「神を神とする救い」
(ローマ1:18-25)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 パウロは人間の罪の現実を真正面から語ります。神を信じようとしない不信心と、人間社会における悪しき行いとしての不義と、2種類に分けられます。そのような人間の罪に対して、神の怒りが啓示されると言います。人間の側からは、神が怒るなどおかしいではないかという声がしばしば上がります。これに対してパウロは、すべての人には神がおられることは明らかに示されており、神の存在など知らなかったなどと弁解することは出来ないと言います。
 人間の罪は、神を知っていながらも、真の神を神としてあがめず、感謝しないことです。私たち被造物にとって、造り主なる神を神とすることは、人生の原点です。ここを外すとき、その具体的な生き方はすべてズレてきてしまいます。
 神を神とすることをしないとき、神ならぬものを神とするようになります。事実は、人は被造物に過ぎないものを神とし、さらには自分自身が神になってしまいます。造り主なる神と、被造物である人間との立場が逆さまになってしまうのです。
 キリスト教信仰における救いとは、神ならぬものを神として生きていたところから、創造者なる神を礼拝するようになることです。パウロはこの途中で、頌栄の言葉を記します。「創造者こそ永遠にほむべきもの」。何か良いことがあったときだけでなく、どんなときも神を賛美します。それは神が神であるためであり、その神が私たちに命を与え、生かしておられるからです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)