◇ 牧会日記 2013年 1月~3月

植木鉢 2013年 1月 1日(火)(写真はこちら

 いつもの日曜日の礼拝よりは30分遅らせて、午前11時より元旦礼拝を行いました。記念写真を撮った後、茶話会を行い、一年の抱負、そして昨年11月に召されたM兄の思い出などを語り合いました。この一年も、主の守りと祝福がありますように。



植木鉢  1月14日(月)

  昨日、Gさんご夫妻が昨年8月に与えられた赤ちゃんを連れて、教会員のお母さんと一緒に礼拝に出席されました。そこで、礼拝後、祝福の祈りをささげました。昨日は誕生からちょうど5ヶ月になる日、健やかな成長を皆で祈りました。私も赤ちゃんを抱かせてもらいましたが、「教会に赤ちゃんがいるといいね」と皆さんが嬉しそうに言っておられました。
 今日、仙台は朝からずっと雪が降っていました。教会の周りも一面雪に覆われました。夜中に凍ったら明日の朝が大変だと思い、午後3時頃に一度玄関周りや駐車場の一部を雪かきしたのですが、夕方に見るとまた積もっていて諦めました。この辺りでも、夕方6時に23センチほどあり、明日の朝までには30センチぐらいになっているでしょうか。ひと冬に一度の大雪のようです。
 さて、今日1月14日は“どんと祭”の日。仙台に来るまではこのようなお祭を知りませんでしたが、宮城県内の各地の神社で盛んに行われているお祭りで、神社の境内で正月飾りを焼き、御神火にあたることで一年の無病息災・家内安全を祈願するお祭りだそうです。私たちの教会の近くには仙台東照宮が歩いて15分ほどのところにあり、宮城県内では3番目に多い、毎年6万人前後の人々がこの日に参拝に来るそうです。
 しかし今日はこの大雪。さすがに人出が少ないのではないかと思い、少し時間がありましたので見学に行ってきました。午後6時過ぎでしたが、ご覧の通り、出店が並ぶ参道は人であふれていました。ちょうど裸参り(白鉢巻、白さらし、き、白足袋、わらじの衣装で団体で参拝する)の人々が通るところでした。この雪の中、ごくろうさまです。また、本殿でお参りしようとする人々が長い列を作っており、その脇では、正月飾りが山のように積み上げられ、燃やされていました。とにかく、参拝者の多さに驚かされたことでした。大雪でも、皆さん来るんですね。
 このたくさんの参拝者のために、近くの小学校の駐車場が毎年無料で開放されています。もちろん、公立の小学校です。残念ながら、私たちの国では厳密な政教分離の原則は貫かれていないのですよね。同じく駐車場のスペースで困っている私たちの教会が、「クリスマス・イヴの礼拝には駐車場を貸して欲しい」と小学校にお願いしても、許可してくれることなどありえないことでしょう。
 クリスマスには、教会いっぱいに人があふれる、いつか私たちの国がそのような国になったらいいなあと思ったことでした。



植木鉢  1月27日(日)

 昨日も朝からたくさん雪が降り、少し晴れ間の出た昼頃にK兄姉と一緒に雪かきをして一度は玄関も駐車場もキレイになったのですが、夕方からまた雪が本格的に降り出し、一晩のうちに一面真っ白になってしまいました。娘に手伝ってもらい、玄関や駐車場を急いで雪かきしました。その後、昨日に続いてK兄が早く来て下さって、駐車場をすっかりきれいにして下さいました。感謝!
 教会の方々も、昨日も何度も雪かきをされた方々がおられ、今朝も苦労して出て来られたことでしょう。弘前教会や三沢教会、あるいは奥羽教区の教会ほどではないものの、北国における雪が降った日の日曜日の朝はなかなか大変なものです。今日は雪のために礼拝に来ることができなかった方々もおられました。
 今日は午後、教会総会が行われました。「イエスは主なり」の信仰告白が教会の全ての活動に表されていくようにと願いつつ、皆で課題を話し合いました。この年も、私たちの教会を導いて下さる十字架と復活の主の背を仰ぎつつ、歩みを進めたいと願っております。


