「キリストの僕とされた喜び」
(ローマ1:1-7)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 使徒パウロは自分がまだ訪れたことのないローマの教会に手紙を書き送るにあたり、自己紹介をもって始めます。そのとき、自分がいかに由緒ある家柄の出身であるかを誇示するのではなく、「パウロ、奴隷」と自らを名乗りました。当時のローマ帝国では、自由人の数十倍の数の奴隷がいました。パウロは身分としては奴隷ではなく自由人であり、それ自体誇らしいことでした。ところがパウロは、自らを奴隷として紹介したのです。
 奴隷たちの誇りは、誰の奴隷であるか、主人は誰かという点でした。パウロは、キリスト・イエスの奴隷であると、喜びをもって紹介します。かつて自由人として生きていたときは、本当の自由はそこにはなく、罪の奴隷として生きていたことをパウロはよく知っていました。悲しいことに、人は罪の奴隷として生きているとき、そのほうが自由な生き方であるように錯覚します。罪に抵抗するほうが不自由な人生であるように思ってしまうのです。しかし、人が自分を主人として生きようとするとき、周りの者たちを虐げ、抑圧し、奴隷状態へと追いやります。
 パウロはそのような罪の奴隷からキリストの僕(奴隷)へと変えられました。それは、キリストご自身が自らを僕として私たちの救いのために差し出してくださったからです。キリストの十字架によって罪の奴隷から解放されたとき、パウロは喜んで自らをキリストの前に差し出しました。罪の奴隷からキリストの奴隷へと仕える主人が変わりました。
 「イエスは主なり」と告白する私たちは、キリストに仕えて生きる喜びが与えられているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)