人生の第一ボタンである「神を神とする」ことをしないとき、私たちの人生における具体的な生活は崩れ、様々なズレ、乱れが生じます。パウロは不信心の罪に続いて、その具体的な罪の行為について取り上げています。
 真っ先に挙げたのは、性における逸脱、同性愛についてです。神が定められた自然の関係を不自然なものに代えてしまったと断罪されています。この同性愛については、それを個人の罪として片付けていいのかという点で疑問が残ります。むしろ、人類全体の罪という視点が必要でしょう。そこに神に背き続けた人間の罪が表されているということです。
 続いてパウロは、そのほかの様々な罪のリストを記します。私たちも当てはまるものが挙げられています。このため、「このぐらいは大したことではない」と考えてしまいます。しかし、これらは「死に値する」と言われます。
 私たちが悪いことだと知りながらも罪を犯し続ける理由について、聖書は「任せられた」という表現を繰り返し用いて説明します。神は人間を罪の欲情に引き渡してしまったというのです。そのため、もはや自分たちでストップをかけることができなくなってしまいました。
 神に見放されてしまっては、私たちにはもはや望みはなくなります。ところが8章32節で、同じ神が、御子を死に引き渡された、と語られます。死に値する人間たちの代わりに、その救いのために、御子イエスを死に引き渡されました。神は私たちの味方であることをやめません。私たちの立ち帰りを待ち続けておられる神が天におられます。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 パウロは人間の罪の現実を真正面から語ります。神を信じようとしない不信心と、人間社会における悪しき行いとしての不義と、2種類に分けられます。そのような人間の罪に対して、神の怒りが啓示されると言います。人間の側からは、神が怒るなどおかしいではないかという声がしばしば上がります。これに対してパウロは、すべての人には神がおられることは明らかに示されており、神の存在など知らなかったなどと弁解することは出来ないと言います。
 人間の罪は、神を知っていながらも、真の神を神としてあがめず、感謝しないことです。私たち被造物にとって、造り主なる神を神とすることは、人生の原点です。ここを外すとき、その具体的な生き方はすべてズレてきてしまいます。
 神を神とすることをしないとき、神ならぬものを神とするようになります。事実は、人は被造物に過ぎないものを神とし、さらには自分自身が神になってしまいます。造り主なる神と、被造物である人間との立場が逆さまになってしまうのです。
 キリスト教信仰における救いとは、神ならぬものを神として生きていたところから、創造者なる神を礼拝するようになることです。パウロはこの途中で、頌栄の言葉を記します。「創造者こそ永遠にほむべきもの」。何か良いことがあったときだけでなく、どんなときも神を賛美します。それは神が神であるためであり、その神が私たちに命を与え、生かしておられるからです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 皆さんは神についてどのようなイメージを持っておられるでしょうか。その人が持っている神観が、信仰生活に大きな影響を与えます。ある人は、神を怖い方として捉え、罪を犯す自分に罰を与える方として受け止めていることがあるでしょう。そうなると、健全な信仰生活を送ることができなくなります。
 牧師の子として生まれ育った私は、自分に罰を与える怖い神のイメージを持っていました。青年時代、ある出来事をきっかけにして、その神観が逆転しました。そのときから、自分を守ってくださる神としてイメージするようになり、その神に喜んでいただこう、という生き方をするように変わっていきました。
 エリコの町で取税人をしていたザアカイは、主イエスがお通りになると聞き、ひと目見ようとやってきました。主イエスはそのようなザアカイの名を呼び、「あなたの家に泊まるよ」と声をかけられました。そのとき、主イエスはどんな顔でザアカイをご覧になったことでしょうか。ザアカイはそれまで出会ったことのない笑顔のイエスさまを見たのではないでしょうか。主イエスの笑顔に出会い、ザアカイは嬉しかったことでしょう。そのときから、ザアカイは変わりました。
 私たちの存在を喜んでくださる主がおられます。礼拝は、主イエスの笑顔に出会えるときです。このお方と共に歩むことができるのは嬉しいことです。そして、そのような神のイメージができるとき、私たちの生き方は変わります。神を喜ばせようと生きる者になり、また、周りの方々に対しても、笑顔をもって生きる者へと変えられていくのです。
(日本ホーリネス教団白鷹教会 山本出牧師)

 罪人との関係を正して救おうとする神の義が福音をとおして示されるとき、その救いが実現するのは、その恵みを素直に受け取る信仰によってであるとパウロは語りました。
 そのことは、すでに旧約聖書に語られていたこととして、ハバクク書を引用します。「義人は信仰によって生きる」と。預言者ハバククは、神に背くイスラエルの民がまもなくバビロニア帝国によって滅ばされることを預言しました。ハバククが疑問に思ったのは、神の裁きの器として用いられるバビロニア人は、イスラエルの民以上に神に背き、残虐な民として知られていたということです。彼らには神の裁きはなされないのか、と悩んでいました。神はハバククの悩みに答え、バビロニアもやがては滅ぼされることを告げました。そのような中、義人は神の約束の言葉を信じることによって生きると喜びの知らせを告げたのです。
