われた神」と呼ぼうではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 エジプトを出たイスラエルの民がシナイ山のふもとに来ると、主は彼らと契約を結ぶことを提案されました。それは、主が彼らの神となり、イスラエルが神の民となる、という特別な関係に入ることを意味しました。そのことを、「あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう」と言われています。
 神の宝の民となることが何を意味するのか、その一つは、「聖なる民」となることです。この聖とは、神のために特別に区別されることです。それは、神の一方的な恵みによる選びです。彼らが特別に優れていたわけではなく、むしろ、他の民族に比べても、力のない小さな存在でした。それにも関わらず、神はイスラエルを特別に選んで、彼らをご自分の民とされたのです。
 そのようにイスラエルを選ばれたのには、目的、意図がありました。それが、「あなたがたはわたしに対して祭司の国となり」と言われていることです。祭司とは、神と民との間に立って、両者を取り持つ働きをする役目が与えられています。イスラエルは、神と他民族との間に立ち、神の恵みを取り次ぐ働きをするようにと言われたのです。アブラハムに告げられたのと同じように、イスラエルは祝福の基となり、彼らをとおして他の民族が神の恵みにあずかるように、神は彼らを選ばれたのです。
 私たちキリスト者は、「新しいイスラエル」と言われます。私たちは神の聖なる民であり、祭司の務めが与えられています。神はそのように私たちを宝と見ておられます。私たちのために命を捨ててくださった主の恵みに応えて、主を宝として生きる私たちでありたいと願います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 私たちは大きな苦しみ、悲しみに直面すると、「もうどう祈ったらいいか分からない」ということを経験します。祈ろうとしても、祈りの言葉が見つからなくなるのです。そのようなときに出来るのは、ただうめくことだけです。言葉では表現できない心の内にある思いをそのまま表すのが「うめき」です。
 私たちがそのような状態に置かれるとき、祈ることさえ出来ないのは、自分の不信仰のためであると、自らを責めてしまうことがあります。けれどもパウロは、それは「私たちの弱さ」だと言います。限界を持つ人間ゆえの弱さだというのです。
 そしてそのとき、御霊はそのような弱い私たちを助けてくださると告げるのです。祈ることができない私たちに代わって、聖霊なる神が自らうめきながら、父なる神にとりなしてくださるのです。私たちは御霊のうめきを聞き取ることはできません。けれども、信じることができます。苦しみ、悲しみのただ中にあってうめくとき、御霊が私たちに寄り添い、私たちのうめきを神にとりなしていてくださる、と信じるのです。
 御霊は、御旨にかなうとりなしをしてくださいます。そして父なる神は、御霊のうめきを聞き取り、私たちのために最善のわざをなしてくださいます。そのとき、28節の聖句が実現するのです。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」。
 このような神が与えられているからこそ、私たちはどんなときも、心からの信頼を込めて、「アバ、父よ」と神を呼ぶことができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)