「主と共に歩む教会」
(出エジプト33:1-16)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 金の子牛像礼拝の罪がモーセの命がけのとりなしによって一段落すると、主はモーセに向かって、約束の地を目ざして前進するように命じました。そのとき主は、「ひとりの使いを遣わして先立たせる」と言われました。しかし、主ご自身は民とは一緒には行かないというのです。その理由は、イスラエルの民が頑なな民であるため、旅の途中で再び罪を犯し、神の怒りによって滅ぼし尽くされてしまう恐れがあるというのです。そうならないためにも、主は一緒に行かないほうがいいだろう、と言われました。
 これを聞いたモーセは、粘り強く交渉を始めます。イスラエルの民が主の民であることを覚え、責任をもって彼らを導いてくださるようにと求めます。モーセが言おうとしていたことは、主ご自身が民と一緒に行ってくださるようにということでした。ミデヤンの荒野にいたモーセが主に召されたとき、尻込みするモーセに対して語られたことは、「わたしは必ずあなたと共にいる」という臨在の約束でした。モーセは今、その神の約束を求めました。神が共にいてくださることこそ、彼らにとって救いだったからです。
 モーセの切なる求めに対して、主は「わたし自身が一緒に行くであろう」とついに約束されました。この主の同行の約束があるからこそ、困難が待ち受ける荒野の旅を進んで行くことができるのです。
 教会は神の国を目ざして荒野を旅する群れです。その私たちにとって必要なことは、どんなに優れた指導者がいるかということではなく、神が共におられることです。教会は主と共に歩む群れだからです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)