2011年9月 牧会日記


植木鉢 9月 2日(金)

 日曜日の午後、兄弟団石巻教会の先生方が大変な中、懸命に頑張っておられる様子を見た後、私の中にはいろんな思いが渦巻いていました。そのうちの一つは、これまで最も大変なときに、何の支援もして差し上げられなかったことに対する後ろめたさのような、何もできないでいる自分に対するもどかしさ、力の足りなさなど、果たして自分はこれでいいのだろうか?と自問する思いでした。
 そのような中、火曜日の朝早くから胃が痛みはじめ、その痛みが次第に激しくなり、じっと寝ていられなくて、少しでも楽な体勢がないだろうかと繰り返し寝返りを打つような、そのような時間が4〜5時間続きました。実はこれまでも、もう10年以上も前から、たまに(1年に1回あるかないかの頻度で)同じような胃の痛みに襲われることがあり、決まって数時間はただ痛みに耐えるしかない、そのようなことがありました。ほとんど一過性のもので、疲れがたまったりしたようなときに(そのような自覚はないのですが)、そういう症状が出るようです。
 今回、私の主治医のY兄(直接受診したことはまだ一度もないのですが)に相談したところ、いろんなケースもありうるから一度検査を受けたほうがいいのではないかとアドバイスをいただき、受診する医院にも連絡を取っていただきました。そして昨日、血液、超音波、内視鏡など一通りの検査を受けました。結果はどれも異常なく、心配する必要はないとのことで、ひとまず安心しました。
 それにしても、教会の皆さんがよくご存知のように、私はよく風邪をひいたり、頭痛が出たり、お腹をこわしたりと、あまり体力があるほうではないようで、他の牧師たちのように休むことなくバリバリ働く、ということは出来ないようです。そのような自分であることを自分で受け入れながら、自分に出来る働きをするように、ということでしょう。ですから、足りない部分は教会の皆さんに助けていただきながら、上手に優先順位をつけながら、働きを進めていきたいと願っております。ご心配とお祈りを感謝いたします。



植木鉢 9月 5日(月)

 毎年春に太田和先生をお迎えしてドミニコの家で行っている牧会者のための静まりのセミナーが今年は中止となりましたが、そこに集っている有志の牧師たちで、ときどき“静まりの集い”というものを行っています。今日、久しぶりに、震災後初めてとなる集いに出席しました。山形県にある他教団のS先生のご自宅に5人が集まり、半日の静まりの時を持ちました。
 午前中は各自でこの半年間の歩みをそれぞれ振り返るときを持ちました。私は、その教会から車で3分ほどのところにある東沢バラ公園というところに行きました(写真)。約7ヘクタールの敷地に750種2万株ものバラが植えられています。6月上旬から7月上旬にかけて行われるバラまつりのときは有料なのですが、それ以外のシーズンは無料で開放されています。秋のバラまつりが9月中旬からあるそうで、その少し前で、思っていたよりもたくさんのバラが咲いていました。そのバラの花を眺めながら、CSで歌う賛美を思い出しておりました。

       小さな野の花でも 主の愛を受けて輝く
       あふれる主の恵みは いついつまでも
       バラはバラのように すみれはすみれのように
       わたしもこのままの姿で ついてゆきます

 この歌詞にあるように“バラはバラのように”と歌うのですが、そのバラひとつをとっても、決して同じではなく実にいろいろな種類があることを今さらながら再認識しておりました。バラにしてみれば、“バラはバラのように”なんておおざっぱなことは言わないで欲しい!と思っているかもしれません。バラの中でも、ピースはピースのように、バイオレットはバイオレットのように咲いているのです。
 それと思うとき、他人が自分と違うということを認めることが、私たちにはどうしてこんなにも難しいのだろうと思っていました。私自身の歩みを振り返っても、自分とは異なる考えを持ったり行動したりする人のことが気になり、知らずのうちにさばいてしまいます。そこにいつも自己絶対化が起こっていることに気づかないで、常に自分が正しくて、そうでない人を“そのままの姿”では本当には受け入れられないでいる、そういう自分がいることをバラ園を散歩しながら振り返っていました。
 美しいバラを眺めながら、自分の偏狭さを思い知らされながらも、そのような私を私として、忍耐をもって受け止めていて下さる主の深い憐れみを覚えて、感謝の祈りをささげました。
 久しぶりに、ゆっくりとした豊かなときを過ごしました。



