主がモーセに幕屋を造るように命じられたとき、主は特別にベザレルを名指して召し、神の霊に満たして用いられました。そのほかにも、工事に携わる者たちを神は呼び集め、必要な知恵を与えて、そのわざを行わせました。
 幕屋のもろもろの工事が完了したとき、聖書は「主がモーセに命じられたとおりである」と繰り返し報告しています。造る者たちは、自分たちの考えに従って工事を行ったのではなく、どこまでも主の言葉に忠実に従いました。個人的な思いや考えを退けて、神の言葉に従ったのです。
 そのようにするのは、「主こそ神」だからです。具体的な生き方において、主の御心に従うことをとおして、「あなたこそ私たちの主」という信仰を告白しました。私たちは神の言葉よりも、自分の思いや考えを優先したくなるときがあります。ガリラヤ湖で漁をしていた弟子たちも、「もう一度網をおろして漁をしてみなさい」と主イエスから言われたとき、「どうせ無理だよ」という思いを退けて、「お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と答えました。「イエスは主なり」と告白するようにして、主の言葉に従ったのです。
 同じように、神の教会は、主によって呼び出された者たちによって造られます。「イエスは主」という告白に従って、教会を建て上げていきます。会堂建築の話し合いを行うときも、どんな人も自分が中心になるのではなく、「イエスは主」という告白のもとで行います。私たちが従うのは、私たちのために十字架で命を捨ててくださった主イエスです。このお方に、私たちは喜んで従っていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 12弟子のユダは、銀貨30枚で主イエスを祭司長たちに売り渡しました。その後、罪を後悔し、自分の力で何とか償おうと努力したものの、ユダは自ら命を絶ちました。またペテロは、「そんな人は知らない」と三度も主イエスを否定しました。すると、「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」という主イエスのお言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました。ペテロとユダのしたことは、本質的には変わりない裏切り行為であり、深く後悔した点においても二人は同じです。しかし後に、ペテロは再び弟子としての使命が与えられたのです。
 ペテロは、裏切りを知りながらも自分を深い愛の御手に包んでくださっている主イエスの愛に気づきました。それゆえ、そのあり得ない恵みに打ち震えつつ激しく泣いたのでした。自分ではどうすることもできない罪の現実の中で、主イエスを見つめて泣くことができたペテロ。それに対してユダは自分の罪だけを見つめ、一人で後悔し、何とかしようとしたのです。両者の違いはこの一点にあります。
 主イエスは私たちの弱さや挫折、罪の重荷を、私たちの代わりに十字架の上で負われ、私たちの全ての罪を赦してくださいました。この赦しの恵みが、どんな時にも私たちを取り囲んでいます。ですから私たちは罪の嘆きの中で、ペテロのように主イエスを見つめたいと思います。私たちはそこから赦されて、新しく歩み出すことができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 中断していた幕屋の建設がいよいよ始まることになりました。モーセが最初にしたことは、幕屋建設に必要な資材を集めることでした。モーセは、「心から喜んでする者は、主にささげる物を持ってきなさい」と人々に告げました。喜んでささげるとは、見返りを求めて、自分の利益のためにささげるのではなく、自発的にささげることです。
 人々が喜んでささげるようになるカギは、これが主に対するささげものであるという点です。モーセが言うからささげるのではなく、あくまで主に対するささげものです。
 このモーセの呼びかけに対して、「すべて心に感じた者、すべて心から喜んでする者は……主にささげる物を携えてきた」と記されています。「心に感じた者」とは「感動した者」ということです。主がイスラエルの民をエジプトから救い出し、さらに、金の子牛像事件で滅ぼし尽くそうとされたことを思い直し、これからもイスラエルの民と一緒に行ってくださると約束してくださった、その主のいつくしみに感動した者たちがたくさんいました。その喜びがあふれて、人々は喜んでささげました。その結果、有り余るほどのささげものが集められ、ついにモーセが人々にストップをかけるほどでした。
 この同じ姿が、ピリピの教会にも見られました。命を与えるほどのキリストの大きな恵みに感動したピリピの人々は、大きな喜びをもって、自ら進んでささげものをしました。
 ここに、私たちが主に対してささげものをするときの原点があります。主の恵みに感動する者たちは、喜びをもって、自ら進んでささげる者へと変えられていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 神と私たちとの関係を教えるために、主イエスはタラントのたとえを語られました。ある主人が、3人の僕たちに5タラント、2タラント、1タラントを預けて旅に出ました。
私たちは3人が託されたタラントの違いが気になります。最初から不平等ではないかと思ってしまいます。
