2012年 3月 牧会日記

植木鉢  3月 4日(日)

 震災からちょうど1年になる3月11日(日)を前に、私たちの教会では『東日本大震災 わたしの3.11』というタイトルで文集を発行することになりました。教会内の30名ほどの方々が文章を寄せて下さいました。来週の日曜日に正式に皆さんにお渡しするために、今日の礼拝後、有志で製本作業を行いました。写真にあるように、まさに完全に手作りの文集です。皆さん楽しみにしておられたのでしょう、早速できあがったものを持って帰られました。来週は午後の縦割り部会で、震災からの1年を語り合うときを持つ予定です。
 その後の伝道委員会のあと、2日(金)から今日まで3日連続で、利府にあるグランディ21で行われている“東北☆希望の祭典”にH兄と一緒に行ってきました。駐車場から会場に入ろうとしていたとき、近くにいたスタッフの男性から「佐藤先生!」と声をかけられました。すぐには分からず、「えっ、どなたでしたっけ……」と必死に思い出そうとしていると、「大倉です」とのこと。何と、北米ホーリネスの大倉信先生が、スタッフの一人として奉仕しておられました。15年ぶりくらいの再会でしょうか。嬉しいハプニングでした。
 午後4時からのオープニングにぎりぎり間に合いました。次々と音楽のゲストが登場。私は最初の森祐理さんは分かったものの、あとは知らない方がほとんどだったのですが、一緒に行ったH兄によると、本場の米国のゴスペル界では超有名なゴスペル・シンガーだそうです。私は全然知らないものですから。
 都合があって早めに失礼しましたが、東北だけでなく関東などいろいろな地域からクリスチャンの方々が集っておられるようでした。
 帰り際、薄暗い会場の中で、「佐藤先生」とまた呼び止められ、よく見ると、日本国際飢餓対策機構の仙台倉庫で奉仕をしておられた女性で、今も仙台におられるとのこと。もう地元に帰られたものと思っていましたので、お会いできて良かったです。
 この3月に各地でもたれるこのような集会・大会が祝福あふれるものとなりますように。


植木鉢  3月10日(土)

 今朝、また雪となりました。このところ週末になると雪が降り、土日に雪かきをする週が続いています。特に、今朝の雪は、あの震災の日の夕方のことを思い出させる、そんな感じがして、ことさら冷たく感じます。
 震災からちょうど1年になる明日の日を前に、この1週間、テレビなどでは震災に関する特集番組が放送されています。それらを見ては再び涙を流しながら、とても言葉では表現できないような、いろんな思いを抱えております。
 震災によって犠牲になった方々のことを悼むとともに、今なお苦しむ多くの被災者の方々のために、自分は何もしていないではないか、何もしてあげられなかったではないか、という思いがどうしても湧き上がって参ります。そこに苦しんでいる人々がいるのに、十分に手を差し伸べられないでいる、それらの人々をいわば見捨ててしまっている、そういう自分たちであることに、後ろめたさや責めを感じているのだと思います。
 この週、二人の男性の教会員から少しお話を聞く機会がありました。お二人とも、津波によって大きな被害を受けた沿岸地域に何年も居住したことのある方です。そのお二人とも、かつて住んでいた場所を一度は見に行ったものの、見るのに耐えられなくて、もうしばらくは見に行きたくない、ということでした。記憶に残っている風景が一変してしまっており、そこに何があったのかも思い出せなくなるほどに痛めつけられてしまった故郷の姿を見るのに耐えられないといいます。ひとりの方は、実際にその場所に足を踏みいれようとすると、気分が悪くなって立っていられなくなるほどだということです。私のようなよそ者は、痛み悲しみながらも、(言うならば平気で)津波の被害にあった沿岸部を見に行くことができるのですが、地元への愛着が強い方ほど、受けた心の傷は大きいようで、1年たった今もなお、その傷は癒えていないようです。女性の方の中にも、作成された震災に関する文集をとても読む気がしない、そういう方もおられます。あの日の恐怖が蘇ってきて、いたたまれなくなるからです。沿岸部に行かなくても、身近なところに、ケアを必要とする方々がおられるようです。
 私たちの周りでさえそうだとするならば、津波で一切を失った方々は、どんなに大きな苦しみ、絶望を抱えておられることでしょう。仮設住宅に暮らす方々の場合、1年間は猶予が与えられていた借金の返済が、その期限が切れる4月からは待ったなしになるということで、本当の苦しみはむしろこれから始まると聞きました。
 そのような中、明日、震災から1年になる日を迎えます。被災者の方々は、“震災のこと、苦しいことなど一切忘れたい!”という思いを抱えながら、「あの日を忘れないために」とテレビなどではしきりに繰り返されるために、何度も心の傷口を開かれる、そういうときを過ごしているのではないでしょうか。被災地以外の方々には、この震災のこと、自分たちが今なお苦しんでいることを忘れないで欲しい、と願う一方、自分たちは「あの悲惨な記憶をもう忘れたい」と思う、そういう不安定な心の状態で、明日の日を迎えます。
 「主よ、われらをあわれんでください。われらをあわれんでください。」(詩篇123篇3節)



