主イエスが祈っておられる姿を見ていた弟子たちが、「わたしたちにも祈ることを教えてください」と願い出ました。主イエスの祈る姿を見て、自分たちの祈りとは全く違うことに気づかされたのでしょう。
この弟子たちの求めに対して、主イエスは「主の祈り」を教えてくださいました。それに続いて、真夜中にパンを求めて隣人の家の戸を叩く人のたとえを語られました。長旅をしてやってきた友人のために、隣人にパンをもらおうとして必死に家の戸を叩く姿は、閉ざされている祈りの世界が開かれることを願い求める弟子たちの姿と重なります。
このとき、弟子たちが目にしたのは、主イエスの祈りの世界は自分たちの知らない世界、別次元の世界ということでした。その主イエスの祈りの世界は、ヨルダン川で洗礼を受けられた直後の出来事に表されています。主イエスが祈っておられると、天が開いて、聖霊が主イエスの上に下り、天からの声が聞こえました。祈りとは、閉ざされていた天が開かれ、父なる神との対話が生まれる、そのようなものです。そのような世界になるために必要なもの、それが弟子たちに欠けていた聖霊なる神の働きでした。先ほどのたとえの最後で、主イエスは「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」と言われました。祈りを成り立たせる聖霊なる神を遣わしてくださるとの約束です。
そして、聖霊の助けによって、天が開かれるために、「主の祈り」を与えて下さいました。主の命の息吹が注がれたこの祈りをとおして、聖霊が豊かに働き、天が開かれる出来事が私たちにも起こるのです。主エスは今日も、私たちをそのような祈りの世界へと招いておられます。
(仙台南光沢教会 佐藤信人牧師)