「神は、あなたは私たちの父」
(イザヤ63:11-19)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 神を信じる者たちの人生にも、「神よ、どうしてですか」と問いたくなるような出来事が起こるものです。預言者はここで、神の恵みと憐れみはどこに行ってしまったのか、と神に詰め寄っています。まるで迷子になった幼子のように、神がどこにもおられないと嘆き、叫び声をあげています。預言者は、そのようになった理由を知らなかったのではありません。イスラエルの民の罪が原因であることをよく分かっていました。
 ところが、それでもなお、「あなたの熱情はどこに行ってしまったのか」と問うのです。神がかつて持っておられた腸が痛むほどのたぎる思いが消えてしまったと嘆きます。そして、神に向かって、私たちのこの苦しみをよくご覧ください、と訴えます。神の憐れみがなければ、神の民は生きていけないからです。
 そのように神に激しく詰め寄った後で、「あなたは我々の父です」と告白します。たとえ神が私たちを見放してしまわれたように見えても、神が私たちの父であることに変わりはない、と信じ告白したのです。自分たちの現実は、父祖アブラハムに見捨てられても仕方がないような者たちであることを預言者は認めます。「されど主よ、あなたはわれわれの父です」と信頼します。
 預言者がこの一点に拘るのは、神が自分たちの父でいてくださることが救いだからです。これさえはっきりすれば、どんな状況にも耐え、生きることができるからです。たとえ目に見えるところは厳しい現実があっても、神を信じる者たちとって最も確かな現実は、神が私たちの父でいてくださるということです。どんなときも、このことを信じて、「されど主よ、あなたは私たちの父です」と呼びかけようではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)