「礼拝へと至る救い」
(ヨハネ4:1-26)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 主イエスがサマリヤのスカルという町を訪れたとき、一人で井戸に水を汲みに来た女性と出会いました。対話の中で、彼女の乱れた生活が明らかにされました。彼女は心の空しさを癒すために、これまで次々と男性を変えていたのです。そのために、人々からは軽蔑され、いよいよ孤独と空しさは深く大きくなりました。 
 主イエスはそのような彼女を見捨てることなく、あなたの心の渇きを癒す、私が与える水を飲みなさい、と招かれました。彼女は主イエスによって、その存在が無条件に肯定される経験をしました。彼女にとってそれは、救い主との出会いでした。 
 彼女はこのとき、突然のように礼拝に関する話題を持ち出します。それまで神ならぬものを神のように慕い求めてきた、偶像礼拝に陥っていた自分の姿に気づいたとき、神を真実に礼拝することが一番の関心事となったのです。そのように、キリスト教信仰において、救われるということは、神ならぬものを神のようにして礼拝していたところから、イエス・キリストの父なる神だけを礼拝するように変わることです。 
 彼女が、「キリストと呼ばれるメシヤがこられることを知っています」と主イエスに告げると、「このわたしがそれである」と主は答えられました。彼女は、「イエスこそキリスト」と信じたのでしょう。町の人々のところへ行き、「この人がキリストかも知れません」と告げます。控え目ではありますが、これが彼女の信仰告白であり、それが世の人々への宣教の言葉になりました。 
  「イエスは主」と告白して救われた礼拝者は、「この方こそ救い主」と告げる宣教者とされるのです。 
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)