植木鉢 9月 6日(火)

 しばらくお休みしていた傾聴ボランティアに一ヶ月ぶりに伺いました。この一ヶ月の間に、畑の風景がだいぶ変わって、野菜が実り、瓦礫を取り除いていた畑も耕されて、順番に苗が植えられているところでした。周囲の田んぼに放置されていた車もやっと撤去されていました(写真)。
 私がお話を伺っているおばあちゃまも前よりも少し落ち着いてきた感じがします。だからこそでしょうか、これまでよりも津波のときの様子を多く話して下さいました。最初の頃は、やはり津波のときのことを思い出したくなかったとのこと。少し話せるようになったということは、少し心がゆったりしてきたということなのでしょうか。
 帰りに、息子さんが畑で採れた野菜を下さいました(写真)。泥で覆われていた畑から、野菜が収穫できるまでになったことを思うと、とてもうれしくなりました。津波の片付けがだいぶ進んで、畑仕事が始まった分、これからのほうがもっと忙しくなるとのことでした。震災以来、ほとんど休みなく働いておられるようにお見受けする息子さんが倒れてしまわないようにとお祈りしました。
 お祈りといえば、お話を伺っているおばあちゃまが今日、「私は南無妙法蓮華経だし、教会には行けないけど、牧師さんが私のために何でもいいから毎日祈って下さい」と頼まれました。「じゃあ、ご家族のためにこちらでお祈りしてますね」と約束しました。ご家族の上に、主の守りと祝福があるようにと祈り、主に感謝をささげました。



植木鉢 9月 9日(金)

 午後、入院しておられるI姉を訪問しました。レントゲン検査の結果、来週火曜日には退院できることになったとのこと。今日で事故からちょうど3ヶ月、手術の日から3ヶ月ほどかかると言われておりましたので、予定よりも早く退院できることになりました。お祈りをありがとうございました。
 そのI姉のベッドの枕元に『健全な信仰をどう育てるか』(丸屋真也、いのちのことば社)という本があるのを見つけ、その内容のことで少しお話ししました。この本は、3月の震災直前に買っておいたのですが、ずっと読むことができず、8月の旅行中、電車の中で読んだ本です。その内容がとっても良いため、教会の皆さんにもぜひ読んでもらおうと購入しましたら、すでに教会図書に入っておりました。自分が読む前に買ってあったようです。
 この本には、私たちの信仰が健全な成長を遂げていくために、どのような訓練や導きが必要であるかが記されています。どうもこういう部分が、私たちの教団はこれまで弱かったように思います。罪を犯した場合、悔い改めと信仰が強調され、きよめを求めるようにと言われるのですが、なぜそのような罪を犯してしまうのか、その原因を深く探るということまであまりしてきませんでした。そのために、悔い改めたはずなのに、きよめられたはずなのに、また同じ罪を繰り返し犯してしまう、ということがあります。そのような私たちにとって、同じことの繰り返しで終わらないように、失敗をしながらも、その信仰が成長、成熟していくためにどのような姿勢が大切であるかを教えてくれています。この本の「はじめに」に書かれている文章を少しだけ引用します。

 筆者が長年の臨床経験の中で気づいたことですが、クリスチャンが何かの問題に直面したり、また、何か失敗したりすると悔い改めはするのですが、その問題や失敗から学んだことを次に生かし、霊的に成長するということはあまりないようです。
 失敗したり、罪を犯したりする背後には必ず、理由や原因があるのではないでしょうか。ですから、悔い改めて罪が赦されても、そこに至った理由なり、原因なりはすぐには取り去られないのです。そこに霊的なメスを入れて、罪や問題に陥った原因をしっかりと主に取り扱っていただかなければ、再び同じことを繰り返してしまうのです。

