FROM 佐藤 牧会日記 7月

植木鉢 7月 1日(金)

  老人ホームに入所しているN姉が水曜日に入院されたので、午後、様子を見てきました。私が身元引受人をしているため、いろんな書類にサインをしたりする必要があってときどき病室に行くのですが、今回は洗濯などを業者が全部して下さるパックを利用しているため、とても助かっています。N姉は当初、嘔吐と発熱があって点滴を受ける必要があるために入院したのですが、昨日あたりから胸がヒューヒューいうということで、今日は酸素吸入をしていました。顔の表情もあまり良くなく、入院が長引かなければいいなあと願っております。どうぞ回復のためにお祈り下さい。

 その病院を出たとき、後ろから「佐藤先生」と呼び止められ、振り返ると、かつて築館教会に出席していた若いSくんでした。築館の職業訓練学校を出て、数年前に仙台に来ていたと思うのですが、その後、音信不通のような状態でした。3年ほど前に就職し、今は建築関係の仕事をしていて、今日はその病院の震災の復旧工事の管理をしているとのことでした。ちょっと離れたところにある会社の寮に住んでいるとのことですが、教会に来られるようになればと願うことです。 たまたま私が病院を出るところを見かけたとのことで、主が導いて下さった再会を喜び、主に感謝しました。仕事中だったので、長話はできませんでしたが、わざわざ向こうから声をかけてくれたのですから、何か話したいことや思いがあるに違いありません。またN姉を訪問したついでに、Sくんを探して声をかけてみようと思います。

 毎日、いろんな人と出会うその中に、主が導き、働いておられることを感じています。主が出会わせて下さった一人一人として、その時その時を大切にしたいと願っております。


植木鉢 7月 2日(土)

 今日、震災で幾つもの亀裂が入った教会建物の外壁を補修するために、千葉姉の次男・秀人さん(千葉和幸先生のお兄さま)が来て下さいました。秀人さんはまさにこのお仕事をしている方で、震災後、毎日忙しくしておられ、休みがないほどなのですが、「親父がお世話になったから(2年前に教会で葬儀)」と言われて、時間を作って来て下さいました。さっそく平野兄にお電話をし、サポート役として来ていただきました。昼食のお弁当を用意したのですが、秀人さんは「女房の作ったのがあるから」と召し上がらず、まさに“手弁当”で働いて下さいました。「せめて材料費だけでも……」と申し上げているのですが、「いや、親父がお世話になり、洋子お母さんがお世話になっているから、その恩返しです。結構です」と言われます。困ったなあ、どうしましょうか。この時期、業者に工事を依頼しても、いつ来ていただけるか分からないような状況の中で、教会の工事を優先して下さいました(写真はこちら)。教会員ではないのに、私たちの教会のことを心配して下さり、一日かけてご奉仕をして下さいました。本当に有り難いことです。また、サポート役として平野兄が来て下さったことも、本当に助かりました。私だったら、ハシゴを押さえていることさえ満足に出来なかったのではないかと思います。このように、いろんな方々に支えられていることを、改めて主に感謝しました。

 明日、私は福島教会へ、仙台は井下先生が来て下さいます。それぞれの礼拝の上に主の祝福が豊かにありますように。




植木鉢 7月3日(日) (写真はこちら
 
 今日、仙台教会では、神奈川教区から早々に申し出がありました被災地に対する講壇支援として、ひばりヶ丘教会の井下泰文先生に来ていただき、メッセージを取り次いでいただきました。送り出して下さった神奈川教区の先生方、またひばりヶ丘教会の皆様に感謝いたします。なお、他の教区からも同じような申し出をいただきましたが、私たちの教会としては最初の神奈川教区の申し出だけをお受けして、そのほかの申し出をお断りしております。せっかくのご好意を無にするようで申しわけありませんが、7月以降、福島教会に牧師が就任したこともあり、仙台教会では出来るだけ平常の礼拝に戻そうということで、特別なプログラムを行わないこととしています。その趣旨をご理解下さり、ご了承下さいますようお願い致します。

 私は、福島教会での奉仕でした。6/30(木)に田中綏子師が着任され、最初の礼拝でしたので、牧師就任式を行いました。田中師がかつて東京の教会で奉仕され、導かれた方のご両親が米沢から急遽かけつけられたりして、田中先生の就任を皆で喜びました。この3ヶ月間、私は月に2回ほどの礼拝奉仕と、毎週水曜日の祈祷会に通っておりましたので、田中師がおいでになってホッとする思いと、祈祷会などにおけるお交わりがなくなることのちょっとした寂しさと、両方の思いがあります。この3ヶ月の間、福島教会の方々と親しくなれたことを感謝しております。これまで責任牧師として数ヵ月に一度の割合で礼拝に行っておりましたが、これまでとは違った皆さんの様子を見ることができたことは、私にとっても恵みであり、喜びでした。いつもお祈り下さっていた仙台教会の皆さんと福島教会の皆さんに感謝いたします。
 これからは、田中先生を中心に教会が一つとなって歩みが進められるようにと祈っております。不思議なもので、田中先生とバトンタッチをするにあたり、“娘を嫁に出すような気持ち”がします。実際には、私はまだ娘を嫁に出したことなどなく、二人の娘はまだ当分の間は家にいると思いますので、“娘を嫁に出すような気持ち”が本当はよく分からないはずなのですが、言うならば、「田中先生、福島の方々をどうぞよろしく!」というような思いです。3ヶ月遅れとなりましたが、福島教会の新しい出発に際し、主の豊かな恵みと祝福があるようにと心から祈ります。




植木鉢 7月4日(月) 
 
