「罪に引き渡された人間」
(ローマ1:26-32)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 人生の第一ボタンである「神を神とする」ことをしないとき、私たちの人生における具体的な生活は崩れ、様々なズレ、乱れが生じます。パウロは不信心の罪に続いて、その具体的な罪の行為について取り上げています。
 真っ先に挙げたのは、性における逸脱、同性愛についてです。神が定められた自然の関係を不自然なものに代えてしまったと断罪されています。この同性愛については、それを個人の罪として片付けていいのかという点で疑問が残ります。むしろ、人類全体の罪という視点が必要でしょう。そこに神に背き続けた人間の罪が表されているということです。
 続いてパウロは、そのほかの様々な罪のリストを記します。私たちも当てはまるものが挙げられています。このため、「このぐらいは大したことではない」と考えてしまいます。しかし、これらは「死に値する」と言われます。
 私たちが悪いことだと知りながらも罪を犯し続ける理由について、聖書は「任せられた」という表現を繰り返し用いて説明します。神は人間を罪の欲情に引き渡してしまったというのです。そのため、もはや自分たちでストップをかけることができなくなってしまいました。
 神に見放されてしまっては、私たちにはもはや望みはなくなります。ところが8章32節で、同じ神が、御子を死に引き渡された、と語られます。死に値する人間たちの代わりに、その救いのために、御子イエスを死に引き渡されました。神は私たちの味方であることをやめません。私たちの立ち帰りを待ち続けておられる神が天におられます。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)