「私たちのための十字架」
(イザヤ53:1-12)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 「苦難のしもべ」と呼ばれるこの歌は、イエス・キリストを預言したものとして受け止められてきました。重い病を負った彼は、見る影もないほどにやつれ、人々からは忌み嫌われ、嘲られました。人々は彼のことを、罪の報いとして神の裁きを受けているのだとみなしました。
 ところが、「そうではなかった」と著者は語ります。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」と。彼が負っていた病と悲しみは、自分の罪によるものではなく、本来私たちが負うべきものを代わりに負っていたというのです。「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ」。繰り返し出てくる「われわれ」とは、神に反抗し、自分勝手な道を突き進む迷子の羊としてのわれわれです。
 神は、そのような私たちの罪をこのしもべに負わせられました。イスラエルで罪の償いをするとき、羊や山羊が犠牲となり、民の罪を負わせられたように、神はこのしもべに罪を負わせることにより、私たち人間の罪を赦し、平安を与えられました。
 ここに表されている苦難のしもべの姿は、私たちのために十字架にかかられた主イエスの姿そのものです。主イエスは私たちのために、人々から嘲られ、ムチで打たれ、十字架にかけられました。その主イエスの十字架の犠牲により、私たちに罪の赦しとしての神との和解が与えられ、平安が与えられました。
 このキリストの十字架のゆえに、私たちはもはや、神に裁かれることはありません。この恵みに応答して、私たちは心から「あなたこそ私の主」と告白し、ひれ伏すのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)