「願いが叶わなくても」
(サムエル記下7:1~20)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 ダビデは神への感謝として、立派な神殿を建てようと志しました。ところが神はその願いを退けられます。しかし神はダビデを拒んでいるのではありません。むしろ逆に、「ダビデとその子孫と王国に、さらなる祝福を与える」と、驚くような約束をしてくださったのでした。
 ダビデはその圧倒的な神の恵みを前にして、自分は何をしたところでその恵みに報いることができないほど、小さく弱いことを自覚します。そしてそんな取るに足りない者が神に選ばれ、豊かな恵みの中で今日まで大事に導かれてきたことを、深く感謝したのでした。
 するとダビデは自分の願いが却下されたことなど、もはや問題ではなくなりました。神がこれからも共にいてくださり、私の喜びも悲しみも、不安も無力さも、私という人間をよくご存じでいてくださることを悟ったとき、願いが叶わなくてもダビデは満たされました。これ以上何も言う必要がないほど、満ち足りたのでした(20節)。
 神は私たちの罪深さも弱さも、全てをご存じです。その上で私たちを選び、私たちの罪を赦すために、ひとり子を十字架につけてしまったほどに、私たちを愛しておられます。そしてその愛と真実にかけて、私たちの人生を何があっても責任をもって負うとおっしゃるのです。
 それならば私たちは、この上何を神に申し上げるのでしょうか。自分の願いが叶わなくても、その圧倒的な恵みのゆえに、私たちは神の「NO」を受け入れることができるのです。「NO」と仰る上で、さらに大きな祝福を備えてくださる神ご自身に、私たちは満ち足りるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)