「歪んだ罪の論理を捨てて」
(ローマ3:5-8)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 パウロによってユダヤ人も異邦人と同じように罪人であると言われた彼らは、神の正しさを問題にします。ユダヤ人の不義によって神の義が明らかになるなら、怒りを下す神は不義なのではないか、と。このユダヤ人のように、罪を指摘されてもそれを素直に認めようとせず、どこまでも自分を正当化しようとする人がいます。屁理屈を並べ立ててでも、自分は正しいと主張します。そこが崩れてしまっては、自分の存在の基盤が崩れてしまうからです。
 パウロは、「断じてそうではない」とこれを断固として否定します。神が不義であったら、もはや神が世をさばくことができなくなるではないか、と言うのです。
 それでも、ユダヤ人の屁理屈は続きます。私たちの罪のおかげで神の真実、栄光がより鮮やかに表されるのであれば、どうして罪人としてさばかれなければならないのか。むしろ、神の栄光のために、大いに悪を行おうではないか、と福音を曲解する人々さえいました。
 これに対してパウロは、「彼らが罰せられるのは当然である」と語りました。この「罰せられる」という言葉は、福音書では主イエスの十字架の場面で使われています。当然罰せられるべき私たち罪人に代わって、罰せられるはずのない御子が十字架で死なれました。私たちを罪から救い出すためでした。本来は、この主イエスの十字架こそ、不当なさばきでした。
 しかし、この主イエスの十字架によって、救いの道が開かれました。キリストのゆえに、「わたしもあなたを罰しない」と主は私たちに赦しを告げてくださるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)