 夕方、入院中のN姉のお見舞いに行ってきました。前回の入院でもそうでしたが、体力が落ち、環境が変わってしまうと、それまでなかった認知症の症状が出て来てしまうようで、今日は私のこともよく分からない様子でした。しばらくして、看護師が来て点滴の準備を始めました。入れたままになっている針を使って管をさし、点滴を始めようとしたとき、針をさしてある部分から血が出ているのに気づき、急いで点滴を止めました。十分に確認しないまま管をさしたようです。着ていたものが血で汚れるほどでしたが、その看護師は一言も「ごめんなさい」と言うことなく、「あれ、血が出ちゃったわね」と管と針をぬき、反対の腕に点滴をするために準備をしました。ところが、今度は針が上手く入らずに何度も入れたり出したりしていました。老人であるために血管が細くてもろいため、難しいのは分かるのですが、基本的な技術にも問題があるのではないかと思ったことでした。やっと針が入ると、「ちゃんとご飯食べてる? ちゃんと食べてね」と、自分の技術のなさを棚に上げて、さも患者が悪いような言い方をしました。家族代わりの私が聞いているそばで、そのように言うのです。結局最後まで、「何度も痛かったね。ごめんなさいね」などという声かけはありませんでした。ある方から、「あそこの病院の看護師は○○病院に比べるとレベルが低くて……」と聞いていたのですが、確かにそのような印象を受けました。特に、N姉が入院している階は老人(多くは認知症の方)の患者がほとんどで、看護師たちに緊張感はなく、互いにおしゃべりしながら仕事をしています。そして何よりも感じたのは、認知症の老人たちに対する態度の悪さです。看護師たちがそのような老人たちを少々バカにするような感じで話しかけたり、そのような雰囲気で互いに会話をしているのです。たとえ認知症で変なことを言ったり、看護師を困らせることがあったとしても、患者の家族としては、人格に対する敬意をもって接して欲しいと願うものです。
 いつもの私なら、「その態度はおかしいのではないか!」と強く抗議をするのですが、今日は悔しい思いをグッと我慢しました。それは、私が文句を言ってはN姉のためにならないのではないかと考えたからです。私がずっと付いていることはできないため、私がいないときに、認知症で文句が言えないN姉が仕返しを受けるのではないか、もっとぞんざいに扱われるのではないかと考え、何とか我慢しました。本当ならば、「こんなヒドイ病院、よそへ行ってやる!」と言いたいところなのですが、老人ホームと関わりのある病院であるために老人ホームに迷惑がかかること、このような老人を受け入れてくれる病院が他にはなかなかはないこと、教会から比較的近いことなど、いろんな理由から転院するわけにもいかず、一言もいわずに黙っておりました。
 悔しさをかみしめながら、これは今、宮城県で大きな話題となっている松本復興担当大臣の昨日の問題発言と構図は全く同じだ!と思ったことでした。皆さんもすでにご存知でしょう。松本大臣が昨日、村井宮城県知事を訪問した際、「県でコンセンサスを得ろよ。そうしないとわれわれは何もしないぞ。ちゃんとやれ」と命令口調で話し、村井知事が遅れて入室したことにも腹を立てて文句を言い、さらには「これはオフレコだから、記事にするなよ。書いたらその社は終わりだぞ」と側にいた記者たちを脅しました。宮城県内では大きな反発の声があがっており、今日の夕方の県内のニュースは各テレビ局がトップニュースとしてこれを伝え、宮城県には何百件という抗議の電話やメールが届いているとのことです。私も宮城県民として、本当に腹立たしく、ぶん殴ってやりたいような思いがします。村井知事も、腹立たしい思いがしたに違いありません。記者たちから松本大臣の発言について聞かれると、「国と地方は主従関係でなく、対等の関係であるので、命令口調ではなく、お互いの立場を尊重するのがよろしいのではないか」と答えています。これは精一杯抑えた表現であるように思います。本当は、このときとばかりに追求しようとしている自民党の幹部が「(被災地の)志をつぶすような上から目線の発言は良くない。大臣としての見識を持ってもらわなくてはならない。強く反省を求める」、「被災地が(政府の)いうことを聞かないなら、復興を手助けしないということは、暴言以外の何物でもない」と言っているのと同じように言いたかったのではないでしょうか。村井知事がそれでもその場では我慢したのは、国から支援を受けるという弱者の立場にいるからです。大臣を怒らせてしまって、国からの支援が滞っては困る、という判断が働いたに違いありません。そのために、野党のようには強い口調で文句を言えないのです。問題なのは、松本大臣がそのことを承知の上で、あのように高飛車な態度を取ることです。文句が言えないことをいいことに、被災地の知事を相手に威張り散らしているのです。被災地に住む者としては、強く抗議が出来ない立場にいる村井知事に代わって、利害関係のない他の地域の人々が、「あの発言は間違っている!」と抗議の声を上げて欲しいものです。
 このように、小さな病室で起こったことと、夕方のトップニュースになるような大きな出来事と、問題の規模は違っても、その本質においては同じです。支援・援助を受ける弱者に対して、支援・援助する立場の強者が尊大に振る舞い、弱者は自尊心を踏みにじられながらも、それを我慢しなければならないということです。「ああ、起こっていることはどこも同じなんだ」と、とても悲しい気持ちになりました。そして少なくとも、教会においてはそうであってはならない、そう思ったことでした。



植木鉢 7月5日(火) 
 
  午後、傾聴ボランティアに行ってきました。特別なときはのぞいて、週に一度、火曜日の午後に伺うことにしています。話している途中、おばあちゃまが「自分ひとりばかり、忙しい牧師さんに来てもらうの悪いなあと思ってたんだ」と言われました。私たちでも、いろんな方々から支援を受けるときに、「何だか申し訳ない」と思うのですから、その方がそう思われるのも無理のないことかと思います。それで、あくまでご本人が一番したいようにする選択の自由が持てるようにと、「私は毎週お話を聞くのを楽しみに来ていますから、私は少しも迷惑なんかしていません。でも、かえってお母さんが気を遣って辛いというのであれば、それではよくないから、お母さんの好きなようにしていいんですよ」とお伝えしました。すると、「いや、来てもらうのが嫌だというのではなくて、昨日も『明日、牧師さん来るよ』と家族に言われたとき、申し訳ないなあ、いいのかなと思ったけど、でも嬉しいなと思ったんだよ」と言って下さいました。それで、引き続き、来週も伺うことになりました。それでも、これで良かったんだろうか、遠慮して「もういい」とは言えないのではないか、などと思ってしまったりします。これまでも息子さんやご本人に、「どうぞ無理なさらないで下さい。かえってご迷惑をかけては申しわけないですから、どうぞ遠慮なくそのように言って下さい」とお話してきました。決して押しつけのボランティアになることがないように、ボランティアを利用するかどうかは、向こう側に自由な選択権があるようにと願いつつ、どのようにしたら関係を築くことができるのだろうかと悩んでいるところです。
 そこからの帰り道、国際飢餓対策機構の仙台倉庫に寄ってきました。もう倉庫を閉めるギリギリの時間になってしまいましたが、物資を受け取りに来ておられた男性のお話を少し伺うことができました。荒浜の海岸近くに住んでおられた方で、お母様を乗せて、車で何とか津波を逃れたとのことでした。けれども、荒浜の交差点で、避難誘導をしてくれていた知り合いの警察官が殉職されたことが、いつも悲しくて思い出すとのことでした。テレビでも話題となった、あのおまわりさんのことでした。もう終わりの時間でしたから、まもなくして帰られましたが、荒浜に住んでおられたというのですから、話したいことがもっとたくさんあるのだろうな、と思わされたことでした。同じような方々が、どんなに多くおられることでしょう。「主よ、どうぞ憐れんで下さい」と祈るばかりです。



