十戒の第四の戒めでは、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と主は語られました。そして、神が定められた安息日にはすべての働きを休むようにと命じられています。すべてのわざを休むのは、ただ何もしないでじっとしているためでなく、神の御前に出るためです。安息日は、私たちの造り主である神の前に出る日、礼拝をささげる日です。それは神のもとに帰ってくる日と言えるでしょう。主が私たちに、「わたしのもとに帰って来なさい」と招いておられるのです。
 そこで問題となるのは、私たちにとって、神のふところが安息の場となっているか、ということです。神ご自身が、私たちにとって慰めや安らぎの存在となっているか。最初の人アダムがそうであったように、神の前に出ることが私たちにとって恐れになることがあります。罪のゆえに、自分は神の前に出ることなどできないと思ってしまうのです。神に裁かれるに違いないと思い、神の前に出る礼拝が、安息をもたらすよりも、苦痛とさえなってしまいます。
 しかし、もともと神の前に出る資格のある人など一人もいません。その資格のない者たちを招くために、御子イエスがこの世に降ってきてくださいました。あの十字架によって私たちをとりなし、神に近づくことができる者としてくださいました。このキリストの命をかけたとりなしのゆえに、私たちは神の前に安心して帰ってくることができるのです。
 主は毎週、「わたしのもとに来なさい」と私たちを招いておられます。こんな罪人をも受け入れてくださる神がおられるからこそ、安心して神のもとに帰ることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 74年前の今日、6月26日、全国のホーリネス系の教会に対する弾圧事件が起こり、教会は解散を命じられ、多くの牧師たちは検挙され、投獄され、獄中死した者たちも出ました。
 このダニエル書には、そのときと同じようなことが起こっています。金の像を造らせたバビロンのネブカデネザル王は、すべての国民に対してその像に向かってひれ伏すように強要しました。国民を掌握するのに宗教の力を利用したのです。
 ところがこのとき、ユダヤの地から捕囚民として来て王に仕えていたシャデラク、メシャク、アベデネゴの3人の若者たちは、王の命令に背き、金の像に向かってひれ伏すことをしませんでした。怒った王は3人を呼び寄せ、命令に従わない場合は燃える炉の中に投げ込むと脅し、偶像礼拝を強要しました。しかし、3人は王の圧力に屈することなく、断固として偶像礼拝を拒否しました。このため、王によって燃える炉の中に投げ込まれることになりました。
 「たといそうでなくても」と述べて、偶像礼拝を強要する王の命令を退けた3人の若者たちの言葉を前に、私たちは立ちすくむ思いです。自分の身に危険が及んだ場合、信仰を明確に告白することを躊躇する思いが生まれてしまう弱さを持っていることを自覚しているからです。
 主イエスが捕らえられたとき、やはり自らを守るために主を否定してしまったペテロに対して、復活された主は3度、「私を愛するか」と問い、「私に従って来なさい」と言われました。つまずき倒れてしまう者たちをなおも捨てない主がおられます。私たちは何度でも立ち上がり、主に従って行きたいと思います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 イスラエルで朝の挨拶を交わすとき、「ボーケル・トーブ」と言います。「トーブ」とは、「良い」という意味のヘブル語です。聖書でこの言葉が最初に出てくるのが、天地創造の物語です。神が天地を創造されたとき、造られたものを見て、その度に「良し(トーブ)」と言われました。六日目に人間を造られたときには、「非常に良い」と言われました。私たち人間は、お互いの間で優劣の評価を付けて生きています。しかし神は、「あなたはすばらしい」と言ってくださいます。神に造られた人間の祝福の原点がここにあります。
 その神は、信仰の父と呼ばれたアブラハムに対して、「あなたは祝福となる」と宣言されました。その神の指示に従ってアブラハム一族が移住してきた場所は、必ずしも祝福にあふれた所には見えませんでした。そのとき神はもう一度、祝福の約束を告げられました。それに対して、アブラハムは、「アーメン」と信仰をもって受け止めました。
 このアブラハムの祝福は、イエス・キリストを信じる者たちにも与えられると約束されました。そのために、御子イエスは十字架にかかってくださったのです。