植木鉢  3月11日(日)(写真はこちら

 震災からちょうど1年となる今日、この1年の歩みを守り支えて下さった主に感謝をささげるとともに、犠牲になられた2万人近くの方々を悼み、また今なお多くの苦しみを抱えておられる方々の慰めと励ましを祈る礼拝をささげました。この日に合わせて、昨年10月に弘前に行かれたY兄もおいでになり、共に礼拝をささげることができました。
 午後、縦割り部会を行い、4つのグループに分かれて、震災からのこの1年を振り返り、感じていることを分かち合いました。とにかく無我夢中で駆け抜けたような1年を過ごされた方、逆に、何か抜け殻になったような感じで1年が過ぎた方、仕事に忙しくしながら被災者の方々のために何もしていない自分に後ろめたさを感じつつ過ごされた方など、それぞれいろんな思いを抱えての1年だったようです。そのような素直な思いを互いに聞き合うときが与えられて本当に良かったなと思ったことでした。皆さんのお話を伺いながら、「みんなそれぞれ、傷つき、悩み、苦しんでこられたのだな」と思わされたことでした。思いは持ちつつも、他者を助けるところまで体力や気力が及ばない、そういう方々が多くおられるように感じました。
 最後にもう一度全体で集まり、午後2時46分に合わせ、1分間の黙祷をおささげしました。
 この1年間、全国の皆さんのお祈りとお支えを心より感謝いたします。復興の道はまだまだこれからです。引き続きお祈り下さいますよう御願い致します。


植木鉢  3月13日(火)(写真はこちら

 今日、予定していた傾聴ボランティアが中止になりましたので、前からずっと気になっていた女川と東松島に思い切って行ってきました。高速道路の無料化措置が3月末までですので、そのときまでに行かないと結局行く機会がないだろうなと思っておりましたので、今後の予定を考えると、今日が最後のチャンスでした。
 石巻の先にある女川には、2006年10月の休日に、釣り好きのM兄ご家族と我が家の家族、そしてRくんと9人で釣りに行きました。マリンパル女川でトイレを借り、女川魚市場の前の岩壁から釣りをしたのをよく覚えています。ちょうど女川のサンマ漁船が転覆事故を起こしたときで、警察やテレビ局が待機しているときでした。あれから5年半ぶりに女川を訪れました。マリンパル女川の建物は残っていましたが、他の建物はほとんど取り壊され、更地になっていました。少し高台にある女川町立病院は津波の被害を受けることなく残っており、その上から見下ろすと、こんなに小さな町だったの?と思うほど、何もなくなっていました。ところどころ、まだ舗装されていない道路があり、おかげで車が泥だらけになりました。この女川町で1000人近くの方々が犠牲となりました。
 女川からの帰りに、東松島市の野蒜に向かいました。ここも津波被害の大きかった場所です。この野蒜海岸のすぐ目の前にある、かんぽの宿・松島は、昨年6月に予定していた北日本教職セミナーの会場として予約していたホテルです。この建物の3階まで浸水し、避難してきた方々は4階に逃げて助かったということです。近くの鳴瀬第二中学校も、校舎だけが残っていました。また、同じく野蒜海岸の前にある松島自然の家には、もう10近く前に有志のセミナーで宿泊しました。何とか建物が残っていましたが、面影はまったくありませんでした。何より、野蒜海岸の前には松林が広がっていたのですが、やはりここも、松林がほとんどやられてしまっていました。地盤沈下によって砂浜が削られた野蒜海水浴場が、何ともさびしく目に映りました。
 震災から1年が経過した後ではありますが、ずっと気になっていた被災地をこの目で見ることができて良かったなと思います。実際に見ることによって、被災地および被災者の方々のための祈りが少し違ってくるような、そんな感じがしています。チャンスがあれば、まだ一度も行ったことのない気仙沼にいつか行きたいなと思っています。