 いかがでしょうか。私は丸屋先生が書いておられる通りだなあと思います。自分にとっては辛い作業かもしれませんが、このように丁寧に自分を吟味することなしに、健全な信仰はなかなか育っていかないように思います。そのような作業は自分ひとりだけでは大変ですから、同じような関心のある方々と少人数でこの本の読書会をしながら、他の人と一緒に、自分の信仰や弱さを見つめていく、ということが必要なのではないか、I姉とお話しながらそんなことを思わされたことでした。皆さんにぜひお勧めしたい一冊です。


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植木鉢 9月12日(月)

 先週、車でラジオを聴いていましたら、竹内まりあさんの“September”という曲がリクエストされて流れてきました。一瞬、「なんでまたこんな曲を?」と思ってハッとしました。「ああ、そうか、今は9月なんだ!」わたしの中では、あの震災以来、何かそういう暦の感覚というものがおかしくなっていました。暑さの変化などから季節の移り変わりを肌で感じているはずであり、教会行事などからも今が何月であるかは分かっているはずなのですが、それでも、あの“September”という曲が流れてきたとき、何かそれまで違う世界に旅をしていたような、急に現実の世界に引き戻されたような、そんな不思議な感覚に包まれました。大げさに言えば、あの震災以来、わたしの中では3月11日が基点となり、あの日から何日、あの日から何ヶ月、ということでしか物事を考えられなくなっていた、そんな感じがしています。
 そして昨日、震災から半年が経過しました。この牧会日記でも何かを書かなければと思いながらも、言葉が見つかりませんでした。わたしたちの周りでは、落ち着きを取り戻してきたとは言いつつも、中には心身ともに深い疲れを覚えている方々が多くおられます。まして、津波によって家族を亡くされた方々、家や財産を失った方々、今も避難所で暮らす方々、仮設住宅に入ったものの、仕事がなく、今後の生活の見通しが全く立たないでいる方々、原発事故による放射能汚染で日常生活を奪われてしまった方々、それらの方々のことを思うとき、自分の言葉があまりにも軽く感じてしまい、言葉を失います。わたしたちでさ、今も疲れを感じ、戸惑いを覚え、自分たちの無力さに悲しくなることがあるというのに、もっと被害が深刻だった方々はどんなであろうと、そう考えてしまいます。わたしたちの場合、それら言葉にならない思いを訴える相手、わたしたちの心のうめきを聴き取って下さるお方を知っていますが、そうでない方々は、何をより所として過ごしておられるのでしょう。
 それら多くの被災者の方々に、父なる神による慰めと励まし、必要な助けと支えがあるように、今日も祈りをささげます。

「見よ、しもべがその主人の手に目をそそぎ、はしためがその主婦の手に目をそそぐように、われらはわれらの神、主に目をそそいで、われらをあわれまれるのを待ちます。主よ、われらをあわれんでください。われらをあわれんでください。」(詩篇123篇2、3節)



植木鉢 9月15日(木)

 今日、クラッシュ・ジャパンでのボランティアのために、緊急支援対策室長の山田智朗先生(尾久教会)と教団委員の上中栄先生(鵠沼教会)が来られるとのことで、森郷キャンプ場に行ってきました。夕方のミーティングに出席したのですが、今日は外部からの参加者は二つのホーリネス・チームだけでした。どこの被災地もそうなのですが、9月に入り、ボランティアにおいでになる方々がかなり減っているようです。そのような中、山田先生たちは明日一日の奉仕のために、今日関東からおいでになり、土曜日にまた戻られるとのこと。鵠沼教会の3名の若者たちと一緒に、5名でおいでになりました(写真)。どんなに大変な週末を迎えることでしょう。本当に感謝いたします。
 一方、K姉がボランティアをしておられる日本国際飢餓対策機構の物資倉庫でも、体調を崩している方々がおられたりして、ボランティアの数が減っているとお聞きしました。震災から6ヶ月が過ぎ、すでにあれだけたくさんの方々が全国から、全世界から被災地に来て下さったのに、まだまだやるべきことがたくさん残っているという現実を見るとき、それほど広範囲にわたる大きな災害だったのだと改めて思わされています。これまで耐えてきた被災者の方々が疲弊し、支援する側も疲れてきているのを見るとき、いつもの祈り、「主よ、憐れんで下さい」という祈りしか出なくなります。
 そんな中、今日、上中先生の奥様からヘンリ・ナウエンの『主の憐れみを叫び求めて』という題の、ナウエンの祈りを記した本をいただきました。その訳者あとがきに、次のように書かれていました。