植木鉢 7月6日(水) 
 
   先日、県外から来られたボランティアの方に、「先生の教会は、震災の被害はどうだったのですか?」と問われ、ひと通り被害の状況を説明した後で、「それでも、沿岸部の方々に比べたら、私たちはずっとましですから」と最後に付け加えました。するとその方が、「皆さん同じように言いますねえ」と言われてハッとしました。それは、「ああ、やっぱり他の方々も同じように言うのか」と納得する思いと同時に、「自分たちはまだまし」という発言が、私の中では、最初の頃に言っていた発言と、何か質が変わっていることに気づいたからでした。
 震災が起こった当初は、津波で大きな被害に遭った方々のことを思うと本当に心が痛み、その方々のことを思う気持ちからそのように言っていました。
 しかし、震災から四ヶ月になろうとしている今、そのように言うのは、大きな被害に遭った方々のことを思って心を痛め、相手を思う気持ちからそう言っているのとはどこか違う感じが自分でしています。自分の心の中を素直に見つめるならば、どこか無理をして、「でも、あの方々に比べたら自分たちはまだましだから」と付け加えている感じがするのです。
 そしてこれはどうも私だけではないようです。医師のY兄のところに来られる患者さんたちが、皆さん同じように「自分はまだましだから」と言われるそうです。しかしその方々は、表現が適切ではないかもしれませんが、それぞれ立派な被災者で、今も不自由な生活を強いられているにもかかわらず、そのように言われるそうです。これはどうも、被災者に共通して見られる態度のように思います。
 この「まだまし」という表現は、どこに基準を置くかによって違ってきます。津波で一番大きな被害に遭った地域の方々に比べると、自分のような者が被災者などとは言ってはならない、そんな気持ちになってしまいます。しかし、「自分はまだましだから」という言葉は、「でも、私自身の中では、(他の方々に比べたら小さな被害ではあっても)辛い、苦しい」という心を同時に表現しているように思います。しかし、その思いを素直には言わないでいる、いや言えないでいるように思います。「自分はまだましだから」と言うことによって、「辛い」「苦しい」という本当の思いを抑圧してしまい、そのことがかえって、グリーフ(悲嘆)からの回復を遅らせてしまっているのではないでしょうか。
 なぜ、そのように心の素直な思いを抑圧してしまうのでしょうか。その一つは、震災直後から、「頑張ろう」「頑張って下さい」と一大キャンペーンのように言われ続けた来たことによって、“少々のことで、辛い、苦しいと言ってはならない”という空気が被災地を覆ってしまっているのではないでしょうか。「辛い」「苦しい」と言ってしまっては、「甘えてる」「弱音を吐いている」と思われるような気がして、言うのを抑えてしまうのです。それはどこか、戦時中のあの空気に似ているような気がします。「欲しがりません勝つまでは」というあの空気に。
 もう一つ、私が「自分はまだまし」と思わず付け加えてしまう、その心の中にある動機を探ってみると、そこには、自分がこれ以上傷つくことを恐れる思いがあるような気がします。自分の被害状況を伝えながらも、それを聞いている人の「ああ、この人の被害はそれほどでもないな」という思いがこちらに伝わってくる感じがして、「ああ、やっぱりこちらの思いは伝わらないんだ」と自分が傷つくのが嫌で、その前に自分のほうから「他の人に比べたら自分たちはまだまし」と急いで付け加えるのです。私がこの言葉を、最初の思いとは質の違った意味で言うようになったのは、お見舞いに来られた一部の方の言葉や態度に、「先生のところは被害は大したことなかったのですね」というメッセージを感じたからでした。お見舞いに来られたはずなのに、こちらの状況を聞くよりも、ご自分が見て来られた津波で大きな被害にあった地域や、液状化で建物が大きく傾いている被災地の状況を熱心に説明されたとき、「それに比べたら、仙台といっても私たちの教会はずっと被害は小さいですから」と思わず言っていました。たぶんあれからです。私の中で、それまでとは違って自分を守るために「自分はまだまし」と言うようになったのは。
 しかし、被災地に必要なのは、他の人々に比べたら小さな被害だったとしても、自分の中では大きなダメージとなっている震災の苦しみ、痛みを素直に吐き出すことのできる場ではないでしょうか。また、それをそのままで受け止めようとする空気ではないでしょうか。少なくとも私たちの教会では、なお残る震災の痛みや苦しみを、心の底に押さえ込んでしまうことなく、互いに語り合うことができる空気を大切にしたいと思います。



植木鉢 7月7日(木) 
 
 昨日の、「他の人に比べたら自分はまだまし」という被災者の言葉についてですが、震災直後、そのような被災者の言葉を聞いた人が「素晴らしいプラス思考だ」、「被災者が前を向く力になっている」と高く評価しているのを耳にしました。しかし私は、それはあまりにも皮相的、一面的な理解であるように思います。確かに、震災直後の大混乱のとき、「あのように被害の大きかった地域の方々に比べたら、自分たちはまだこれだけで済んでいる」「自分たちは恵まれている」「有り難い」という思いを多くの方々が、そして私たちも同じように持ちました。その思いが、そのときの危機的な状況を乗り越えさせる力になったことは確かであろうと思います。