植木鉢  3月14日(水)

 日曜日が終わってから、被災地に住む者たちが心のどこかに共通して持っている“後ろめたさ”ということがずっと心にひっかかっています。日曜日の日記でも紹介したように、震災の分かち合いをしたときに、自分の生活や仕事に追われて、被災者の方々のために特別に何もしていない自分に後ろめたさを感じている、と言われた方が何人かおられました。決して思いがないわけではなく、他人のことなどどうでもいいと思っているわけではありません。何かをしなければと思いつつ、とてもそこまで余裕がない、というのが現実です。
 このような“後ろめたさ”のようなものは、被災地に住む者たちだけでなく、それ以外の地域に住む方々の中にも、同じような思いを持っている方々があるいはおられるかもしれません。しかし、やはり、被災地に住む者たちのほうが、その思いが強いように感じます。被災の様子をテレビなどでずっと見聞きしているからであり、関東や関西などからボランティアの方々が働きに来ておられるのを見ているからです。そのような働きを見れば見るほど、「それに比べて、自分は被災地に住んでいながら、何もしていない」と、後ろめたさ、心の責めを感じるようです。
 私がこのことが心に引っかかっているのは、私自身も、心の底にそのような思いを持っているからだと思います。牧師である自分が、そして私たちの教会が、被災者の方々のために十分な働きが出来ていない、そういう思いを心に抱えていたんだなあと改めて気づかされたことでした。私たちの教団ではクラッシュ・ジャパンを通してボランティアの働きが続けられていますが、関東を中心に先生方や信徒の方々がご自分の働きを犠牲にしておいでになるのに、地元の教会がほとんど協力できていない、いや私自身がその働きに加われないでいる、ということに、やはりどこか後ろめたさのようなものを感じていたのだと思います。
 この種の後ろめたさを最も強烈に感じたのは、今月4日(日)に行った東北☆希望の祭典に行ったときでした。仙台圏を中心に、東北地方の教派を超えた多くの教会が協力し、牧師や信徒の方々がスタッフとして奉仕しておられる会場に、私は来場者の一人として、お客さんのようにして行きました。もちろん、しばらく前から大会の案内が来て、スタッフ募集の案内も何度も来たのですが、教会内には全くアピールしませんでした。別に大会そのものに反対しているわけではありません。私たちの教会の様子を考えると、とてもスタッフを送ることはできないなあ、そもそもアピールをしないほうがいいだろうなと私が判断したからです。そして、私自身も、スタッフとして奉仕する元気なんてないなあと思い、事前の集まりに一度も顔を出しませんでした。「今度の打ち合わせには、教会から必ずどなたかを出して下さい。出席されない教会には、決心者が出ても紹介することができないかもしれません」という、脅しのような案内もいただいたのですが、「ああ、こういうやり方をするんだ」と少しショックを受けながら、やはり行くことができませんでした。大会当日にいただいたパンフレットには、当然のことですが、協力教会一覧の中に、私たちの教会の名前はありませんでした。同じホーリネスの築館教会の名前が載っている中で、私たちの教会はありませんでした。決して、自分たちの名前も載せて欲しかったというのではありません。ただ、多くの教会が協力教会として名を連ねている中で、全く協力をしていないことに対する強烈な後ろめたさを感じたことでした。
 そのような思いを抱えながら、一週間後の11日(日)の午後の分かち合いにおいて皆さんが今感じていることをお聞きしながら、「後ろめたさはあるものの、やっぱり私たちはこの姿勢で行こう」と、反対に思いを強くしたことでした。すなわち、心身共に、深いところで疲れを感じている教会の方々に、無理に何かを強いるようなことはすまい、と。“協力しない教会”と言われても、目の前におられる方々の心の声に耳を傾けて、今はまず、私たちが元気になることに力を注ごうと。疲れがとれ、少し元気が出て来たら、「ねばならない」という思いではなく、「何かをしたい」という思いが生まれてくるのではないかと、そう思います。後ろめたさを解消するための働きではなく、「わたしも何かをしたい」という思いからの働きでありたいと思います。おそらく、それだけが、自分をも他者をも生かす働きになるのではないかと思います。
 私自身のことを言えば、春に向けて、少しその思いが生まれてきた、そんなところです。