 この神の祝福を信じる者たちは、神がなさることのすべてを肯定的に受け止めることができるようになります。私たち人間の世界では、失敗と思えるようなことが起こってきます。しかし、神は決して失敗をなさるお方ではありません。失敗と思えるような事柄をも、益に変えることができるのです。
 私たちは、「あなたは祝福となる」というこの神の約束を信じて生きる人生を歩んでいきたいものです。
(茅ヶ崎教会 中道善次牧師) イスラエルで朝の挨拶を交わすとき、「ボーケル・トーブ」と言います。「トーブ」とは、「良い」という意味のヘブル語です。聖書でこの言葉が最初に出てくるのが、天地創造の物語です。神が天地を創造されたとき、造られたものを見て、その度に「良し(トーブ)」と言われました。六日目に人間を造られたときには、「非常に良い」と言われました。私たち人間は、お互いの間で優劣の評価を付けて生きています。しかし神は、「あなたはすばらしい」と言ってくださいます。神に造られた人間の祝福の原点がここにあります。
 その神は、信仰の父と呼ばれたアブラハムに対して、「あなたは祝福となる」と宣言されました。その神の指示に従ってアブラハム一族が移住してきた場所は、必ずしも祝福にあふれた所には見えませんでした。そのとき神はもう一度、祝福の約束を告げられました。それに対して、アブラハムは、「アーメン」と信仰をもって受け止めました。
 このアブラハムの祝福は、イエス・キリストを信じる者たちにも与えられると約束されました。そのために、御子イエスは十字架にかかってくださったのです。
 この神の祝福を信じる者たちは、神がなさることのすべてを肯定的に受け止めることができるようになります。私たち人間の世界では、失敗と思えるようなことが起こってきます。しかし、神は決して失敗をなさるお方ではありません。失敗と思えるような事柄をも、益に変えることができるのです。
 私たちは、「あなたは祝福となる」というこの神の約束を信じて生きる人生を歩んでいきたいものです。
(茅ヶ崎教会 中道善次牧師)

 第四戒において、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と主は命じられました。「聖とする」とは、区別する、取り分ける、という意味です。もともと、人間とはかけ離れた存在である神の属性を表す言葉ですが、その神のために人や物などを区別することを聖別すると表現します。天地を創造されたとき、そのわざを休まれた第七日を神が聖別されたように、あなたがたもこの日を聖別しなさい、ということです。
 この戒めを理解する上で心に留めるべきことは、これはイスラエル社会全体に対する戒めであるという点です。家族全体、地域社会全体に「この日を聖別する」という共通理解があって初めて、個々人がこれを守ることが可能となります。
 その意味において、異教社会にある現代の日本の国において、私たちキリスト者が主の日を聖別することは、なかなか難しいものがあるでしょう。私たちの家族をはじめ、世の人々は十戒の教えとは異なる論理のもとで生きているからです。
 そこでなお、この戒めを守ろうとするとき、そこに信仰の戦いが必要です。この世は私たちに対して、主の日を聖別することを止めさせようとします。そのような中で、主の日を聖別することは、「イエスこそ私たちの主人です」という信仰を告白することを意味します。
 それができるのは、私たちが神に救われ、聖なる民とされているからです。主イエスが十字架で命をかけて私たちを買い取ってくださり、神のもの、聖なる民としてくださいました。その恵みに答えて、私たちは自らの存在をかけて、「あなたこそ私の主」と告白していくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 十戒の第四の戒めとして出てくる「安息日」という言葉は、「中止する」という意味の言葉から来ています。それまでのすべての働きを中止する日が安息日です。天地を創造された主が、第7の日には働きを止めて休まれ、その日を特別に安息日として記念されました。31章には、安息日の規定を破る者は必ず殺される、とさえ言われています。すなわち、私たちの命に関わるほどの大切な戒めであるということでしょう。
 神がこのように厳しく命じられるのは、私たちが神に命じられなければ、自ら休むことをしないからです。私たちは、神のみ前に自ら進み出て、心と体と魂を休息させることをなかなかしようとしないものです。もし、一週間のうちで日曜日のこの時間に礼拝をささげる、ということが決まっていないとしたら、私たちは自発的にどこかの時間を取って礼拝に集うことができるでしょうか。次々と用事が入り、普段の働きを一時中断し、神の前に静まるということをしなくなってしまうのではないでしょうか。そのように休むことのできない私たちに対する、これは神によるドクターストップです。「そのままではあなたがたは人として死んでしまう」と主は告げられるのです。私たちを愛するからこそ、主はあえて静止の命令をされるのです。