 ギリシャ語訳の聖書では、「義人はわたしの真実によって生きる」と訳すことができます。神を信じるその人の信仰ではなく、神の真実が信仰者を生かすというのです。
 そして、この神の真実に触れた者たちは、この神への信頼としての信仰が呼び起こされます。私たちの信仰というものは、私たちが自分の頑張りで生み出すものではありません。神の真実が、私たちのうちに神への信頼、「アーメン」と答える信仰の心をもたらします。
 この神の真実と人間の信仰の二つが一つになるとき、罪人が救われるという大逆転が起こります。御子イエスの十字架に表された神の真実が、このお方を信じる心を私たちのうちに与えてくださるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 17節は、ルターが宗教改革を起こすキッカケとなった聖句です。この聖句の意味の新しい発見が、行いによって義とされるのではなく、信仰によって義とされるという信仰義認の理解をもたらしました。
 ルターは当初、この聖句に出てくる「神の義」という言葉の前に立ちすくんでいました。神の義というものを、罪人を木っ端微塵に滅ぼすところの徹底的な神の正しさとして理解していました。その神の義の中には、罪人の救いの可能性を見いだすことができなかったのです。このような理解に立つとき、罪人の救いのためには、もう一つの神の属性として神の愛を持ち出さなければ説明がつかなくなります。実際、主イエスの十字架についてそのように説明されることがあります。神の御子イエスが私たちの代わりに十字架にかかってくださったことにより、神は罪人を滅ぼすというご自分の義を全うされ、同時に、罪人を赦すという神の愛が全うされた、と。
 しかし聖書は、神の義は福音の中に啓示されたと述べています。御子イエスが十字架にかかってくださったという喜びの知らせの中に、神の義そのものが表されていると。神の義とは、罪人との関係を正して救おうとする神の働きを指します。御子キリストの十字架の福音の中に、私たちとの関係を正そうとしてくださった神の義が表されたのです。
 この神の義が示されたとき、私たちにできることは、恵みを恵みとして受け取るだけです。信仰とは、恵みを受け取る手、器のことです。私たちを救おうとする神の義に圧倒されて、私たちは感謝をもって手を差し出し、救いをいただくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ある日ノアはぶどう酒を飲んで酔っ払い、自分の天幕の中で裸で寝てしまいました。そんな父の醜態を末息子のハムが見つけると、彼は兄弟三人でノアを物笑いにしようと、兄のセムとヤペテを呼びに行きました。ところが二人は、ノアを見ないように顔を背けたままでノアに服をかけ、その裸をそっとおおってあげました。
 「おおう」とは、十字架のみ業です。主イエスは十字架の上で、その尊い血潮で私たちの罪を完全におおい尽くしてくださいました。それは神が私たちの罪をおおって見ないでくださるということであり、私たちの全ての罪を完全に赦してくださったということです。そのように主イエスは私たちの罪を暴くのではなく、それを赦しと恵みで包み込んでくださるお方です。私たちの恥をさらすのではなくそれをおおい、私たちの弱さや失敗を責めるのではなく、それをカバーしてくださる愛の神です。セムとヤペテはノアの失態を暴くのではなく服でその裸をおおい、父としての尊厳を守りました。それは、神の愛と赦しを映し出す行為でした。
 私たちも今までどれほど多くの罪を、また醜態の数々を、十字架の愛をもっておおっていただいたことでしょうか。そのありがたさ、恵み深さをよく知っている私たちは、人の失敗や罪、弱さを愛をもっておおう存在でありたいと思います。十字架の恵みこそが、私たちを互いにおおい合う者へと造り変えてくださるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 ローマ行きを熱望するパウロは、福音宣教の働きを自分の果たすべき責任、神に対する負債であると語ります。救いの恵みに感謝して、喜びの応答として奉仕するのです。
 パウロはその情熱を、「わたしは福音を恥としない」と言い表します。わたしたちはこのパウロの言葉をどのような思いで受け止めるでしょうか。「お前はどうなのか」と、どこか責められているように感じることはないでしょうか。キリスト者であること、教会に通っていることを他の人に伝えることにより、からかわれたり、愚か者であるかのように見られたりすることがあるからです。福音が私たちの評判や名誉を下げるような事態になると、私たちはそれが耐えられず、福音やキリストを恥とし、関わりを否定することさえあります。
 主イエスの弟子たちはまさにそうでした。誰が一番弟子かと言い争っていた弟子たちが、主イエスが逮捕されると、その関わりを否定し、主イエスを見捨てて逃げ去ったのです。私たちにとり、主よりも自分たちのほうが大事だからです。
 ところが、主イエスはそのような私たちのために、自らの命を捨て、十字架にかかってくださいました。恥とすべき私たちのために自らを犠牲としてくださったのです。それは、ご自分の命よりも、私たちの命のほうを大事されたということです。