植木鉢  3月18日(日)

 今日の礼拝は、久しぶりの方々が何名か出席されました。ご主人の転勤で沖縄へ行かれた方が一年ぶりにおいでになりました。また今は大学の春休みということで、一人は札幌から、もう一人は千葉から、それぞれ久しぶりに私たちの教会の礼拝に出席されました。
 この春、私たちの教会から2人の若者が進学や就職で他県へと転居されます。このところ毎年春になると、若者が進学のために仙台を出て行きます。牧師として願うことは、学びや仕事が守られ祝福されることもそうですが、何よりも、教会にしっかりとつながり、神の言葉によって養われつつ、大切な青年時代を過ごして欲しい!ということです。この時代にどのような教会生活を送るかは、後の信仰者生涯に大きな影響を与えるからです。それぞれの前途の祝福を祈りつつ、4月には入れ替わるようにして私たちの教会にも若者が来て欲しいなと願っているところです。
 そのようなことから、今日は午後、大学進学を前にした方の送別会が行われました。御言葉に聞き、ゲームをし、夕食をいただき、楽しいときを過ごしました。次にみんなで会えるのは、8月のユースジャムのときでしょうか。東京で会えるのを楽しみにしています。



植木鉢  3月22日(木)

 20日(火)から21日(水)にかけて行われた教団総会の行き帰りの新幹線の中で、宮城県知事・村井嘉浩氏の書いた『それでも東北は負けない』という本を読みました。宮城県以外の方は、村井知事のことがお分かりになるでしょうか。大阪の食い倒れ人形に何となく似ている顔で、数ヶ月前に、当時復興担当相に就任したばかりの松本龍大臣との会談でのやりとりが大きな話題となった、あの知事です。震災後、その迅速な対応などが評価されて、村井知事は宮城県では非常に人気が高いのです。
 その村井知事が、震災当時のことを振り返りつつ、その後の復興の道のり、そして宮城県の将来を語っています。その文章は、「東日本大震災は過去の話ではありません」という言葉で始まります。「でも、忘れないでいただきたいことがあります。一年が経過したといっても、今でも仮設住宅で暮らしている被災された方々は、いまだに震災という重荷を『現在進行形』で背負って生きている、ということを。」とあって、本当にその通りだなあと思います。私たちでさえ、一年が経過して、「去年は大変でしたねえ」と言われたりすると、何だかもう過去の出来事のように扱われてしまっている気がして、返事に苦慮することがあります。
 この村井知事が、今、県民に人気が高いのは、私も分かる気がします。自衛官出身の村井氏の、震災直後の対応、発言が非常に明確でブレがなく、かつ何事にも冷静に対処していたからです。そのことを最も印象づけたのが、あの松本龍・元大臣とのやりとりでした。復興担当相に就任したばかりの松本大臣が初めて被災地入りすることになり、宮城県庁で村井知事は大臣を迎えました。テレビで何度も放映された通り、ビジネスにおけるマナーに従い、大臣を先に応接室に入っていただき、ひと息ついたところで知事が入っていきました。用事があって遅れたわけではありません。大臣が応接室に入るとき、すでに村井知事は応接室に入るもう一つのドアの前で待っていたのです。ところが、松本大臣は自分がほんの少し待たされたことが気に入らなかったらしく、村井知事の握手を拒絶し、「いいか、お客さんが来る時には自分が入ってからお客さんを呼べ。“長幼の序”がわかっている自衛隊ならそうするぞ!」と村井知事を叱りつけたのです。そのときの村井知事の対応を見て、「村井知事、エライ!」と思ったものです。県民は皆、松本大臣のあの不遜極まりない発言に怒り心頭でした。村井知事も本の中で、一瞬、迷いました。「大臣、お言葉ですが、ここは応接室ですので、お客さまを先にお通しするのがエチケットなのです」 そんな言葉がのど元まで出かかりましたが、私は黙って大臣の言葉を受け入れることにしました。

