「ユダを招かれる主」
(マタイ26:14-25)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 12弟子のひとりであったユダは、主イエスこそ、イスラエルをローマの植民地支配から解放する王であると信じていました。しかし期待外れの主イエスに失望したユダは、わずか銀貨30枚で、主を祭司長たちに引き渡してしまいました。
 最後の晩餐の席で主イエスは、「人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」。と仰いました。私たちも、自分の思い通りにならないなら主イエスなどもういらないと言って、神がせっかく与えてくださったひとり子を、その愛と命を捨ててしまうことがあります。それは、生まれてこなかったほうがよかったと言わなければならないような、重大な罪なのです。
 しかし、「わざわいである」とは「ああ」という嘆きの言葉であり、主は罪深い私たちを、子どもに背かれた母の嘆きにも似た悲痛な心で、悲しんでおられます。そして、私のもとに帰って来なさいと、愛と赦しをもって招いておられるのです。
 「自分の思いや期待とは違うというつまずきを乗り越えて、私に従ってくるのか、それとも、イエスなどもういらないと私を捨てるのか、あなたはそれを自分で決めなければならない。そして私は、今でもあなたを愛する弟子として招き続けている。ずっと待っている」、そのように主は私たちに語りかけています。
 私たちの罪を赦すために、その尊い命を惜しげもなく捨ててくださった主イエスです。私たちは、たとえどのような罪を抱えていても、決して見捨てることなく招き続けてくださる主の愛に、安心して飛び込んで生きていこうではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)