律法からの解放を説くパウロですが、律法そのものが悪であると言うのではありません。律法を否定しているのではなく、律法を行うことによって義と認めてもらおうとする、律法主義を退けています。
パウロは、かつてはパリサイ人として、「律法の義については落ち度のない者」(ピリピ3:6)であったと告白しています。そのパウロが、自分が願う正しい生き方ができず、願ってない悪を行ってしまう、という罪の苦しみを告白します。そして、「それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」と言います。罪が外から侵入してきて、そのまま住みついてしまっているというのです。決して自分の責任を逃れようとしてこう語っているのではありません。否定しがたいほどの、徹底した罪人であることを認めているのです。
そこで、全面降伏するかのように、「わたしは、なんとみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と叫びます。「だれが」とは、自分の中に救いの可能性がないことを認め、外に救いを求めた言葉です。「だれか、私を救って欲しい」という救いへの叫びでもあります。
パウロはそのどん底から神に目を注ぎ、「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」と述べます。こんな私をも救ってくださるキリストがおられる、と。キリストが私のために十字架にかかってくださった、と信じるところから、神への感謝が生まれたのです。
私たちは自分で自分を救おうとすることをやめ、キリストの恵みを素直に受け取る信仰へと招かれています。神への感謝は、キリストを信じる者の生きる姿なのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)