と書いています。私だったら、あの場面で決して黙っていられず、思わず反論してしまうだろうなと思います。「お前のほうが間違ってる!」と。村井知事は、反論しなかった理由をこう書いています。

とにかく私が優先すべきいは宮城県の復興です。自分のプライドや感情が先走ることで、担当大臣と揉めることは決して得策ではありません。遠回りをする時間は1秒たりともないのです。

 自分の立場やメンツばかりにこだわるような政治家やリーダーが多い中で、復興を進めるために自分の感情を抑えて大人の対応をした村井知事は、そのことで株を上げることになりました。一方で、感情のままに子供染みた発言をした松本大臣は職を追われる形となりました。
 このほかにも、実直に復興への思いをつづっている文章にとても共感を覚えるとともに、リーダーとしてのあり方を考えさせる一冊でした。これに比べると、私たちは牧師という聖職者にありながらも、自分の立場やメンツにこだわったり、感情を抑えきれずに発言したりと、リーダーとしては不適格な要素をたくさん抱えているなあと思わされたことでした。



植木鉢  3月25日(日)

 今日は福島教会との講壇交換で、田中綏子先生が私たちの教会においでになり、私は福島教会での奉仕でした。福島教会では、礼拝後、昼食をいただきながら、震災からの1年を振り返りつつ、それぞれ感じていることを話していただいたのですが、私たち宮城県民と福島県民では、意識・関心が大きく違うことに改めて気づかされました。すなわち、皆さんの口から出ることは放射能のことがほとんどです。福島市が内陸にあるということもあるのですが、津波被害のことよりも、とにかく放射能のことで、福島県では、震災がいまなお現在進行形であることを実感しました。私たちの教会で3月11日に震災からの1年を振り返っての分かち合いをしたときのように、「あのときはこうだった」という振り返りが話題の中心ではなく、「今、放射線がどのくらいで、どのようなことがなされているか」ということが話題の中心でした。しかも、皆さん放射能のことを話し出したら止まらないのです。それだけ、普段はストレスを抱えながら過ごしておられるのだということがよく分かりました。厚い雲がどんよりと覆っている、そんな感じを常に受けながら生活しておられるのです。これでは疲れるなあ、震災がまだまだ終わっていないんだなあと本当に思いました。また、原発の補償問題では、マスコミが取り上げにくい、いろんな事情があることも聞かされ、ため息ばかりが出たことでした。福島教会の方々、また福島に住んでおられる方々に主の支えがあるように引き続きお祈りしたいと思います。
 福島教会からの帰り道、福島市から海側へ抜けて、海岸沿いを北上して帰ろうと思い、福島市から伊達市、そして海側にある相馬市に入りました。あの有名な南相馬市の北にある相馬市です。クラッシュ・ジャパンの仙台ベースでは、「ボランティア空白地帯」とも言われるこの相馬市で、地元の教会に協力して移動カフェの働きをしようとしていると聞いておりましたので、いきなりでしたが相馬キリスト福音教会にお邪魔し、先生に挨拶してきました(写真)。いつかクラッシュの働きに参加したいなと願っております。
 そこから県道38号線相馬・亘理線を北上しました。相馬港、新地町あたりも、海岸沿いは建物の土台ばかりが残っている場所が多く、また至る所でガレキが山積みになっていました(写真)。最もショックだったのは、福島県との県境にある宮城県山元町にある坂元駅でした。津波で駅舎が流されたことはテレビなどでも放映されていましたが、現在は駅前のトイレとホームが残るだけで、ここが駅だったとはすぐには信じられませんでした。カーナビが「ここが坂元駅だ」と伝えてますし、レールがわずかに残っていましたので、確かに坂元駅なのだろうと思ったのですが、ココを電車が通っていたとはとても想像できませんでした(写真)。周辺の建物も今ではほとんどなくなっていました。
 それからさらに北上し、最後に亘理町荒浜の鳥の海に寄りました(写真)。やはり、公園だった場所にガレキが山積みになっていました。
 このように福島県北部から宮城県南部にかけて、ずっと海岸沿いを北上したのですが、どこも建物がなくなって土台だけになり、ガレキが山積みになって手がつけられていない、そんな光景ばかりでした。見れば見るほど、津波被害の大きさを思い知らされます。それだけ、家を失い、家族を失った方々がおられるということ。ガレキもまだまだ片付かず、道路も壊れたままだったり、復興とはほど遠い状況を見せつけられました。ため息が出るばかり、主の憐れみのわざを祈り求めたいと思います。