 しかし、この「自分はまだまし」という思いは、多くの人にとって永続的な力を持っているようには私には思えません(たまに、この思いのまま最後まで突っ走ることのできる人もいるようですが)。あれもない、これもない、という危機的な状況においては力を発揮するものの、時間の経過とともに次第に落ち着きを取り戻していくと、「自分はまだまし」などという論理では納得できない思いが必ず生まれてくるものです。客観的に見れば、自分よりも被害の大きかった人々に比べたら「自分はまだまし」ということが成り立つのですが、主観的には「ちっともましではない」「こんなに大きな被害に苦しんでいる!」という思いが心の中にあるからです。この「まだまし」という言葉は、自分の中の理性の声であって、理性が感情に言い聞かせている言葉であるように思います。心の声は、それとは全く別の言葉を発していることがあるようです。すなわち、心の中の本当の思いは、「自分はまだまし」などとはとても思えない、むしろ、「私はこんなに辛い」「こんなに苦しい」と叫び声を上げていることがあります。ところが、震災後の興奮状態、パニック状態が続いているため、その心の叫び声に自分でも気づいていない、ということではないでしょうか。

 昨日書いたように、相手の反応を気にして、自分を守るためにそのように言うのではなく、大きな被害に遭いながらも、もし本当にそう考えて「自分はまだまし」と言うとするならば、それはまだ自分の心の声に耳を傾ける余裕がない、それほど厳しい状況に相変わらず立たされているということのように思います。そのように自分を言い聞かせて、自分を支えていなければ、自分が崩れてしまう、それほど、危機的な状況に置かれていると理解すべきなのではなでしょうか。

 しかし、それでは自分の心を置き去りにしてしまっているため、頭と心と理性と感情の分離が大きくなっていき、どこかで破綻をきたすようになります。「自分はまだまし」という論理ではやっていけなくなります。そのときはじめて、「ああ、自分はやっぱり辛かったんだ」と気づきます。けれどもそれは、後退を意味するのではなく、真の回復のために当然通るべき道であり、むしろ前進であるように思います。心を置き去りにしたままでは、真の回復はあり得ないからです。

 「本当は私も辛い」と言ってしまっては存在の基盤が崩れて立ち上がれなくなってしまうような、そんなギリギリの状況が続いている方々が今なお多くおられることを思うとき、それらの方々の上に主の豊かな憐れみがあるようにと切に祈ります。



植木鉢 7月8日(金) 
 
 昨夜のちょっと大きめの余震、皆さんは大丈夫だったでしょうか。もうそろそろ余震も収まってきたのかな、と思っている頃に、「まだまだ油断するなよ」と言わんばかりの余震で、再びもとのモードに戻される、そんな感じがします。

 今日、私たちの教団の災害対策本部からFAXが届き、「第二次お見舞い金を送ります」との連絡をいただきました。すでに教会宛にお見舞い金をいただいているのですが、再度送金して下さるとのことです。本当に有り難いことなのですが、その一方で「そんなに何度もお見舞い金をいただいていいのだろうか」という戸惑いと、申し訳なさを抱いています。というのは、私たちの教会は、建物の実際的な被害としては、比較的小さく(これは2日続けて書いた、他者に気を遣ってとか、本心を言えなくて、といのではなく本当の思いです−すいません、ややこしくて)、またその補修工事などもOMSのキング先生が教団の全額負担でして下さったり、千葉秀人さんが外壁工事を手弁当でして下さったり、そのほかにもいろんな教会や個人から様々な支援があったりしたからです。恐らく、(東電の見舞い金のように)精神的な被害に対するお見舞いという意味もあって、被害の大小に関わらず、送って下さるのだと思いますが、それでも、何度もお見舞い金をいただくというのは、どうも気が引けます。こう思うのは私だけでしょうか。教会の皆さんはどう感じますか?

 これは、災害対策本部のやり方が間違っているという意味では決してありません。私が言うのも変ですが、教団としては、正しい選択であるように思います。私が問題に思うのは、私たち仙台教会としては、ただ受けるばかりでいいのか?という教会内に対する問いかけです。今回の震災によって、私たちの教会は幸いにも、教会財政が悪化したということはありません。様々な支出がありましたが、教会内外からの献金によって、十分にまかなえている状態です。そうだとするなら、教団からのお見舞い金を有り難く頂きながらも、それを別の形で被災地支援のために使うことができないだろうか、と思います。今回の震災で多くの支援をいただきながら、「受けるよりは与える方が、さいわいである」(使徒行伝20章35節)という主イエスの言葉が、「本当にそうだなあ」と思わされています。そして、私たちも受けるばかりではなく、他者に与えることがあってもいいなあと思い始めています。

 同じ東北教区内の被災教会でも、築館教会や福島教会と私たちの教会とでは状況が全く異なります。すでに、十分に受けた教会として、できれば他の方々のために頂いたお見舞い金などを用いることができないだろうかと思うのですが、いかがでしょうか。もし、皆さんの中で何か良いアイデアがあれば、どうぞ遠慮なくお話下さい。



植木鉢 7月9日(土) 
 
 入院しているN姉ですが、だいぶ良くなり、来週水曜日に退院することになりました。まだ少し混乱があるのですが、退院すれば次第に落ち着くものと思います。お祈りをありがとうございます。

 それから、昨日、教会の近くでずっと廃墟になっていた土地が売りに出されているのに気づきました。その物件を販売している不動産屋さんのホームページを確認しましたら、何と教会の隣の美工さんの隣りのアパートも売りに出されていました。震災後、古いアパートが立ち入り禁止になったり、入居者がいなくなったために売りに出されたり、この近くでも新たに売却物件が出ているようで、会堂問題検討委員会のH兄が調べて下さっています。今の教会の近くに、良い物件があればいいのになと期待しているところです。引き続きお祈り下さい。
   


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植木鉢 7月10日(日) 
 
 10時30分からの礼拝を前に、チャペルに少しずつ出席者が座り始めた10時前、ちょっと大きめの余震がありました。M7.3で震度4とのこと。よく揺れる3階の分級室にいた子どもたちの中には、怖さのあまり泣き出す子もいました。あの大震災のときの恐怖をやはり思い出すのでしょうか。私たちの教会の建物は、皆さんのご家庭よりもよく揺れますので、特に3階では、実際には震度5ぐらいの恐怖を感じたのかもしれません。特別な被害はなく、安心しました。