 神の命令に従い、週に一度、それまでの働きを止めて、神のみ前に自らを休めます。私たちが自らのわざをやめるとき、そのときこそ、私たちの内で神の霊が豊かに働いてくださいます。み言葉をとおし、私たちを造り変える再創造のわざを神がなさいます。礼拝によって、私たちは新しい命に生かされるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ヨハネの手紙は「互に愛し合いなさい」という神の戒めを、繰り返し語ります。神の戒めを守ることが、神を愛することだからです。しかし当時の教会には、「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む人たちがおりました。憎しみは、当時に限った問題ではありません。聖書の「憎む」という言葉は、憎しみの感情だけでなく、「軽く見る」、「蔑(ないがし)ろにする」という意味も含みます。相手の存在を大切にしないことで、愛とは正反対の態度です。
 些細な事で憎しみの感情を抱え、気づかない内に他者を蔑ろにしてしまう私たちです。互いに愛し合うことは困難に感じることです。しかしヨハネは、神の戒めは難しくないと語ります。それは、「すべて神から生まれた者は、世に勝つ」からです。
 世は、罪のゆえに神を憎みます。しかし神は、そんな世を愛し、大切な独り子を世の救い主として遣わして下さいました。私たちは皆、世の一員です。戦いの相手である世は、私自身であり、私の内にある憎しみなのです。自分の力では、憎しみに打ち勝つことは出来ません。しかし主イエスは、力を手放すことによって世に勝って下さいました。神の栄光を捨て、人となって地上に降り、十字架に命をも捨てて、世の罪と憎しみの全てを、その身に引き受けて下さいました。そこには、私が抱えている憎しみも含まれています。
 イエスは神の子、救い主と信じ、十字架の前に自らの憎しみを差し出す時に、主はそれを受け取り、代わりに、神の子とされる恵みを与えて下さいます。私たちはこの信仰によって世に勝ち、罪と憎しみの支配から解き放たれるのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)

 十戒の第三の戒めとして、「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」と命じられました。イスラエルの民はこの戒めを曲解して、神の名をまったく口にしなくなったため、神の呼び名を忘れてしまうほどでした。
 しかし、これは神の名を全く呼んではいけないと言っているのではありません。「悩みの日にわたしを呼べ」と主は言われます。「みだりに」とは、中身のない、空しい使い方をしないようにということです。神の名は存在そのものと結びついており、名を軽んじることは、神ご自身を軽んじることになるからです。
 私たちが忘れてはならないことは、私たちが神を呼ぶ前に、天の神が私たちの名を呼んでいてくださるということです。小さなこのわたしの存在を尊び、その価値を認め、愛していてくださるということです。人は神に名を呼ばれて、人間としての存在を回復していきます。そのとき、神を正しく呼ぶことができる者とされていきます。本来は神の名を呼ぶことなどできなかった者たちでした。しかし、主イエスが十字架でとりなしてくださって、私たちを神を呼ぶことができる者に変えてくださいました。
 その私たちには、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊が与えられました。私たちは奴隷のように、神から罰を与えられるのではないかと恐れて生きる必要はなくなりました。幼子が父親のふところに飛び込むように、愛と信頼をもって、「父よ」と呼ぶことができるのです。私たちは御子の霊を受けた者たちです。主の霊を促しを受けて、神を呼ぼうではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ダビデは神への感謝として、立派な神殿を建てようと志しました。ところが神はその願いを退けられます。しかし神はダビデを拒んでいるのではありません。むしろ逆に、「ダビデとその子孫と王国に、さらなる祝福を与える」と、驚くような約束をしてくださったのでした。
 ダビデはその圧倒的な神の恵みを前にして、自分は何をしたところでその恵みに報いることができないほど、小さく弱いことを自覚します。そしてそんな取るに足りない者が神に選ばれ、豊かな恵みの中で今日まで大事に導かれてきたことを、深く感謝したのでした。
