自分たちがユダヤ人であることを誇りとしていた人々に対して、パウロの厳しい批判が語られています。「ユダヤ」という言葉は「賛美」という意味ですが、彼らは自らを誇り、讃えていました。その彼らの誇りの一つは、自分たちが神から律法を与えられた民であることでした。そして、律法を持たない異邦人たちの教師、導き手であると自任していました。けれどもパウロは、教える立場にある彼らが律法に違反していると、その罪を厳しく指摘しました。
ユダヤ人たちのもう一つの誇りは割礼を受けている民ということでした。父祖アブラハムが神と契約を結ぶにあたり、そのしるしとして割礼を受けました。それ以後、ユダヤ人は割礼を受け、神の民のしるしとしました。その割礼は、あくまで契約の民のしるしであって、彼らが契約の言葉、律法を守り行っていない以上、彼らの割礼は無意味であるとパウロは指摘しました。彼らは中身の伴わない、見せかけのユダヤ人に過ぎないと断罪したのです。
すべての人に必要なのは、外側の形に救いの確かさを求めるのではなく、あるいは自分が持っている何かに求めるのでもなく、神の霊によって心が新しく造り変えられることが重要でした。旧約の預言者エゼキエルが見た幻のように、神の霊は死んだような者たちを生かす力があります。パリサイ人ニコデモに主イエスが語られたように、神の霊によって人は新しく生まれることができます。この神の霊は今も生きて私たちのうちに働いておられます。霊感を受けた神の言葉の働きにより、私たちは造り変えられ、神の子とされる誉れを受けることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)