 しかし、僕たちはタラントの違いなど気にすることなく、5タラントの僕も、2タラントの僕も、それぞれ精一杯に働き、与えられたものを倍に増やすことができました。これに対して主人は、「忠実な僕よ、よくやった」と、二人を全く同じ言葉をもって評価し、ねぎらいました。主人はどれだけ多く稼いだか、という点で僕たちを評価したのではなく、主人の期待に対してどれだけ忠実に働いたか、という視点で評価したのです。その意味では、この主人は実に公平な評価を下したのです。
 ところが、1タラントを預かった僕は、主人がケチで酷な人だと思い、与えられたものを用いることなく、土に埋めておきました。彼は主人の信頼と期待に応えるどころか、主人を恐れていました。彼は自分の主人がどういう人であるかを全く誤解していたのです。
 もし、私たちが同じように私たちの本当の主人である神さまのことを誤解しているならば、健全な生き方をすることはできません。私たちの神は、私たちのために御子イエスという最高の宝を与えてくださったお方です。私たちを愛し、心から信頼していてくださるのです。
 この神の愛と信頼が分かるとき、私たちの歩みは変わります。神の信頼に応えて、精一杯に生きることを始めるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 モーセは主に呼ばれ、再びシナイ山に上り、40日40夜、主の語りかけを聞きました。話を終えて山から下りて来たとき、モーセの顔は光を放っていました。友と語るように、主と顔と顔とを合わせて親しく語り合ったからでした。主の栄光を反映させてその顔が輝いていたのです。
 しかし、モーセ自身は自分の顔が輝いていることに気づいていませんでした。人々はモーセの顔の輝きを見て恐れ、近づこうとしませんでした。近づきがたいものを感じたのでしょう。そこでモーセは、人々の前では顔におおいをかけました。
 旧約の人物では、神の友と呼ばれたのはアブラハムとモーセだけでしたが、主イエスは弟子たちのことを友と呼ばれました。キリストを信じる者たちは、主イエスの友とされたのです。そして、神の友とされた者たちは、モーセのように神と親しく語り、その姿が変えられていきます。
 そのことをパウロはこう書いています。「わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」。主の栄光を見つめることにより、主に似た者へと変えられるというのです。「変えられる」という言葉は、昆虫が幼虫からさなぎへ、さなぎから成虫へと変態する姿を表す言葉です。私たちは時間をかけて、主に似た者へと変えられていきます。
 それがなされるのは、心にかかっているおおいを取り除き、主イエスを信じて、神の言葉に聴くときです。聖書をとおして表される栄光ある神の姿を見つめるとき、聖霊がそこに働いて、私たちも主に似た者へと変えられていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 金の子牛像礼拝の罪がモーセの命がけのとりなしによって一段落すると、主はモーセに向かって、約束の地を目ざして前進するように命じました。そのとき主は、「ひとりの使いを遣わして先立たせる」と言われました。しかし、主ご自身は民とは一緒には行かないというのです。その理由は、イスラエルの民が頑なな民であるため、旅の途中で再び罪を犯し、神の怒りによって滅ぼし尽くされてしまう恐れがあるというのです。そうならないためにも、主は一緒に行かないほうがいいだろう、と言われました。
 これを聞いたモーセは、粘り強く交渉を始めます。イスラエルの民が主の民であることを覚え、責任をもって彼らを導いてくださるようにと求めます。モーセが言おうとしていたことは、主ご自身が民と一緒に行ってくださるようにということでした。ミデヤンの荒野にいたモーセが主に召されたとき、尻込みするモーセに対して語られたことは、「わたしは必ずあなたと共にいる」という臨在の約束でした。モーセは今、その神の約束を求めました。神が共にいてくださることこそ、彼らにとって救いだったからです。
 モーセの切なる求めに対して、主は「わたし自身が一緒に行くであろう」とついに約束されました。この主の同行の約束があるからこそ、困難が待ち受ける荒野の旅を進んで行くことができるのです。
 教会は神の国を目ざして荒野を旅する群れです。その私たちにとって必要なことは、どんなに優れた指導者がいるかということではなく、神が共におられることです。教会は主と共に歩む群れだからです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 イスラエルの民の偶像礼拝に対して、神の怒りは燃え上がり、「彼らを滅ぼしつくす」とモーセに言われました。聖書の神は、人間の罪に対してはお怒りになる方です。罪を大目に見て赦してくださる、というのではありません。私たちがこの神の怒りを何か不当であるかのように感じるのは、罪に対する私たちの感覚がそれだけ鈍っているからです。神は罪に対してお怒りになる方です。
 モーセは主の激しい怒りをなんとか食い止めようとします。イスラエルの民が神の民であること、アブラハムたち父祖に対してなされた約束を思い出し、滅ぼすことを思いとどまるようにと訴えます。そのモーセのとりなしにより、主は民を滅ぼし尽くすのを思いとどまられました。
 モーセは急いで山を降り、激しい怒りをもってアロンと民を責め、罪を犯した者たちを処罰した後、再び主のもとへ戻って行きました。モーセは民の罪を認めた上で、民の罪を赦してください、と懇願します。その上で、「しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」と訴えました。自分の永遠の命と引き換えに、彼らを赦してください、と命がけのとりなしをしたのです。
