「おおい合う教会」
(Ⅰペテロ4:8、創世記9:18-29)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 ある日ノアはぶどう酒を飲んで酔っ払い、自分の天幕の中で裸で寝てしまいました。そんな父の醜態を末息子のハムが見つけると、彼は兄弟三人でノアを物笑いにしようと、兄のセムとヤペテを呼びに行きました。ところが二人は、ノアを見ないように顔を背けたままでノアに服をかけ、その裸をそっとおおってあげました。
 「おおう」とは、十字架のみ業です。主イエスは十字架の上で、その尊い血潮で私たちの罪を完全におおい尽くしてくださいました。それは神が私たちの罪をおおって見ないでくださるということであり、私たちの全ての罪を完全に赦してくださったということです。そのように主イエスは私たちの罪を暴くのではなく、それを赦しと恵みで包み込んでくださるお方です。私たちの恥をさらすのではなくそれをおおい、私たちの弱さや失敗を責めるのではなく、それをカバーしてくださる愛の神です。セムとヤペテはノアの失態を暴くのではなく服でその裸をおおい、父としての尊厳を守りました。それは、神の愛と赦しを映し出す行為でした。
 私たちも今までどれほど多くの罪を、また醜態の数々を、十字架の愛をもっておおっていただいたことでしょうか。そのありがたさ、恵み深さをよく知っている私たちは、人の失敗や罪、弱さを愛をもっておおう存在でありたいと思います。十字架の恵みこそが、私たちを互いにおおい合う者へと造り変えてくださるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)