「罪を思い出さない神」
(イザヤ43:14-28)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 出エジプトの奇蹟のみわざばかりを思い起こしていた捕囚の民に対して、主は「さきの事を思い出してはならない」と言われました。過去における神の恵みのわざの思い出が、新しいみわざを期待するのをかえって妨げていたからです。
 さらに神は、「もうあなたの罪を思い出さない」と言われました。このとき彼らは、先祖から続く背きの罪のために神の裁きを受け、長い間囚われの身となっていました。その自分たちの罪を否定することなどできず、自分で自分を救う、自己救済の可能性もありませんでした。
 彼らに残された救いの道は、神によって罪を赦していただくしかありませんでした。だからこそ、主は「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」と言われました。民の功績などではなく、神の側の一方的な憐れみによって、民の罪を赦すというのです。
 罪を忘れるといっても、それは決して簡単なことではありませんでした。その方法は、「あなたの罪の重荷をわたしに負わせ」とあるように、主ご自身が彼らの罪の重荷を背負うことによってでした。「負う」という言葉は、名詞になると「しもべ」という言葉になります。イザヤ書は後半にかけて、神によって遣わされた苦難のしもべを紹介します。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」(53:4)。
 この預言は、御子キリストにおいて成就しました。主イエスが十字架で私たちの罪を負うことにより、救いが与えられました。キリストのゆえに、神は私たちの罪をもはや思い出さない、と告げてくださるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)