 そして今日の礼拝には、K姉がボランティアとして奉仕をしている国際飢餓対策機構のスタッフ、ボランティアの方4名が出席されました。いずれも関西からおいでになっている方で、若いお二人の方は引き続き9月か10月くらいまで仙台でボランティアとして奉仕されるとのことです。津波で被災した家の泥出しや片づけ、若林区にある支援物資倉庫での奉仕などにあたっておられます。私たち被災地のために奉仕して下さっていること、本当に感謝です。

 今日の仙台の最高気温は34度。関西から来られた方々も、「仙台はもう少し涼しいと思っていたのに」と言っておられました。確かに、私たちが仙台に来た最初の頃は、夏も結構涼しく、快適に過ごしていましたが、昨年あたりから暑さの程度が変わったようで、今日はエアコンが効かなく、説教中も皆さんの頭がボーッとしておられるように感じました(もしかしたら、暑さのせいでなく、私の説教のせいかも?)。それにしても、今のエアコンでは限界のようで、できるだけ早く新しいエアコンをと願っています。

 国際飢餓対策機構(FH)の方々と昼食を共にし、最後には「日々のみことば」の製本の奉仕までしていただきました(写真)。ありがとうございました。来て下さったからではありませんが、明日は震災からちょうど四ヶ月にあたる日なので、午後、FHの倉庫に行きたいと願っております。皆さんのお祈りを感謝いたします。



植木鉢 7月11日(月) 
 
 今日、東北地方も梅雨明けとなり、例年よりも長い夏になりそうです。今日はまず午前中に電気屋さんに行き、エアコンを購入しました。7月24日の礼拝には間に合うように工事が行われる予定です。来週だけ、皆さん暑さを我慢して下さい。

 午後、昨日から予定していたように、国際飢餓対策機構の仙台倉庫に行ってきました。いつも火曜日の傾聴ボランティアの帰りに立ち寄るのですが、結構ギリギリの時間になってしまって、倉庫が閉まる15分前ぐらいにやっと着く感じだったので、今日は震災からちょうど四ヶ月ということもあり、少しゆっくりと時間をとって行ってきました。昨日、私たちの教会の礼拝に出席された4名の方々をはじめ、普段よりも多いボランティアの方々がおられました。私たちの教会のK姉、T姉もおられました。

 今日は、暑さのために野菜などはなく、代わりに、米国からある方のもとへ届いた多額の献金で食器をたくさん購入し、並べられました。それからハエ叩き、仮設住宅では、これから大活躍することでしょう(写真)。 私はいつもあまりやることがないのですが、今日は台数限定の扇風機の組み立て作業をしました。これはゴスペルシンガーの森祐理さんの事務所から献げられたものです。今、電気店に行っても扇風機は品切れ状態が続いている中、取りに来られた方々はとっても喜んでおられました。そのうちのあるおじさんが、私が組み立てている間、私のそばにいて、震災後の様子を話して下さいました。震災直後、町内会の役員をしていたため、被害はないかと町内を回っていたとのこと。まさか津波が来るとは思わなかったそうで、ラジオで津波が来ていると聞き、急いで車で逃げ、何とか命は助かったとのことでした。その後、町内会の役員として避難所でもいろんな取りまとめをし、昨日やっと、その働きが解散したとのことです。「その間、人間の嫌な部分をたくさん見せられた。こういうときに、人間の地が出るもんだね」と言っておられました。確かに、こういう危機的状況においてこそ、その人がもともと持っている人間性というものがそのまま出てしまうようで、それによってとても嬉しい気持ちになることもあれば、逆にがっかりさせられることも多くあったことです。その方は、自ら被災者でありながら、食料・物資の配給や行政との交渉に奔走し、自分の家のことは後回しにしていたそうで、その働きが終わった今、これからやっと仮設住宅の入居申請を行うところだとのことでした。最後に、「いや〜、もう何もやる気がしない」と言われた言葉が心に残りました。この四ヶ月、人間の嫌な部分をたくさん見せられ、それでも責任ある立場として様々な交渉や取りまとめをして、心身ともに疲れきってしまわれたのでしょう。扇風機で少しでもホッとしてもらえたら、と思わされたことでした。


植木鉢 7月12日(火) 
 
 数日前、車に乗りながらTBCラジオを聴いていました。その番組では、いつもラジオカーがいろんな被災地に回ってインタビューなどをしているのですが、その日もある避難所に行って、アナウンサーがそこにいる方々に話を聞いていました。その中で、ある女性の話に私はとても複雑な、何とも言えない思いになりました。30代か40代と思えるその女性がこう言ったのです。「最近はボランティアの方が少なくなって困っています。私たちが自分たちで食事の準備をしなければならなくなっています。皆さんも忙しいでしょうけれど、どうぞボランティアに来て下さい」。それを聞いたインタビュアーも何と言ったらいいか戸惑っている感じでした。昼間のあの時間に避難所にいるということは、何か仕事をしている感じの方ではありません。ですから、時間がないわけではありません。避難所で周りの方々とおしゃべりでもしながら過ごしているのでしょう。震災前は、たとえ仕事をしていても、自分や自分の家族のために、当然のように自分で食事を作っていたはずです。そこに特別な疑問を感じなかったことと思います。しかし、この数ヵ月間の避難所での生活に慣れ、ボランティアの方々に食事を提供してもらうことが当たり前になってしまったため、自分たちの生活のことは自分たちでするという、当然と思えることをする意欲が失われつつあるような印象を受けました。それほどまでに、震災によって心が疲れ果て、気力を失ってしまっているということなのでしょう。

 それにしても、避難所から仮設住宅へと移っていく今後の生活のことを考えると、多くの困難があるように思います。仮設住宅に移ったら、もはや食事の提供はありませんから、毎日の食事は自分たちで準備しなければなりません。そのことを負担に感じるからでしょうか、避難所から仮設住宅へと移るのを望まない方々が少なからずおられるということです。

 それで考えさせられたことは、ボランティアの働きは、被災者たちがやがては自分の手や足で自ら生きて行くことができるようになるために、一時的に援助をすることであるということです。それは足を怪我したときの松葉杖のようなものであって、しばらくは松葉杖に支えられて歩くものの、やがては松葉杖が必要なくなり、自分の足だけで歩けるようになる、そのことを目ざしているものでしょう。震災においても、被災者がやがては自立していくことを願って、ボランティアの働きがなされているものと思います。支援する側も受ける側も、その方向性をハッキリと認識しているとき、ボランティアの働きは非常に大きな力を生み出すものと思います。

