この箇所は、神がイスラエルの民と契約を結ぶ場面です。モーセが民に契約の書を読み聞かせると、民は「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」と誓約しました。
そこでモーセは次の日、契約の儀式に臨みました。築いた祭壇に雄牛をささげ、その血の半分を祭壇に注ぎ、残りの半分を鉢に取り、民に振り注ぎました。これは、契約の当事者である神と民の双方にいけにえの血を注ぐことを意味しました。
この行為は、当時の契約の儀式を表していました。創世記15章でアブラハムが神と契約を結んだとき、動物を二つに切り裂き、向かい合わせに置いた間を神が通られることによって契約が結ばれました。もし契約を破るようなことがあれば、この動物のように自分の血が注がれても構わないという覚悟を表しました。
このモーセの契約も、民が律法を破ることがあれば、契約が破棄されることを、動物の犠牲によって表すものでした。しかし、イスラエルの民は契約を破り続けたため、ついには神によって滅ぼされるに至りました。旧い契約は破棄されたのです。
これに対して、神は御子イエスをこの世に送り、新しい契約を立ててくださいました。動物の血によるのではなく、御子イエスの十字架の血による永遠の契約です。しかも、私たちが罪を犯す前から、神が一方的に責任を負われた恵みの契約でした。相応しくない者たちと、新しい契約を結んでくださったのです。
私たちに求められていることは、差し出された恵みに対する信仰です。「イエスこそ神の子救い主」と信じ続けることにより、この契約の中に生かされるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)