 私たちも時として、「主よ、憐れみ給え」(キリエ・エレイソン)としか祈れないことがあります。また、言葉に表せないうめきしか出てこないこともあります。心からあふれる多くの言葉による祈りであろうと、さまざまな思いや感情が込められた「主よ、憐れみ給え」の一言の叫びであろうと、あるいは言葉に表せないうめきであったとしても、私たちの祈りの奥底に、深いうめきをもって私たちの内で絶えず祈っておられる御霊の祈りがあるとは、何と大きな慰めでしょうか。

 御霊の祈りに支えられて、「主よ、憐れみ給え」(キリエ・エレイソン)の祈
りを続けたいと思います。



植木鉢 9月19日(月) 写真はこちら

 日曜日から今日にかけて、1泊2日で東北教区クリスチャンミーティングが岩手県金ヶ崎にあるみどりの郷にて行われました。日帰り参加者も含めて、5つの教会から55名の参加でした。震災の影響もあったのでしょうか、例年よりは少し少なめの出席でした。
 昨年11月の全国信徒大会以来の再会でしたが、あの震災があったために、信徒大会などずいぶん昔の出来事のような、そんな感じがしました。それでも、命が守られ、支えられて再会できたことを互いに喜び合いました。
 担当教団委員の中西雅裕先生(横浜教会牧師)が講師として来て下さり、コリントの手紙を中心に御言葉を取り次いで下さいました。尊いご奉仕に心から感謝いたします。
 このように回を重ねるごとに、他の教会の方々ともお互いに知り合いとなり、その交わりが年々深められていくことを嬉しく思います。また、今日の午後の賛美集会では、いつものように三沢教会のジ・アークの方々がご奉仕をして下さいました。全国信徒大会のテーマソング「あなたこそ」をみんなで賛美すると、あの信徒大会の感動が鮮やかに蘇ってくるような思いでした。改めて、いい賛美ですね。皆さんが言われるように、信徒大会の予定が一年ずれて今年だったら、とても開催できなかったことでしょう。私たちの教区があの大会でご奉仕できたのは、主の大きな恵みと憐れみでした。
 今後のクリスチャンミーティングについて少し話し合われましたが、来年もさらに多くの方々と主のみ前に集うことができるようにと願っております。
 少し、ハプニングもありましたが、詳しくは明日の日記に記します。お祈りを感謝いたします。



植木鉢 9月20日(火) 