 私が毎週火曜日に傾聴ボランティアで伺っているお宅では、クラッシュ・ジャパンから泥出しや農地の整備などのために何週間にもわたってボランティアが来ています。毎週行くたびに、建物や農地が少しずつ整備されて行っているのがよく分かります。そして、ボランティアの方々のたくさんの協力を得て、そのお宅のご主人が、“自分に今できることをやろう!”と非常に前向きに取り組んでおられます。今日は、津波で荒れ果てていた農地に作物の苗が植えられていました。「○○さんはとっても前向きですね」と声をかけますと、「作物ができるかどうか分からないけれど、出来ることから始めなくっちゃ。有り難いことに、自分の周りには一緒にやろうという仲間がいるんで」と言っておられました。ボランティアの協力に感謝しながら、それによって勇気と力が与えられ、この状況を何とか少しでも改善していこう!としておられます。その姿勢に、こちらが励まされる思いでした。そして、ボランティアの援助によって依存性を高めていくのではなく、自立へと向かって行く、理想的な支援の姿を見る感じがしました。

 自分の力で生きて行こうという気力を今は失いかけている方々が、ボランティアや行政の助けを借りながら、その疲れた心が癒され、力づけられて、自分の足で立ち上がって歩いて行くことができるようにと祈ることです。



植木鉢 7月13日(水) 
 
 午前中、入院していたN姉が退院し、シオンの園(老人ホーム)に戻りました。病院では、何回も説明しても自分が今どこにいるのかがよく分からない様子でしたが、シオンの園に帰ってきて、昼食前で皆さんが集まっている1階のホールに着くと、「あら、シオンの園だわ」と気づいたようでした。いつも仲良くしているお友だちが涙を流しながら「待ってたのよ、良かったわね」と声をかけて下さり、N姉も記憶が戻ってきたようで、嬉しそうにその方とお話をしていました。しばらくして落ち着けば、きっと元のように戻るものと思い、ホッとしました。

 このように、弱さを持つ高齢の方や、幼い子どもたちなどにとって、自分が本来あるべき場所(ホーム)にいるということが、どれほど大きな安心感をもたらすことか、改めて思わされたことでした。そしてそこから引き離されることは、大きな存在不安をもたらすことのようです。事情があって親から離れて暮らす育児院の子どもたちを見ていると、そのことがよく分かります。

 しかし、これは何も幼い子どもや高齢の方々だけでなく、本当は私たちも同じことなのでしょう。理性によって、ホームから離れることによる不安や恐怖が表に出ていないだけであって、深い内面においては、本当はそのことを敏感に感じていて、それが知らず知らずのうちに私たちの言動に表れているのではないでしょうか。そのようなことを考えているうちに、少し前に礼拝で読んだ詩篇90篇の聖句を思い出しました。

「主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる」(1節)

「われらのすみか」という部分を、ある英語の聖書では“our home”と訳しています。主こそ私たちにとっての“マイホーム”であり、そのお方のもとに身を寄せるときにこそ、本当の平安が与えられるということです。明日も、「あなたこそ私のすみか、マイホームです」と主を仰ぎつつ、歩みを進めたいものです。



植木鉢 7月14日(木) 
 
 以前は考えてもいなかったボランティアの働きを通して、私たちの見えないところで神さまが不思議な導きをしておられることに驚いています。
 私が毎週傾聴ボランティアに伺っているお宅は、その方のご家族の同僚にクリスチャンの方がおられ、そのクリスチャンの方の息子さんを通してクラッシュ・ジャパンが泥出し奉仕に行くようになりました。一方で私は、クラッシュ・ジャパンの担当の方にお願いをして、「何日間か連続しての奉仕はなかなかできないけれども、地元の人間であるので、傾聴ボランティアなどの継続した働きができればと願っている」とお伝えしてありました。それでたまたま、連絡をいただいたそのご家庭に伺うようになりました。いつもお話を伺っているそのお宅のおばあちゃまが、有り難いことに私が行くのをいつも喜んでいて下さるのですが、「なぜ、牧師さんはウチばっかりに来て下さるのでしょう。何だか申しわけなくて、本当にいいのでしょうか」と毎回のように言われます。それで私は、「私や誰かが意図したのではなく、これは神さまのお導きでしょう」と言うと、「そうですね。神さまのお導きですね」と何度も頷いておられました。
 そして、昨夜の祈祷会で、その方のご家族が、K姉がいつも行っておられる国際飢餓対策機構の物資倉庫にもときどき来ておられることが分かりました。いろんな人が、いろんなところで結びつき、つながっていた事実に、後になって驚かされ、「たまたま」とは言えないものを感じます。

 私自身、これまでクラッシュや国際飢餓対策機構などの働きに特別関心があったわけではありません。私たちの教団のボランティアチームが森郷キャンプ場をベースとしているクラッシュ・ジャパンに毎週来るようになったため、私もクラッシュに顔を出したのであり、K姉が国際飢餓対策機構にボランティアに行くようになったため、激励のために顔を出したことでした。別に、「国際飢餓対策機構を通して、私たちの教会は災害ボランティアを頑張るぞ!」と心に決めて行ったのではありません。たまたま、K姉がそこで奉仕をしておられたためです。ただ、1、2度顔を出すようになって、その様子が分かり、足りない物資が分かり、そのぐらいなら自分も何か出来るだろうかと思って、少しだけお手伝いをするようになりました。そして、この「たまたま」に、私は主の導きを感じています。自分が最初から意図したわけではない歩みの中に、生きておられる主の導きがあるように感じます。
 それは、私の好きなルツ記の聖句と同じであるように思います。

   「ルツは行って、刈る人たちのあとに従い、畑で落ち穂を拾ったが、
   彼女ははからずもエリメレクの一族であるボアズの畑の部分にきた。」(ルツ記2章3節)

 落ち穂拾いをしていたルツが、知らないうちにボアズの畑に来ていたことを告げる場面で、聖書は「はからずも」と記します。私はこの「はからずも」という言葉が好きです。新共同訳聖書は「たまたま」と訳しています。その「はからずも」が、ルツの人生を大きく変える出会いへと導きます。
 ルツの人生と同じように、私たちの歩みも、「はからずも」の連続でありましょう。しかし、神を仰ぎつつ生きるとき、その「はからずも」が、実は見えざる神の確かな導きであったと気づくときがあるのではないでしょうか。 震災後、いろんな「はからずも」を経験させていただきながら、神さまに導かれて歩むというのは、どこかワクワクする、そんな思いを抱いています。




