「神の言葉に聴く礼拝」
(詩篇95:1-11)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 神のみ前にひれ伏す真実な礼拝へと招いた詩人は、「どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように」と勧めます。プロテスタント教会の礼拝の中心は、神の言葉の説き明かしである説教を聴くところにあります。神の言葉を神の言葉として聴く姿勢をもって、「あなたこそ私たちの神」という信仰を告白し、礼拝の心を表します。詩人はこの命令を喜びの知らせとして語ります。礼拝者は神の声を聴くことによって、新しい命に生かされるからです。
 詩人が「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない」(新共同訳)と強い口調で命じるのは、かつてイスラエルの民が、荒野で神の声に聞き従わず、神と争い、神を試みたことがあったからです。それにより、その世代の人々は荒野で死に絶えてしまいました。神の言葉を神の言葉として聴くことは、信仰者にとって、生きるか死ぬかがかかっています。
 しかし、人生の荒野を通るとき、私たちの心は硬くなり、神の言葉を神の言葉として聴けなくなります。神の言葉よりも、人間の言葉に聴こうとしてしまうのです。それゆえ、詩人は「あなたがたは、メリバにいた時のように、また荒野のマッサにいた日のように、心をかたくなにしてはならない」と語ります。
 この勧めを語る前、詩人は神と礼拝者との関係を羊と羊飼いとの関係にたとえて語りました。「われらはその牧の民、そのみ手の羊である」。羊が羊飼いの声を聞くことによって生きることができるように、私たちは羊飼いなる主の声を聞くことによって生きることができます。十字架で命をかけてくださった主の言葉は、私たちを生かす言葉だからです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)