植木鉢 3月 4日(月)
 久しぶりの牧会日記です。体調が悪いのではないか?と尋ねられましたが、そういうわけではありません。ご心配感謝いたします。
 今日は天気が良かったので、久しぶりに沿岸部に行ってきました。まもなく震災から2年を迎えるにあたり、このところ何となく心が落ち着かない、そんな気分がしています。
 まず最初に訪れたのは、若林区の荒浜交差点にあったコンビニが再開したと聞きましたので見てきました。かつての同じ場所にあり、先月21日にオープンしたばかりとのこと。あのあたりは居住が許されない地域だからでしょうか、プレハブの小さなめの店舗でした。それでも、何もかも流されてしまったあの道路沿いにお店が再開されたことは、ちょっと嬉しいニュースでした。
 その場所からすぐのところにある荒浜の海水浴場(深沼海岸)に行きました。3月11日に合わせて、慰霊のための観音像が建てられていました。工事の仕上げをしているところでした。石碑には、この地区で津波の犠牲となった200名近い方々の名前が刻まれていました。住むことが許されないこの地域で、せめて生きていた証を残したいという思いがご遺族の方々にはあることでしょう。来週はここで、慰霊祭が行われるものと思います。
 その近くにある荒浜小学校は、以前と変わらない状態でした。ただ、校舎には「ありがとう!夢 希望 未来」という横断幕が掲げられていました。荒浜小学校のホームページには、「昨年に引き続き、子供たち手作りの横断幕で、荒浜の被災校舎に感謝のメッセージを掲げました」と書かれております。近くの東宮城野小学校に間借りしている子どもたちや先生方の守りと支えを祈りたいと思います。
 続いて、名取市閖上の日和山へ向かいました。3月11日が近いということもあるのでしょうか、大型バスで外国の方や日本の方々が訪れていました。山から見下ろす閖上の町は何も変わらず、寂しい風景でした。復興が進まないこの光景を、被災者の方々はどのような思いで眺めているのでしょう。
 最後に、真冬の間ボランティアをお休みしていたOさんのお宅(畑)へ伺いました。ちょうどOさんが農作業をしておられて少し立ち話をしました。被災した家屋は昨年中にも取り壊す予定でしたが、どこも人手不足なのでしょうか、まだ順番が回ってこないとのことでそのままでした。暖かくなってきましたので、また伺おうと思っています。



植木鉢3月 8日(金)
               
 あの大震災からまもなく2年を迎えます。テレビや新聞などでは、被災地の現状を伝える報道がなされています。
 そのような中、最近になって、ちょうど一年前に発行された二人の歌人の本を買い求めて読みました。一人は、福島市在住の詩人で高校の国語教師をしている和合亮一さんで、『私とあなたここに生まれて』という詩集です。和合さんは被災地・福島に住み続けながら、インターネットのツイッターを通して、その苦しみ、悲しみ、痛みを詩に綴り、話題となりました。すでに数冊の詩集が発刊されています。
 わたしが手にした『私とあなたここに生まれて』という詩集は、昨年3月に震災から一年を迎えるにあたって出されたものです。その中で、わたしの心に特にとまったのは次の詩でした。

  もう               
  泣くのは止めよう   
 だけど止まらない  
  泣かないでいよう   
  もう   
  泣くのはやめよう   
  泣きたくないのに   
  泣いている   
僕じゃなくて   
涙が  
 泣いている  
 涙も  
 泣くんだね    

  
 このほかにも、被災地に住んでいる詩人ならではの心の叫びが聞こえて来る詩が綴られています。

 もう一人は、歌人・俵万智さんの『あれから』(俵万智3・11短歌集)という歌集です。震災当時、俵さんは息子さんと二人で仙台に住んでおられましたが、子どもの健康を心配してすぐに仙台を離れ、遠く南の島に住むようになりました。その俵さんに対しては、「恵まれているから」「離れたくても離れられない人がいる」というような批判も聞かれたと言います。確かに、そのように言いたくなる人の気持ちは理解できます。他の地域に移りたくても、そのように出来ない方々が多くおられるからです。自分たちの地域を、いわば捨てていった人に対する恨めしい気持ちが湧き上がるのも仕方のないことなのかもしれません。
 そして、これと同じようなことは、形を変えてさまざまなところで聞かれます。行政が用意した仮設住宅には入らず、アパートなど“みなし仮設”と呼ばれる住宅に住んでいる人に対して、仮設住宅で暮らしている人たちから「あなたたちは恵まれている」「自分たちばかりいい生活をしている」「地域を捨てた」など、さまざまな陰口がたたかれたと聞きます。不自由な生活をしておられる方々が、そのうっぷんをそのような形で晴らしたくなる気持ちも分かります。
 けれども、被災地から避難して行った方々が悪いのではなく、仮設住宅に入居せずにアパートに入った方々が悪いのでもありません。震災そのものが悲しむべきものなのであって、誰かを恨むのは筋違いというものでしょう。
 俵万智さんはその歌集の中で、避難していった南の島での息子さんとの生活を綴っておられます。母と子の、いわば小さな世界を歌った短歌に対して、インターネットの読者レビューなどでは、「震災の恐怖や悲しみを生々しく覚えている自分には、この作品はあっさりしすぎた味わいに思えた」とか、「今も仙台に住んでる親子は傷つくなぁと思いながら読んだ」などの批判も記されています。
 確かに、福島に住み続けながら作品を発表しておられる和合さんとは、歌風が明らかに違います。和合さんの詩からは、被災地の悲しみや苦しみがストレートに伝わってくる感じがします。しかし、和合さんと俵さんでは、男性と女性の違いがあり、住んでいる世界や関心の違いなどがあるため、歌風が違うのは当たり前のことでしょう。それを、被災地から避難していったことと結びつけて非難するのは、やはり気の毒であるように思います。我が子を守ろうとして、少しでも安全な場所で生活したいと願うのは、母として当然の態度であるからです。
 俵さんは、聞こえて来る批判に答えるようにして、子を守ろうとする母親の覚悟をこう歌っています。