 するとダビデは自分の願いが却下されたことなど、もはや問題ではなくなりました。神がこれからも共にいてくださり、私の喜びも悲しみも、不安も無力さも、私という人間をよくご存じでいてくださることを悟ったとき、願いが叶わなくてもダビデは満たされました。これ以上何も言う必要がないほど、満ち足りたのでした(20節)。
 神は私たちの罪深さも弱さも、全てをご存じです。その上で私たちを選び、私たちの罪を赦すために、ひとり子を十字架につけてしまったほどに、私たちを愛しておられます。そしてその愛と真実にかけて、私たちの人生を何があっても責任をもって負うとおっしゃるのです。
 それならば私たちは、この上何を神に申し上げるのでしょうか。自分の願いが叶わなくても、その圧倒的な恵みのゆえに、私たちは神の「NO」を受け入れることができるのです。「NO」と仰る上で、さらに大きな祝福を備えてくださる神ご自身に、私たちは満ち足りるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 大きな地震に見舞われた熊本教会を訪問しながら、黄金律とも呼ばれるこの聖句を思い起こしていました。主イエスは、聖書が語っていることはこれである、と言われました。
 主イエスはここで、他の人のために何かをしてあげようというとき、自分に置き換え、「自分だったらどうだろうか」と考えることから始めるようにと言われます。自分がして欲しいと望むことを、相手にしてあげるようにというのです。このとき問題となるのは、私たちが思いつくことが、必ずしも相手もそのように望むとは限らないということです。こちらの思いと、受ける側の気持ちとにズレが生じるのです。そのとき、私たちは自分の考えを相手に押しつけようとすることがあります。相手が何を願うかよりも、自分がしてあげたいことをしようとするのです。隣人を愛するときにでさえ、私たちは自己中心になってしまいます。
 人を愛するということは、相手を中心にして考えることです。そのために、相手の僕のようになって仕える姿勢が必要となります。そしてそれを実践しようとするとき、私たちは自らの愛が足りないことを痛感させられます。だからこそ、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」と約束された主に、愛を求めるしかありません。神は求める者たちに良いものを与えてくださると約束されました。事実、父なる神は、私たちの救いのために、最も良いものである御子キリストを与えてくださいました。その御子は、私たちのために命をさえ与えてくださったのです。
 このキリストの愛を受けるとき、私たちは初めて、他者に仕えて生きる力が与えられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 人は自分に罪や過ちがあると思うとき、自分の顔や存在そのものを隠そうとするものです。これに対して、周りの人はそれとは反対に、その隠れている罪を暴こうとします。
 ペテロはそのような私たちに対して、「何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである」と勧めます。他者を愛するということは、その人の罪を暴こうとするのではなく、その罪を覆ってあげることであると。それは、罪をうやむやにすることではありません。罪を罪として認めた上で、それを覆うのです。これは、罪の赦しを意味する旧約聖書的表現です。
 「罪をおおう」と聞くと、それは甘やかしの態度であるように思う人がいます。罪を暴くことのほうが正義であると考えるのです。しかし、私たちの中に、他人の罪を責める資格のある人など果たしているでしょうか。私たちはお互い、罪を持った者たちなのです。
 罪を責められるだけでは人は変わりません。自分が赦されていることが分かったとき、真の悔い改めがそこで起こります。ペテロ自身、主イエスが捕らえられたとき、主を三度も否定するという大きな失敗を犯した人でした。そのとき、主イエスはペテロを責めるのではなく、彼を赦した上で、彼の回復のために祈られました。ペテロこそ、主によってその罪を覆っていただいた者でした。
 だからこそ、他者の罪をおおってあげる愛に生きるようにと勧めます。それは、私たちも主の十字架によって罪をおおっていただいた者たちではないか、と訴えです。主の十字架の愛に応えて、赦しの愛に生きる者でありたいと願います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)