私たちは大きな苦しみ、悲しみに直面すると、「もうどう祈ったらいいか分からない」ということを経験します。祈ろうとしても、祈りの言葉が見つからなくなるのです。そのようなときに出来るのは、ただうめくことだけです。言葉では表現できない心の内にある思いをそのまま表すのが「うめき」です。
 私たちがそのような状態に置かれるとき、祈ることさえ出来ないのは、自分の不信仰のためであると、自らを責めてしまうことがあります。けれどもパウロは、それは「私たちの弱さ」だと言います。限界を持つ人間ゆえの弱さだというのです。
 そしてそのとき、御霊はそのような弱い私たちを助けてくださると告げるのです。祈ることができない私たちに代わって、聖霊なる神が自らうめきながら、父なる神にとりなしてくださるのです。私たちは御霊のうめきを聞き取ることはできません。けれども、信じることができます。苦しみ、悲しみのただ中にあってうめくとき、御霊が私たちに寄り添い、私たちのうめきを神にとりなしていてくださる、と信じるのです。
 御霊は、御旨にかなうとりなしをしてくださいます。そして父なる神は、御霊のうめきを聞き取り、私たちのために最善のわざをなしてくださいます。そのとき、28節の聖句が実現するのです。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」。
 このような神が与えられているからこそ、私たちはどんなときも、心からの信頼を込めて、「アバ、父よ」と神を呼ぶことができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 イスラエルの民を導いてエジプトを出て来たモーセのもとに、義父エテロがモーセの妻チッポラと二人の娘を連れてやってきました。再会を喜ぶとともに、エテロは神のなされたみわざを聞いて神を讃えました。
 次の日、モーセがいつものように朝から晩まで忙しく働くのを見たエテロは、「あなたのしていることは良くない」とモーセに忠告しました。モーセ一人のもとにあらゆる相談事が持ち込まれるため、このままではモーセも民も疲れ果ててしまうと見たのです。そこでエテロは、モーセのほかに、信頼出来る人を立てて、その人々に自分の働きを分担させるように提案しました。モーセが本来なすべきことは、民のために神と向き合うことだと勧めたのです。
 このような組織改革を実行することはなかなか難しいものです。人々がモーセの働きに大きな期待を寄せているからです。そして、使命感や責任感のゆえに、働き人はしばしばそれに何とか答えようとして無理をします。そして、信仰の論理が邪魔をして、信仰があれば大丈夫!と強行突破を目指してしまいます。それにより、働き人がオーバーワークで疲れ果ててしまうことがあります。
 このとき、モーセはいわば部外者であるエテロの提言を素直に受け入れました。自らの限界を弁え、受け入れるとともに、民のために神の前に出ることを第一に選び取ったのです。こうして、指導者モーセをとおして神によって養われるイスラエルの体制が整えられました。
 一つのキリストのからだにつながる私たちは、互いに重荷を担い合う者たちです。それにより私たちは健やかに生きることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ダビデ王は、自分の敵であるサウル王家の生き残り、メピボセテに恵みを施したいと熱望しました。それはメピボセテの父、ヨナタンと結んだ主にある契約のゆえでした。即ち、ヨナタンの子孫を絶滅させないというものでした。そこでダビデは逃亡生活中のメピボセテを王宮に招き入れ、サウル王の地所と王家の一員としての権利を、彼に再び与えました。
 「死んだ犬のように価値がない者」と自称するメピボセテは、信じがたいこの恵みをひれ伏して感謝し、素直に受け取りました。今や彼はただ契約の恵みのゆえに、尊い存在、王の食卓に連なる者とされたのです。 これは正に私たちの姿です。私たちも本来は神に敵対する者であり、惨めな存在でしたが、愛の神は私たちを探し出してくださいました。そして主イエスの十字架によって私たちの罪を赦し、神の子としてくださるという恵みの契約を、私たちと結んでくださいました。この契約のゆえに、私たちが神の子であり神との豊かな交わりに生きる者とされた事実は、何があっても変わることがありません。これが神の真実です。
 私たちの真面目さや努力が、自分の救いを支えるのではありません。私たちがたとえどんなに不誠実な者であっても、主イエスの十字架によっていったん救ったからには、私たちに対してどこまでも真実を貫き通してくださる、この神の真実さ、変わることのない契約の恵みこそが、私たちの信仰生活を支えるのです。 私たちもこの驚くような恵みを、メピボセテのように感謝して受け取ろうではありませんか。決して変わることのない神の契約の恵みに、日々生かされていきましょう。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 ガリラヤ湖の水の上を歩いて近づいて来た人が主イエスであると分かると、ペテロは「私に命じて水の上を歩かせてください」と願い出ました。すると主イエスは、「おいでなさい」と言われました。それに答えて、ペテロは主イエスに向かって水の上を歩き出しました。
 ところが、吹いてきた風を見て怖くなり、おぼれかけてしまいました。「主よ、お助けください」と、ペテロは必死に助けを叫び求めました。この物語でよく語られる解説は、このとき、ペテロが目を逸らさずに、まっすぐに主イエスだけを見つめていたならば、おぼれることなく主イエスのもとへ歩いて行けたであろう、というものです。主イエスの「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」というペテロへの言葉は、それを裏付けているようです。
 しかし、このときの弟子たちの中で、ペテロ以上に信仰の強い人はいませんでした。弟子たちの中で最も信仰の強いペテロでさえ、怖くなっておぼれかけたのです。そのように、私たちは皆、主イエスの目から見れば信仰の薄い者でしかありません。自分で自分を救うことなどできない者たちです。
 しかし、そのような者たちを引き上げてくださる主がおられます。このとき、ペテロの叫びに答えて、主イエスは力強い御手をもって引き上げてくださいました。これらを見た弟子たちは、「ほんとうに、あなたは神の子です」と告白しました。
 一年の歩みにおいて嵐に遭うときも、その私たちを引き上げてくださる主が私たちと共におられます。その主への信仰を告白し続ける歩みをさせていただきたいと思います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 パンの奇跡の後、主イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませ、ガリラヤ湖の向こう岸に渡るように命じました。ところが、弟子たちが乗った舟は逆風に遭い、湖の真ん中で立ち往生していました。弟子たちが嵐に苦しみ、主イエスに最もそばにいて欲しいと思うとき、主は彼らと共にはおられませんでした。
 しかし、主イエスは彼らを見捨てておられたのではありませんでした。漕ぎ悩む弟子たちのことを心に留めておられ、海の上を歩いて彼らのもとへ近づいて行かれました。
 ところが弟子たちは、それが主イエスだとは分からず、幽霊だと思い、恐怖のあまり叫び声を上げました。彼らは、主イエスがこんなところにおられるはずはないと思い込んでいたため、近づいて来られた主を見ても、その事実に気づかなかったのです。私たちも弟子たちのように、主イエスが共におられるのに、そのことを信じられず、恐れに囚われてしまうことがあることでしょう。
 このとき、主イエスは怯えて叫ぶ弟子たちに声をかけられました。「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」。嵐の中にあっても、主イエスが共におられるからこそ、もはや恐れる必要はないと告げられたのです。この主イエスの語りかけを耳にしたとき、弟子たちはそれが主イエスであると分かりました。「主よ、あなたでしたか」と。
 私たちの人生においても、嵐に遭うときがあります。そのとき、主の臨在を忘れ、恐れに囚われてしまう私たちに、主はみ言葉をもって励ましてくださいます。主が共におられるからこそ、嵐の中をも勇気をもって生きることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)