   子を連れて        
   西へ西へと  
   逃げてゆく  
   愚かな母と  
   言うならば言え  
     
 また、自らの震災体験をも、母と子の視点から次のように詠んでいます。

   ゆきずりの
   人に貰いし
   ゆでたまご
   子よ忘れるな
   そのゆでたまご

   空腹を
   訴える子と
   手をつなぐ
   百円あれど
   おにぎりあらず

 和合さんとは違って、激しい感情のほとばしりのようなものはありませんが、これはこれでいいんだなあ、と私は読みました。留まる人も、逃げる人も、どちらも被災者としての苦しみを負っているのだと思います。そして、震災を悲しみ、いのちの尊さを思う心は同じであるように思いました。
 被災した多くの方々の悲しみと心の痛みが癒されるようにお祈りいたします。
 



佐藤信人



植木鉢3月11日(月)

 東日本大震災からちょうど2年となる今日、被災地をまわってきました。最初に行ったのは、石巻市の門脇地区。「がんばろう!石巻」と大きく書かれた看板。そして、震災直後の火災によって校舎が丸焦げとなってしまった門脇小学校。その背後にあるのが何度も訪れたことのある日和山公園。震災当日、住民が階段をかけあがって日和山に避難したというルートを通って山の上へ。テレビ局の車が何台もとまっていました。
 続いて女川へ。いつもの女川町立病院へ。津波で横倒しになったビルはまだそのまま残されていました。半年前にココに来ましたが、ほとんど何も変わっていない、進んでいないという印象でした。
 いつもは女川まで行くと引き返していたのですが、今日は国道398号をそのまま進み、旧雄勝町方面へ。雄勝へ行くのは初めてだと思っていたのですが、7年ほど前の夏、家族で海水浴を兼ねて1泊旅行に来たことがありました。旧雄勝町の中心地だった地区には雄勝硯伝統産業会館や雄勝中学校、雄勝小学校などの廃墟がまだそのまま残っていました。ただ、石巻の市街地あたりとは違って、工事関係者以外の人影はほとんどなく、町全体が廃墟となってしまいっている、そんな印象を受けました。ほかの場所は、今日が3月11日ということもあって、私のように被災地見学に訪れる方々が結構いたのですが、この雄勝町あたりはそのような人たちも少なく、いっそう寂しさを感じさせました。地域によって、様々な違いがあるものですね。
 そこから国道398号をさらに進んで、今日の一番の目的地である旧河北町(現在は石巻市)釜谷にある石巻市立大川小学校跡に行きました。全校児童108人のうち74人が津波の犠牲となったあの小学校です。最近も、NHKの特別番組で放送されていましたし、『あのとき、大川小学校で何が起きたのか』などの本にも詳しく書かれています。この本を読んで以来、一度この目で現地を見てみたいと思っていました。北上川にかかる新北上大橋から少し降りたところにありますが、周りにはもう何もなくなっており、小学校の建物だけが残されています。ひっきりなしに見学の方々が訪れていましたが、生活感がまったくない建物だけが残されているため、校舎の周辺を歩いても、ココで74人もの子どもたちが犠牲となったという実感はまったくわきませんでした。とても想像できないというのが正直なところです。報道されているように建物のすぐ後ろには山が迫っていて、あのとき、橋のそばの三角地帯を目指すのではなく、山に登っていれば津波の犠牲にならなくても済んだのではないか……という遺族の方々の無念さは察するに余りあるものでした。真相解明を求める裁判が遺族によって起こされていますが、無理からぬところでしょう。ただ、誰もが想定していなかった大津波だったことを思うとき、みんなが納得できるような判決は出ないであろうと推測されます。ご遺族の方々の悲しみ、怒り、嘆きの思いが鎮められていくようにと祈るばかりです。
 今日まわった場所はどこも、復興どころではなくまだ復旧の途上といった場所ばかりです。またほとんど災害危険区域(住宅の新築や建て替えが認められない場所)であることを考えると、建物などが取り壊されて更地になったあと、それらの場所はいったいどうなるのでしょう。いつの日か、復興されるときが来るのでしょうか。時間をかけて見守っていきたいと思わされました。  
 震災から2年。この牧会日記で教会の様子や被災地の様子を紹介してきましたが、ここで一区切りとしたいと思います。教会の様子は、「写真館」のページでこれからも紹介していきたいと思います。私のコメントは、教会のオフィシャルなページに掲載すべき内容だろうか、という躊躇がこれまでもありましたので、「牧会日記」としてはこれで終了といたします。ただ、被災地の様子を遠方の方々に紹介したいなあという思いもありますので、もしかしたら、別の方法で発信していくかもしれません。
 いずれにいたしましても、これまでの皆さんのお祈りとご支援を心より感謝いたします。



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