 昨日の牧会日記で、ちょっとハプニングがあったと書きましたが、昨日、東北教区のクリスチャンミーティングで午前の集会が終わり、皆で集合写真を撮っているとき、みどりの郷のスタッフの方が入って来られました。「皆さんの中で、お車ナンバーが仙台○○○○の方は?」と私の車を言われました。お返事すると、「どうも当て逃げされたようで、ご確認下さいますか?」とのこと。駐車場に行ってみると、写真にあるように前のバンパーのところがこすれ、ナンバープレートがグチャグチャになった状態でした。早速、警察を呼んでいただき、事故の調書を取っていただきましたが、「残念ですが、当て逃げは、まず見つかりませんね」と言われました。人身事故ではないため、これ以上は調べようがありません、という感じでした。まあ、そうだろうと思います。私としては、信徒の方でなくて良かった、と本当に思いました。もしこれが信徒の方だったら、「せっかくクリスチャンミーティングに参加したのに、かえってこんなことになって……」と落ち込むのではないかと思うとき、まだ私で良かったと思いました。どなたかが私に「運が悪かったですね」と言われましたが、私は「運が悪い」なんてことは考えもしません。このようなことで、一々、運が悪いとか、神さまが守って下さらなかった、などと思いもしません。
 そういうわけで、自分でもわりとあっさりと諦めがついたのですが、さすがにみどりの郷の支配人の方が非常に丁寧に、最後まで何度も挨拶され、帰る際には「これに懲りずにまたご利用下さい」と言われましたので、「ぜんぜん懲りません。毎年ココでお世話にならなければ、私たちも困りますから。またよろしくお願いします」と言いますと、「ええ、ぜひお世話させて下さい!」と大きな声で言われました。これで、当分は拒否されずに使わせてもらえるかなと思います。あのように楽器を使ったりする部屋を自由に貸してくれる施設はあの近くにはなく、みどりの郷を使用できなくなると、私たちも困るものですから、良かったなと思います。
 それで、おまわりさんが許可して下さって、ナンバープレートをはずした上で、ボンネットの見えるところにおいて、仙台まで帰ることができました。途中が警察に止められることもなくたどりつきました。
 夜、夕食後、保険会社に電話すると、私が入っている保険では、当て逃げのように、相手が特定されない事故の場合は保障の対象にはならないとのこと。すなわち、全ての修理は保険ではなく自費でしなければならないことが昨日の夜遅くになって分かりました。そうだったのか、それも保障の対象になるものと思って帰って来たのですが、さすがにちょっとガッカリしました。
 それで、今朝早速、お隣の板金屋さんにお金がなるべくかからない方法で修理を依頼しました。もともと車検も頼まなければならない時期だったので、一緒にお願いしました。
 そう依頼してお隣りから帰って来た直後、朝の9時すぎ、私の携帯が鳴りました。知らない番号からでした。「佐藤さんですか。昨日の水沢警察署です。今朝、佐藤さんのお車にぶつけたという方が警察に来られました」。ビックリしました。昨日のおまわりさんも、「諦めて下さい」とばかりに「まず見つかりませんね」と言っておられたのですが、何と今朝になって本人が出頭(?)されたそうです。電話をかわり、ご本人がお詫びを言われたのですが、「いや、こっちも助かりました。保険が下りずに困っていたんですよ」と挨拶しました。
 ということで、結局、向こうの方の保険で全て修理することができるようになりました。レンタカーも手配され、今日の夕方からラクティスに乗っています。
部品の調達が震災後遅れているようで、一週間ぐらいはラクティスに乗れそうです。ご心配ありがとうございました。そして、全ての言動を見守っていて下さった主に心から感謝しました。



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植木鉢 9月24日(土) 