 この福音の力、硬い岩をも打ち砕く恵みの力を知るとき、私たちは変えられていきます。私たちのために十字架で死んでくださったキリストを誇りとし、「あなたこそ私の主」と告白する者へと変えられます。それは福音がもたらす奇蹟です。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 挨拶文を書いた後、パウロはローマの人々の信仰のゆえに神に感謝すると述べます。キリスト教に対する迫害が厳しくなろうとしているとき、ローマ皇帝のいるお膝元のローマで信仰を持ち続けるということは大きな覚悟が必要なことでした。パウロはそこに、生きて働く神のみわざを見たのです。彼らをあのように信仰に生かしておられる神の働きを見て、神に感謝をささげました。
 パウロはそのローマの地に自分も訪れたいという切なる願いを表明します。霊の賜物を分け与えて、彼らを力づけるためでした。聖書に基づいた確かな信仰を伝えたいと願っていたからです。それだけでなく、「あなたがたの中にいて」と述べているように、存在そのものがお互いにとって慰めとなり、励ましとなることをパウロは知っていました。
 ここでパウロは、「あなたがたとわたしとのお互の信仰によって、共に励まし合うために」と述べています。パウロがローマの人々を励ますだけではありません。パウロ自身も、ローマの人々の中にいることによって励ましを受けるというのです。
 この信仰による励ましとは、自分の立派な信仰を証しして仲間を鼓舞するというのではありません。相手にとってそれは励ましにはならないものです。お互いは弱さや欠けを持つ者たちです。しかし、相互の交わりの中で、そのような者たちを生かし、支えておられる神が確かにおられる、ということが見えてきます。その慰め主なる神が、今も苦しみの中にある私たちの傍らにおられ、支えていてくださいます。毎週の礼拝において、この神による慰めと励ましを私たちはいただくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 イスラエルの民が神に礼拝をささげるために、妨げとなっている罪を取り除くための贖いのわざが必要でした。聖所では、毎日、祭司によって動物の犠牲がささげられました。
 そして、一年に一度の大贖罪の日には、大祭司が至聖所に入り、すべての民の罪のために贖いのわざを行いました。まず自らの罪のために犠牲をささげた後、二頭の山羊を用意し、くじに当たった最初の山羊を殺してその血を取り、大祭司はその血を携えて至聖所に入り、贖罪所に注ぎました。血を流すということは、命をもって罪の償いをするということです。人間の代わりに、動物が犠牲となり、その血が注がれました。
 次に、もう一頭の山羊を連れて来て、大祭司はその頭の上に両手を置き、イスラエルの人々のあらゆる罪を告白しました。それは、民の罪を山羊の上に移して負わせることを意味しました。その上で、その山羊を殺すことなく、遠く荒野へと放ちました。「アザゼル」とは、除去するという意味であり、罪を負った山羊を荒野へ放つことにより、民の中から罪が取り除かれたことを意味しました。これは、先に犠牲としてささげられた山羊による贖いのわざの意味を見える形で表したものでした。
 御子イエスが現れたとき、バプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と紹介しました。主イエスは私たちの罪のために、大祭司となり、自らの命を犠牲としてささげられました。これにより、私たちの罪のために贖いのわざは成し遂げられました。このわざはもう繰り返される必要はありません。主の十字架の贖いにより、私たちは大胆に神に近づくことができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 神に召されて使徒となったパウロは、ローマのキリスト者に対して、あなたがたも同じように神に召された者たちである、と告げます。そのことを三つの表現で言い換えます。
 一つは、キリストに属する者となった、ということです。かつてはサタンに属する者であったのが、キリストの贖いにより、キリストのものとされました。そのことと同じ意味の言葉が、「聖徒」という表現です。すべてのキリスト者は、神のために区別された者たち、すなわち聖徒です。そしてもう一つ、「神に愛されている人々」とパウロは呼びかけます。御子キリストが命をかけるほどに、神によって大事にされているというのです。ローマ帝国によるキリスト者迫害が厳しくなる中で、パウロはどうしてもローマの人々にこのことを知って欲しいと願いました。
 このパウロの言葉は、仙台の教会に集う私たちにも語られています。私たちはこの神の言葉をどのように受け止めるでしょうか。感謝して受け止めるよりも、自分にはそのように呼ばれる資格などない、という思いが先に立つかもしれません。けれども、神に召されるということは、私たちに何かの資格があるからでも、基準を満たしているからでもありません。神の一方的な恵みです。
 「召されて」という言葉は、「その名をもって呼ぶ」という意味です。神が私たち一人一人の名を呼び、ご自分のもとへ招いてくださいました。エリコの町のザアカイの名を主イエスが呼ばれたように、主が呼んでおられることが分かったら、私たちはその呼びかけに応えて立ち上がります。神の力強い招きは、私たちを立ち上がらせる力があるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)