植木鉢 7月15日(金) 
 
 夕方、東京聖書学院から夏期伝道としてクラッシュ・ジャパンの仙台ベース・キャンプに遣わされた修養生の篠崎和兄に会うために、利府・森郷キャンプ場に行ってきました。外国から多くのボランティアが来ておられました。学生などが夏休みに入り、一時減っていたボランティアが再び増えているそうです。本当に有り難いことです。

 篠崎兄は日曜日に私たちの教会の礼拝に出席する予定になっているのですが、おそらくどのように来れば良いか分からないだろうと思い、地図や電車やバスの時刻表などをプリントして行きました。今週水曜日にキャンプ場に来た篠崎兄は、早速、昨日は東松島市(東名)の泥出しに作業に、今日は若林区(私がいつも行っているお宅)に作業に行き、すっかり日焼けしていました(写真)。今日は元気そうでしたが、昨日は作業中、頭痛(偏頭痛)が出たようで、いくら若いとはいえ、この暑さですから体調が心配されます。心も体も守られ、その働きが支えられるようどうぞお祈り下さい。ちなみに、日曜日に読めなかった「和」という下の名前は、「わたる」と読むそうです。次週から私たちの教会の礼拝に出席されますので、どうぞ声をかけ、励ましてあげて下さい。よろしくお願いします。



植木鉢 7月17日(日) 
 
 午後の縦割り部会には、これまでで最も多い?と思われる35名の方が出席され、3つのグループに分かれて会堂問題について話し合いました(写真)。暑い中、多くの方が残って話し合いに加わって下さったことが、何よりも嬉しく思いました。震災後、「やっぱり早く会堂が欲しい」と思われた方や、川越のぞみ教会の会堂建築のお話を聞いて、「私たちもあのような会堂を建てたい」と思われた方など、それぞれの思いを分かち合いました。このような話し合いを丁寧に重ねていくことを通して、少しずつその思いが一つにされていくように感じます。主の御旨が私たちの教会になされるよう、みんなで続けて祈っていきたいと思います。

植木鉢 7月19日(火) 
 
 昨日の休日は、一日ゆっくり過ごさせていただきました。月曜日に何も予定がなかったため(奥羽聖会に行けなくてごめんなさい)、なでしこジャパンの決勝戦を早起きしてリアルタイムで見ることができ、優勝に大喜びをしました。

 今日は、午後いつものように傾聴ボランティアに行きました。日曜日に礼拝に出席された修養生の篠崎兄がクラッシュ・ジャパンから作業に来ておられました。そのほかの4名のボランティアの方はすべて外国からの方々でした。有り難いことです。

 その帰りに、国際飢餓対策機構の物資倉庫に寄りました。いつものようにK姉、T姉が来ておられました。また、今日はボランティアの方が多くおられ、その大半は大阪にあるグレース宣教会というグループの諸教会から来られた先生や信徒の方々でした。先日、私たちの教会の礼拝に出席された方々も、この教会に所属しておられます。同じグループの教会が、こんなにもたくさんボランティアを送り出していてすごいなあ!と感心し、インターネットで調べてみると、グレース宣教会は日本国際飢餓対策機構(JIFH)の働きを全面的に支援しており、JIFHの理事長もこのグレース宣教会の牧師が務めておられます。そのように、教会の指導者が日頃から自分たちの教会以外の働きにも関心を寄せ、それに関わり続けて行くとき、教会員も自然と心の目が外に向かって開かれていくのでしょう。

 私自身を振り返ってみると、これまで、働きの関心は教区や教団内に留まっていたなあと反省せざるを得ません。まず自分たちの教会を充実させてから、そして余裕が出来てきたら、外に向かって少しずつ働きを広げられたらいいなあ、という発想であったように思います。それも、まずは同じ教区内の教会へ、そして教団内の教会へ、さらに余裕が出れば超教派の働きへと、優先順位が自然に出来てしまっていたようです。しかし、周りの現実を見ればすぐに分かるように、この発想では、恐らくいつまでたっても、自分たちとは関係の薄い外部の働きに関わるようにはならないことでしょう。自分たちの教会を充実させる働きはいつまでたっても「もう十分!」ということはないからです。働きが広がれば、もっとこのことが必要、あのことが必要という要求も増え、終わりがないからです。そのため、いつまでも自分たちの教会を大きくすることだけに関心が集中し、他者のために生きる教会とはなかなかならないようです。そこに、自己中心的な教会の姿が見えてきます。

 それゆえ、どこかで発想の転換が必要です。すなわち、余裕が出来たら他者を助ける、という発想ではなく、教会の大きさや充実度に関わらず、最初から“他者と共に生きる教会”であることを目ざしつつ教会の働きを進めて行くことです。そして恐らくそれが、聖書が語っているキリストの教会の本来の姿なのだろうと思います。

 このたびの震災で、いろいろな方々と関わりを持たせていただく中で、「教会とは何か」という本質的な問題をも考えさせられているところです。そして、自分の関心が常に内向きで、自分の殻に閉じこもってしまいそうになる私たちに、震災という大きな出来事は、自分の中にあるそのような頑丈な壁を崩すように迫っている、そんな感じがしています。 


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植木鉢 7月20日(水) 
 
 震災以来、私は震災に関する写真集や新聞の縮小版などを買っていて、もう7冊になりました。「もう津波の写真や映像など見たくない」という方もおられますが、私はずっと自分のほうから求めて写真集を買い求めたり、震災に関する特別番組を見たりしています(関東などではもうほとんどないかもしれませんが、宮城県では今でもときどき放映されています)。それは、今も沿岸部の被災地で苦しんでいる方々がたくさんおられることを忘れないようにするためです。被災地の仙台にあっても、被害の小さかった私たちの周りでは、以前と変わらないような日常の生活が戻ってきたために、相変わらず電気や水道のない生活を強いられている方々が多くおられることを忘れてしまいそうになります。何かが出来るわけではありませんが、少なくとも、その事実に目を逸らすことなく、現実を知ろうとすることは、隣人として生きるための第一歩であろうと思っています。
 そして最近、『つなみ』という題の被災地の子どもたちによる作文集(「文藝春秋」8月臨時増刊号)を読みました。多くの子どもたちが共通して書いていることは、地震と津波の恐ろしさ、家族や友だち、家を失ったことの悲しみ、今生きているという命のありがたさ、世界中から寄せられている支援への感謝。大きな悲しみや避難所生活での苦労に耐えながら、懸命に生きている子どもたちの文章を読みながら、またまた涙がこぼれました。