 三連休をどのようにお過ごしでしょうか。昨日は集会もなかったため、ゆっくりと穏やかに過ごしました。その午後、NHKのEテレで9月10日に放映された「こころの時代」という番組の中の「シリーズ 私にとっての3・11」がとても心に残っていたため、録画してあったものをもう一度見ました。ゲストは哲学者の鷲田清一という方でした。阪神大震災を経験され、このたびの東日本大震災においては哲学者の立場から、これからの私たち人間のありようを語っておられました。
 哲学者というものは、話すとか書くというのが働きの中心にある中で、この方は聞くということを大切にされ、聞くことの中から真理を探っていくところの「臨床哲学」なるものを提唱してこられました。
 私が特に心に残ったのは、人がそれぞれ自分の人生の物語(ストーリー)を語ることの大切さを話しておられた場面です。「自分とは、自分が何者であるかを自分に語って聞かせる物語(ストーリー)である」という、少々哲学的な認識から出発します。そして、今回の大震災において、大きな被害に遭った方々が、自分の人生を根本から語り直す必要が生じていると言います。悲しみや苦しみがあまりにも大きいとき、人はなかなかそういう自分を語ることが出来ないものです。自分の存在が、そのような悲しみや苦しみの中に沈み込んで、溺れてしまっているような状態だからです。そこでなお、そういう自分を誰かに話そうとするとき、苦しみ悲しんでいる自分を対象化して、自分で自分を眺める、見つめるということがどうしても必要となります。けれどもこのことがとても大事なことで、そうすることによって、ほんのわずかかもしれないけれども、、自分と一体化してしまっている苦しみや悲しみを、薄皮をはがすようにして客体化していく。それによって、ほんの少しであっても、確かに、自分と苦しみとの関係が変わっていく。そしてそのことが、癒しにつながっていく、と語っておられました。これまで、震災における心のケアの大切さ、傾聴の大切さがいろんなところで言われてきましたが、哲学者によるこの表現に、「なるほど!」と新しい示唆が与えられたように思います。人は自分のことを語ることによって癒されていく、確かにそうだろうと思います。
 そしてそのためには、「自分の物語を語る」というためには、誰かに聞いてもらうということが必要なのであり、そこで、聴く者の姿勢が大事になります。本人が最後まで語りきることが大事であるため、聴く者は途中で代わりに語ろうとしてはダメであり、最後まで聴ききることがとっても大事であると話されました。聴く人がそのような態度で臨むことは、「この時間はあなたにあげますよ」というメッセージであり、「徹底してあなたのそばにいますよ」ということであって、そのような他者の存在が、大きな苦しみ、悲しみの中にある方々を支える力となるのではないか、と語っておられました。
 このお話は、私が今携わっている傾聴ボランティアや、何よりも牧会対話に通じることであって、私にとって非常に示唆に富む内容でした。私自身、私と向きあう方々が、自分を最後まで語りきる、そのための介添え役ができればと願わされたことでした。
 明日は慣れない車での福島教会の往復です。行き帰りの運転が守られるよう、どうぞお祈り下さい。



植木鉢 9月25日(日) 

 今日は一ヶ月半ぶりに福島教会での礼拝奉仕でした。今日は福島教会では召天者記念礼拝で、近くから多くから、ご遺族・ご親族の方々が集まり、普段の倍以上の礼拝出席者でした。礼拝後、愛餐のときを持ち、その後、二カ所にある教会墓地(旧福島教会と旧掛田教会がそれぞれ墓地を所有していたため)に参りました。天気もよく、気持ちのよいお墓参りとなりました(写真)。
 慣れないレンタカーの運転も守られ、5時頃無事に帰ってきました。お祈りを
感謝いたします。



植木鉢 9月27日(火) 

 午後、2週間ぶりに傾聴ボランティアに参りました。そのお宅の畑には、クラッシュ・ジャパンから東京聖書学院の修養生の方々が数名来ておられ、台風で落ちた杉の葉や枝などを集めて袋に入れる作業をしておられました。修養生の一人に聞きますと、昨日から木曜日まで、修養生が19名と2人の先生方が利府にあるクラッシュ・ジャパンのベースキャンプに来ておられ、それぞれ分かれて奉仕をしておられるとのこと。夏期伝道期間に来ておられた篠崎兄も、東名(東松島市)での奉仕のリーダーとして働いておられるとのことでした。
 いつも私がお話を伺っているおばあちゃまは、ずっと以前から、土曜日の早朝にTBCラジオで放送しているキリスト教番組「世の光」を聴いておられるとのことで、「今日は何か讃美歌を教えてほしい」とのことで、求められるままに、よく知られている「いつくしみ深き」の歌詞を思い出しながら紙に書いて差し上げました。また、仮設住宅のポストに入っていたという教会のトラクトを見せて下さりながら、「牧師さんのところも、こういう聖書を使っているのですか?」と問われましたので、ちょうど持っていた小さな新約聖書(詩篇付)をお見せしました。詩篇の幾つかを興味深そうに読んでおられましたので、「よかったら差し上げましょうか」と言いますと、「いいんですか、では記念にいただきます」とのこと。前にも書きましたように、私は直接的な伝道を目的としてこの傾聴ボランティアをしているわけではありませんから、私のほうから信仰についてお話することはないのですが、おばあちゃまから聞かれた場合には、その都度お話することにしています。今日はそのようなことがあって、少し嬉しく思いました。ご家庭の上に主の祝福があるようにといつも祈っております。
 帰りに、こちらも久しぶりに国際飢餓対策機構の物資倉庫に寄りました。冬に備えて、石油ストーブ提供の準備がされていました(写真)。それらのストーブは国際飢餓対策機構が大量に購入し、被災者にやはり無料で提供されるとのこと。全ての道具を失った方々にとって、どれほど有難いことでしょう。この物資倉庫の働きが用いられるとともに、そのための必要が満たされるようにと祈ります。



