「私たちにも及ぶ救いの恵み」
(ローマ4:9-25)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 行いによらず信仰によって義とされる幸いは誰に及ぶのかについて、割礼の者だけでなく、無割礼の者にも及ぶことを、パウロは再びアブラハムを例にあげて語ります。パウロがわざわざこのことを語るのは、ユダヤ主義キリスト者たちが、異邦人が救われるためにはまず割礼を受けて、ユダヤ人と同じようになってからであると言っていたからです。信仰によって義とされることを否定しないものの、信仰プラス割礼であると主張していました。
 そこでパウロは、アブラハムが義とされたのは、割礼を受ける前のとき、無割礼のときであったと指摘します。割礼がなくても、アブラハムは神に義と認められたのです。その後に受けた割礼は、神に義と認められたことのしるし、証印であると言います。ユダヤ主義者たちは、義認と割礼によるしるしとの関係性を逆転させてしまい、割礼を受けなければ義とされない、と主張しました。
 これは律法との関係においても同じです。人は律法を守り行うことによって義とされるのではなく、一方的な神の恵みを感謝して受け取ることによってのみ、救いにあずかることができます。ところがわたしたちは、ユダヤ人たちが割礼を重んじたように、信仰にプラスして、人間側の行いを救いの条件にしようとしてしまいます。
 パウロは改めてそれを否定し、「すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって」と告げます。何の行いもない者たちが、主がわたしたちの代わりに十字架にかかってくださったゆえに、救いがもたらされました。わたしたちはただ恵みを感謝して受け取るだけなのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)