「悔い改めに導く神の慈愛」
(ローマ2:1-5)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 他者をさばく者たちに、パウロは「あなたには弁解の余地がない」と告げます。人をさばくということは、自分を基準とし、自分をものさしとして人の良し悪しを判定します。そこに、自己絶対化が生じます。人をさばくとき、私たちは自分を神としてしまうのです。
 しかも、気づかないうちに、自分も同じことをしています。そのため、他者をさばきながら、自分自身に対して判定を下していることになります。それゆえ、言い逃れすることはできません。
 ところが、他者をさばきながらも、自分は神のさばきから逃れうると考えてしまいます。パウロがここで直接語りかけていたのはユダヤ人に対してでした。彼らは前の章で異邦人の罪について語られていることを聴きながら、「そのとおりだ」と思っていたでしょう。ところが、「あなたがたも同じ罪を犯しているではないか」と指摘されたのです。ユダヤ人たちは、自分たちは神によって選ばれた特別な民であるゆえ、さばかれることはないと思っていました。
 しかし、そうではありません。神はさばきを直ちに下すことを控え、私たちが悔い改めるのを待っておられるのです。神のさばきがないのではなく、慈愛と忍耐と寛容をもって、私たちが悔い改めるようにと呼びかけつつ、待っておられます。この大きな恵みを拒むことは、終わりの日に向けて、神の怒りを積んでいることになります。
 悔い改めへと導く神の愛が注がれているからこそ、私たちは神のもとに帰ることができます。生かされているということは、神が愛をもって待っておられることなのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)