「主の山に備えあり」
(創世記22:1-14、ローマ8:32)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 アブラハムが人生の充実期を迎えていたある日、神は彼に「愛するひとり子イサクを燔祭として捧げよ」という厳しい試練をお与えになりました。それは、アブラハムの子孫を通して世界中が祝福されるという神の約束が破棄され、それを信じて歩んできた彼の人生が無に帰することを意味します。アブラハムは神が分からなくなってしまいました。
 しかし翌朝、アブラハムは神が示された山にイサクと共に黙々と登りました。そして激しい葛藤を通して、自分が今まで信じてきた神は真実であり、全能であり、愛のお方であることを再確認します。イサクをささげよと言われる神を理解できないにもかかわらず、このお方に確かな信頼を寄せるに至ったのです。全てを委ねたアブラハムは、燔祭の小羊がないことを不思議に思うイサクに答えました。「神が備えてくださる」。
三日目、いよいよアブラハムがイサクに手をかけようとしたとき、神は角を藪にひっかけた一匹の雄羊を与えてくださいました。アブラハムはそれを息子の代わりに燔祭としてささげることができました。
神ご自身こそが、一番大切なひとり子をさえ私たちのために惜しまずに死に渡してくださいました。このお方は私たちの先を見ていてくださり、み子と共に全てのものを私たちのために備え、与えてくださるのです。「主の山に備えあり」。先の見えない試練であればあるほど、何かの形で神の備えがそこにあることを私たちは信じて歩んでいくのです。

(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)