「母を天に送って」

カテゴリー 佐藤牧師の日誌

 いつかそのような電話が来るものと思っておりましたが、まだ少し先だと勝手
に思っていました。今日で一週間になりますが、先週21日(土)の朝8時、母・幸子が入所している老人ホームから電話があり、朝、スタッフの方が部屋に行ってくださったとき、すでに布団の中で息をしていなかったということでした。
「これから医師を呼んで確認するので、また連絡します」とのことでした。それからしばらくしてから、正式に死亡の連絡がありました。87歳でした。私ひとりだけ許されて、亡骸が安置されている部屋に通していただきました。まだ寝ているようで、いつもの幸子さんの姿でした。
 ちょうど2日前の19日(木)の午後、家内と一緒に母を訪問しました。2月以降、面会はずっと禁止となっていましたが、母の部屋は1階の窓際であるため、いつも外から部屋の前に回り、カーテンを開けてもらって窓越しに顔を見ることができました。この日も案外元気な顔をしておりました。「コロナが収束したら、一度、新会堂に連れてきてあげようね」と家内と話しながら帰って来たことでした。残念ながら、その願いは叶いませんでした。
 葬儀については、コロナのこともあり、近親者だけでさせていただくこととしました。東京から私の姉と妹、そして私の家族4人、合わせて6人だけの小さな葬儀でした。けれども、これは私の願った形でした。来ようと思えば、きっと教会の方々が参列してくださったものと思いますが、もし、教会の方々がおられたならば、私は自分の母の葬儀においても、「牧師」という肩書きを身につけながらの葬儀となったことでしょう。今回は、コロナを理由にして、佐藤牧師としてではなく、佐藤幸子の息子として、葬儀を行うことを許していただきました。式の間は、会館のスタッフにも部屋から出ていただき、本当に6人だけで別れのときを過ごすことができました。家族だけだったからこそ語ることができたことがあり、心に残る葬儀となりました。
 まだ、本当はこの日誌を書く気持ちにはなれないのですが、いろんな方が陰で祈っていてくださったことを思い、その報告の意味で書かせていただきました。3年半前に両親が仙台に来てから、まもなく母の骨折、入院、手術、そして父の死などなど、次々にいろんなことが起こり、どうしたらいいかと迷い悩むこともありましたが、教会の方々に助けていただき、教団の仲間の先生方に祈っていただいて、ここまで守られました。皆さまのお祈りとお支えを心より感謝いたしま
す。私たち夫婦も、自分をいたわりながら、少しゆっくりとしたペースで、教会や教団の働きに戻って行きたいと思っています。引き続きお祈りいただければと思います。心より感謝しつつ。

シオンの園の窓の外から
最後の飾花