神の霊に導かれて生きる者たちは神の子であるとパウロは語ります。洗礼によって受けた霊は、「恐れをいだかせる奴隷の霊」ではなく、「子たる身分を授ける霊」だと言います。
このように語るのは、神の子とされたはずのキリスト者が、主人を恐れる奴隷のような心で生きてしまうことがあるからでしょう。アダムが罪を犯したとき、神を恐れて木の陰に身を隠したように、罪を持った人間は、断罪されるのではないかと神を恐れてしまうのです。
そのような私たちに、「あなたがたはもはや奴隷ではなく、神の子とされたのだ」と語ります。裁かれるのではないかと神を怖がって生きる必要はなくなりました。「子たる身分を授ける霊」によって、天の神を「アバ、父よ」と呼ぶことができるようになりました。「アバ」とは、主イエスが使っておられたアラム語で父親を意味する幼児語です。「パパ」と親しく呼びかけるときの言葉です。幼子が父親の懐に飛び込むようにして、愛と信頼を込めて、「お父さん」と呼びかけるのです。
主イエスがこの言葉を実際に口にされたのは、十字架を前にしたゲツセマネの祈りのときです。死の苦しみの中で、「アバ、父よ」と叫び声を上げられました。その主イエスが、私たちに同じように神を呼ぶように勧めておられます。
私たちの中には、「父よ」と神を呼ぶことを躊躇する思いがあるかもしれません。そのような私たちが心から「父よ」と神を呼ぶことができるのは、神と罪人との間にある深い溝を乗り越えるようにして、神が人となってこの世に来てくださり、十字架で命をかけてくださったからです。この神の大きな愛に応えて、「父よ」と呼ぶ者にされるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)