「不信心な者を義とする神」
(ローマ4:1-8)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 全ての人は行いによるのではなく、信仰によって義とされることを例証するために、パウロは信仰の父アブラハムを登場させます。私たちは、自分はアブラハムのような立派な信仰などない、と思ってしまいます。そのように考えることによって、信仰という名の良き行いに変質させ、形を変えた行為義認に陥ります。
 パウロはここで、アブラハムを立派な信仰の持ち主として紹介するのでなく、行いのない人、不信心な者の代表として連れ出します。そのアブラハムについて、聖書は「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」と語ります。
 このときの出来事は創世記15章に記されていますが、アブラハムは簡単に神の言葉を信じたわけではありませんでした。子どもが与えられなかったアブラハムは、跡取りとして養子を迎える予定であると主に答えました。これに対して主は、アブラハムから生まれる子が跡継ぎとなることを語り、それを確かなものとするために、星空を見せながら、その星のように子孫が増え広がるとの約束を与えました。この神の力強い言葉に押し切られて、アブラハムは主を信じました。神の約束を受け取ったアブラハムに対して、主は「それでよし」と言われたのです。
 アブラハムだけでなく、イスラエルの最高の王ダビデも、姦淫と殺人の罪を犯したときに、行いがないにもかかわらず、神の一方的な恵みと憐れみによって罪赦されました。
 アブラハムやダビデがそうであるように、私たちも、不信心な者を義としてくださる神に押し切られるようにして、主を信じ、それによって義と認めていただくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)