植木鉢  3月29日(木)

 27日(火)から本日29日(木)まで、私たちの教団の家族年会が横浜にて行われました。横浜で家族年会が行われるのは今回で3回目。最初は忘れもしない2004年、山口先生ご夫妻が福島教会で奉仕をしておられたときのことです。プログラム最初の歓迎晩餐会の会場に行くため、中華街の中を歩いていると、当時8才だった詩織が、「お父さん、幸子先生がいる」と言うので、「何言ってんの、幸子先生は骨折されてまだ直ってないはずだから、ココにいるはずないでしょう」と言いながら詩織が眺める方向を見ると、「ええっ」と思わず二度見! あまりの驚きに、「幸子先生? ちゃんと足ついてる?」と足もとを確かめたほどでした。「ええ、何とか出て来られました」と言われた幸子先生。忘れられない思い出の一つです。
 2回目は2007年、このときは私が風邪を引いて出席できず、家内たち3人だけが出席しました。そして今回、直前に知香が体調を崩したため、残念ながら私だけの出席となりました。本来、教団110周年記念大会を兼ねて昨年行われるはずでしたが、震災のために1年延期されました。
 横浜山下公園の目の前にあるホテル・ニューグランドに宿泊し(写真)、集会は少し離れたワークピア横浜という会場で行われました。最初の歓迎晩餐会で、東北教区を代表して、昨年の震災支援に対するお礼を皆さんに述べる機会が与えられ感謝でした。改めて、全国の先生方や教会の皆さんにどれほど祈っていただいていたかを実感するときでした。
 2日目の午後、111周年記念集会が神奈川芸術劇場ホールにて行われました。もったいないような素晴らしいホールで、よく練られたプログラム。本当に楽しいひとときでした。今年行われるユースジャムのテーマソングを何度か歌いましたが、その賛美リードの女の子の一人は、福島教会のK姉のお嬢さん(現在は上野教会に出席)で、ギターを弾いていた子は三沢教会のK兄姉のお嬢さん(現在は鵠沼教会に出席)、何だか嬉しくなりました(写真)。また、PK(Pastor's Kids)と呼ばれる牧師の子どもたちがステージに上がり、子どもミュージカル風に讃美をささげてくれましたが、その光景に胸が熱くなりました(写真)。みんなそれぞれ、牧師の子としていろんな苦労をしながらも、こうやって何年かに一度、牧師の子どもたちが集まって一緒に讃美できるなんて、何という貴重な経験だろう、「ああ、家族を連れてきてあげたかったなあ」と思わされたことでした。そのぐらい、とても心に残る、いい集会でした。企画して下さった先生方にお礼を申し上げました。
 そして最終日の今日、聖別派遣式が行われ、私たち夫婦が改めて仙台教会と福島教会に任命を受けました。また、田中綏子先生も引き続き福島教会に任命され、また教師試補から補教師となりました(写真)。それぞれ新たに任命を受け、次の日曜日、4月1日から教団としては新年度の歩みがスタートします。特に、転任される先生方は、今日の年会が終わり、早速新しい任地へと赴任されました。転任された先生方と、迎える教会の上に、格別な主の顧みがあるようにとお祈りいたします。


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