「自らを神にささげて生きる」
(ローマ人への手紙6章1-14節)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

洗礼によってキリストと結ばれ、罪に対して死に、新しいいのちに生かされた者たちに対して、パウロは「だから」と述べて、恵みを受けた者としての当然の生き方を語ります。それは、神から与えられたからだを罪の支配にゆだね、不義の道具として罪に差し出してはならない、ということです。そうではなく、そのからだを新しい主人である神にささげなさい、と勧めます。
パウロがこのように語るのは、キリスト者になった後も、かつての主人である罪の支配に自らをゆだねてしまうことがあったからです。私たちが救われるということは、それによってキリストの支配が人生の全ての領域で実現した、というわけではありません。そのため、もはや罪を犯す可能性がなくなったというのではなく、支配権をめぐる信仰の戦いが続いています。
パウロがこの手紙を書いていたときに滞在していたコリントの教会では、自分のからだを情欲のままに不義の道具として用いている人々がいました。パウロはそのコリントの人々に対しても、キリストが命をかけて買い取ってくださったそのからだは聖霊の宮であり、そのからだを罪のために用いてはならないと諭します。キリストが命の代価を払って買い取ってくださり、「あなたは私のものだ」と告げておられるのです。神のものだからこそ、神の栄光のために自らをささげて生きるようにとパウロは喜びをもって勧めます。
私たちは同じように、贖いによって神のもの、キリストのものとされました。それだからこそ、自分の人生を神にささげ、神に遣わされた者としてこの世に生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)