しかし、そのとりなしにも限界があり、人間が人間の身代わりになることはできません。できるのは神の御子キリストだけです。主は私たちのために、十字架で命をかけてとりなしをしてくださいました。私たちに対する神の怒りは、御子イエスに注がれました。その命がけのとりなしは完全で、私たちは主のとりなしによって赦されて今があるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ペテロは十字架の直前に主イエスを三度も否み、取り返しのつかない挫折をして罪の重荷に苦しんでいました。そのペテロに復活の主イエスは、「ヨハネの子シモンよ。わたしを愛するか」と親しく声をかけられました。「あなたはわたしを愛するか」と聞けば聞くほどに溢れ出てくるものは、主イエスのペテロへの愛です。主イエスは、自信を失い、自らの罪深さや弱さを主の前に素直に認めたペテロに、一言も責めることなく、「あなたはわたしを愛するか。わたしはあなたを愛している」と言ってくださいました。
 主イエスは私たちを責めて、裁いて、切り捨てるお方ではありません。主イエスは私たちの罪を背負い、私たちの代わりに罪の呪いと刑罰を受けて死んでくださったお方です。この十字架にかけて主は私たちをどこまでも赦し、どこまでも愛したいのです。
 するとペテロは、「あなたはすべてをご存知です。こんな弱い私ですが、私はあなたを愛します」と言って、主の愛のみ手に飛び込んでいきました。「ごめんなさい」と謝罪で終わるのではなく、「ありがとうございます」と、主の赦しの恵みに大胆に飛び込み、すべてを知っておられる主の御手の中に、自分の弱さも挫折も罪深さも丸ごと委ねていったのです。主はそんなペテロに新たな使命を与えてくださったのでした。
私たちも何度も失敗し、挫折をすることでしょう。しかしその度に、「わたしを愛するか」と声をかけてくださる主の愛によって、立ち上がらせていただきましょう。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 主とイスラエルの民との間で契約が結ばれた後、モーセは再びシナイ山に登っていきました。ところが、そのモーセはいつまで経っても戻って来ませんでした。不安に囚われた人々は、アロンのもとへやってきて、モーセの代わりに導いてくれる神を造って欲しいと懇願しました。彼らは目に見える偶像を求めたのです。
 民の大きな問題は、モーセがいなくなったことにより、モーセが語っていた神までいなくなったかのように受け止めてしまったことでした。神がいなくなったわけではないため、彼らはモーセに代わる指導者を求めるべきでした。ところが、モーセの代わりになる神を求めるということは、人々にとってモーセは実質上の神になってしまっていたということです。神ならぬものを神とする、偶像礼拝の心がすでに彼らの心の中に潜んでいたのです。
 民の要請に応えて、アロンは金の子牛像を造らせます。十戒の第一戒だけでなく、偶像を造ることを禁じた第二戒をも破ってしまいました。彼らが求めたことは、自分たちのために神を造ることでした。それは、自分たちの役に立つ、自分たちに仕えてくれる神を求めたということです。これこそ、偶像礼拝の心です。彼らは、奴隷となっていたエジプトの国から導き出してくださった主を信じ切ることができませんでした。
 私たちが信じ仰ぐお方は、私たちのために十字架で命を捨ててくださるほどのお方です。そのお方は、人生の終わりに至るまで、私たちを背負い続けてくださいます。この恵みの神が分かるとき、私たちはもはや、他のいかなる存在をも神として慕い求めることから解放されるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 赦しの神を信じて、深い淵から主に呼ばわる詩人は、「わたしは主を待ち望みます」と告白します。ひたすら主を待ち望むその姿勢を、エルサレムの城壁を守る夜回りに自らをたとえて、夜回りが朝を待つにまさって主を待ち望む、と告白します。
 私たちはなかなか待つことができず、願い求めたことはすぐに実現することを求めます。罪の赦しにおいても、自分の罪の現実を見つめる苦しみから逃れようとして、急いで神の赦しを持ち出してきて、「自分は赦されているから大丈夫」と自分を安心させようとします。
 ところが詩人は、赦しの神を堅く信じるからこそ、主が赦してくださるのをじっと待ちます。待つというのは常に受け身です。神に主導権を明け渡しつつ、自分で自分を赦すようなことはせず、神がご自分の思いのままに赦しを与えてくださるのを待つのです。
 具体的には、「そのみ言葉によって、わたしは望みをいだきます」と詩人は語ります。神が赦しの言葉を告げてくださるのを待つのです。信仰生活の大切な鍵は、この「み言葉信仰」です。自分が勝手にそう思うというのではなく、聖書に基づいて、神の言葉によって信じることです。聖書の言葉が私たちの心に、力をもって、命をもって迫ってきます。聖霊の働きによって、「私の罪は赦された」との霊の確証が与えられます。
 このような罪の赦しが与えられるのは、御子イエスが私たちのために十字架にかかってくださった、贖いのみわざがあるからです。御子イエスの十字架のゆえに、私たちは赦しの神を信じて、神による赦しを待ち望んで生きることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)