「コロナ下の教会の歩み」

カテゴリー 佐藤牧師の日誌

 新しい年を迎えましたが、新型コロナウイルスの感染はますます広がり、宮城県もステージ3の状態に至ったものとして、私たちの教会では今日から再び、基本的には奉仕者だけが教会に集まるというスタイルの礼拝に切り替えました。
 そのような中、礼拝の中で、成人祝福式を行いました。残念ながら、成人を迎えた教会員も教会に集うことができず、インターネットの向こうで礼拝をささげているその方のために、離れた場所からではありますが、祝福の祈りをささげました。
 また、今月末の教会総会に向けて、会計監査が写真のように会計担当者と監事とをZoomで結び、リモートでの監査となりました。これもコロナ下ならではの光景でしょう。
 今日の日誌では、あえて「コロナ下」という表現を使いました。一般によく聞く言葉は、「コロナ禍」という表現でしょう。耳で聞く場合は、「コロナ下」も「コロナ禍」も同じになります。「禍」という言葉は、「わざわい」「災難」ということです。確かに、新型コロナウイルスは世界中の人々を襲っている大きな災いであることに違いありません。そのような中、ある牧師が「私たち神を信じる者たちは、たとえどのようなことが私たちの人生に起こっていても、それでも神は生きておられ、私たちを恵みをもって支配していてくださる、と信じる者たちである。それゆえ、この状況を『コロナ禍』という表現を用いて言い表すことは私は控えたいと思う」という趣旨のことを言われました。「なるほど、確かにそうだなあ」と教えられました。そのときから、「コロナ禍」という表現を使うのはやめました。あえて使うなら、「コロナ下」という表現でしょう。「戦時下」という表現があるように、「新型コロナウイルスが猛威を振るっている状況の下で」という意味になります。私たちは、本当に厳しいこの状況にあっても、新型コロナウイルスが世界を支配しているのではなく、御子キリストを与えてくださった恵みの神が確かに生きておられ、私たちには十分には理解できない摂理をもって支配しておられる、と信じたいと思います。
 今日の成人祝福式では、次の聖句を読んで祈りをささげました。

「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。」
 (エレミヤ書29章11節/口語訳)

 コロナ下にあっても、私たちに平安を与え、将来と希望を与えようとしておられる神の支配を信じ、その神に望みを置きつつ、この年も歩ませていただきたいと思います。皆さんのお祈りを感謝いたします。