植木鉢 9月28日(水) 

 夕方、近くのシオンの薗に入居しておられるN姉を訪問しました。8月上旬にペースメーカーの検査のために一緒に行って以来久しぶりでした。顔を見せると、「先生が来ない、先生が来ない」と毎日〇〇さん(職員の女性)と話していて、今日はちょうど手紙を書いたところだったとのことで、まだ出さずにいた手紙を渡してくれました。「先生がシオンの薗に来なくなってから1ヶ月余りもたり、何かあったのかと心配しております。先生も忙しいと思いますが、近いうちに私に会いに来てください」という手紙でした。家族代わりで、しかも近くにいながら確かに一ヶ月半も顔を出さずにいましたから、寂しかったのでしょう。いつも家内と出席している敬老会もちょうど教区のクリスチャンミーティングの日と重なったため、出ることができませんでした。それで来週は家内と3人で買い物に行こうと約束をしました。
 また、教会からのお祝いをお渡ししました。ちぎり絵のきれいなカレンダーを一緒にめくりました(写真)。今日は、とても調子がよく、表情もとても明るい感じでした。
 N姉と約束していることが一つあります。「あと5年は生きようね」。いつも何のために5年なのかを忘れてしまっていたのですが、今日はちゃんと覚えていました。新しい会堂ができるまで」と。「あれだけいつも言われたら、私でも覚えるわよ」ということでした。そのあと、「でも、5年で大丈夫なのですか」と核心をつく質問。「そうね、ちょっと不安だから、90才までは生きようね」と私。「車椅子でも楽に入れる会堂にするから」。N姉をはじめ、教会の全ての皆さんがお元気なうちに、新しい会堂を建てたいなあと思わされたことでした。



植木鉢 9月30日(金) 

 今週のはじめ、東京の青梅恵み教会の会員で大学で教員をしておられる岡本兄から連絡があり、大学で学生たちと集めた子ども用の絵本や文具などを被災地に届けたいとのことでした。そして今日、日本国際飢餓対策機構の物資倉庫に直接届けに来て下さることになり、私も立ち会いました(写真)。10箱ほど届けていただきましたが、今日の夕方、倉庫を閉じるときには、多くのものがなくなっていました。皆さんに喜ばれたようです。
 ちょうど今日は水曜日から提供が始まった石油ストーブの一般の方々への提供が最終日ということで混雑が予想されるため、私は昼前には倉庫へ行き、お手伝いをしました。今日は午後2時から倉庫を開けることになったのですが、お昼頃から列ができはじめ、2時前には150名以上がならび、250枚の整理券がまもなくしてなくなりました。倉庫へ物資をとりに来られる方々の車が周辺で大混雑し、駐車場係のボランティアは大変だったようです。それでも、事故や大きなトラブルもなく、一日が守られ、奉仕者もホッと安心し、また主に感謝しました。
 私はこれまで傾聴ボランティアに帰りに立ち寄るだけで、ほとんど奉仕はして来なかったのですが、今日は初めて奉仕者用のビブス(ベスト)を着て、ストーブを手渡す係を担当しました。今日は特に忙しくて大変だったものの、地元の仙台だけでなく大阪や愛知などから来られたボランティアの方々(ほとんどの方がクリスチャンの方)と、心を合わせて奉仕ができたことは、とても楽しい経験でした。この倉庫での物資提供は10月末まで、残り1ヶ月となります。各地からおいで下さるボランティアの方々の健康が支えられ、この倉庫が最後までその働きを全うすることができるようどうぞお祈り下さい。                                                                                 


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