津波でお母さんと弟を失った小学2年の女の子は、その悲しみを「つなみのせいで大切なものがながされました」という一文に込めて書いています。

石巻の高校1年生の男の子は、家族で必死に津波から逃げたときの様子を克明に記しています。「途中で母が『だめだ、もう走れない。無理だ、あきらめる。みんなのことお願いね』と言って、走るのをやめてしまったのです。俺が『何ふざけた事を言ってんだ。津波がそこまで来てるんだぞ! 走れ! 頑張って走れ!』と言うと、また少し走り始めました。でも正直言うと俺は、『もう間に合わないかもしれない。全員津波にのみ込まれてしまうのでは』と不安でたまりませんでした。」
「その途中、そちらこちらに逃げ遅れて死んだ人達が浮かんでいたり、車に乗ったまま死んでいる人でいっぱいでした」。
そして最後にこう締めくくっています。「最後に全国から救援物資を送ってくれたり、応援してくださった皆さん、ボランティアで集まってくれた方々、そして不眠不休で働いてくれている自衛隊の皆様、感謝してます。本当にありがとうございます。頑張れ日本! よみがえれ石巻! 頑張るぞ俺達家族!」

気仙沼の小学1年生の女の子。「友だちだって一人ながされたし、一人てんこうするし、いやだな。つなみってよくばりだな、とおもいました」。

津波でお母さんが今なお行方不明になっている小学5年生の女の子。「おかあさんは、まだ見つかりませんが、かならず見つけて、三人で仲良くくらしたいです」。

最後にもう一つ。陸前高田の中学1年の女の子。「いまだから思うこと……それは、全国、世界のみんなに伝えたいということです。震災のことを一生忘れないで下さい。今でも、一生懸命、がんばっている人がいます。被災した方にエールを送っていただくだけでも、とてもうれしいです。なのでこれからも、応援よろしくお願いします!!」

マケドニアの叫びのような、そんな思いをしながら読みました。



植木鉢 7月21日(木) 
 
 この牧会日記が、どうしても震災に関する話題が多いため、食傷気味の方もおられるのではないかと想像しています。ごめんなさいね。私の場合、まだまだ震災のことが心から離れないものですから。
 ただ、昨日の牧会日記と反対のことを言うようですが、被災地から離れた地域に住む方々が、震災の記憶が次第に薄れ、以前と変わらない平常の生活に戻っておられることについては、むしろそれが当然のことであろうと思います。こんな言い方をしては変なのですが、「震災のことを忘れて生活しているなんて、ひどい!」などとはちっとも思いません。恐らく、私も被災地以外の地域で生活していたら、そうなっていただろうと思います。そして、震災直後は、全国の皆さんがこのことに心を痛め、いろんな協力をして下さったのですから、「もう十分」とは言いませんが、それぞれの地域に合った、平常の生活に戻って行くことが大事であろうと思います。
 私がこのように言うのは、今回の震災のような、何か特別な出来事が起こったようなとき、「この働きに参加しないものはけしからん!」と言わんばかりに、自分たちの働きに協力するように強く要請する人たちがいたりするからです。私は、そのような姿勢には賛成しません。
 ですから、私は自分自身の関心と、主の導きによって少しだけ震災ボランティアの働きに関わっていますが、「教会のみんながこの働きに加わるべきだ」とか、「被災地以外の教会も、もっと震災復興に協力すべきだ」とアピールするつもりはありません。もちろん、関心をもって下さり、協力して下さる方々が出て下さることは大歓迎ですが。
 そのように考える土台にあるものは、これまでの苦い思い出があります。かつて聖書学院の修養生だったとき、児童伝道に重荷を持っておられる先生が、「児童伝道を大切にしない教会はダメだ(主の祝福を受けない)」というようなことを言われ、「どこかおかしい」と嫌な気持ちになったことがあります。また、海外宣教の働きに従事しておられる先生などが、「海外宣教の働きに関わっていない教会は決して祝福されません!」などとアピールされるのを聞いて、やはり何とも言えない嫌な気持ちになったことがありました。共通するのは、自分が関わっている働きを大切に思うあまり、「この働きが一番大事だ!」と主張する姿勢です。それによって、そうでない人々をさばいているのです。一見、純粋で真っ直ぐと思われるその信仰態度に、「自分たちの働きが一番大事」と主張する自己中心性が潜んでいます。
 けれども、コリントの手紙に体の各器官はそれぞれ働きが違い、それぞれが必要で大切な器官であると語られているように、教会が担っている数多くの働きは、どれが一番大事かと順位付けをすべきものではなく、全てが福音宣教のために大切な働きであり、それぞれがその一部の働きを担っていると考えるべきでしょう。他の働きに全く関心がない、というのでは困りますが、私たちが自分で全ての働きを負うことなどできませんから、与えられた関心や賜物に応じて、一つの役割を担っていけば良いものと思います。
 そのような意味において、震災のことばかり書いている私ですが、「震災復興に関わる働きが何よりも大事だ!」などとは全く思いません。他の地域の方々が、それ以外のそれぞれの働きを担っていて下さるということが、同じくらい大切なことだと思います。その上で、私たちは被災地にある教会として、またそこの教会の牧師として、自分たちにしかできない働きを担っていければいいなと願っております。



植木鉢 7月22日(金) 
 
 午後、先週水曜日に退院したN姉の様子を見にシオンの園に行ってきました。ちょうど3時のおやつのときで、ホールに座っていて、「あら、先生」と手を振って「こっち、こっち」と手招きをしてくれました。入院中はずいぶんと混乱があったのですが、今日はずいぶんと表情も良くなり、先週は言えなかった私の名前も、「佐藤先生」とちゃんと言えるまで回復しました。少し心配になって、「何の先生か分かる?」と尋ねますと、「教会の先生」とちゃんと答えてくれました。病院にいる間は、自分がどこにいるのか、なぜこんなところにいるのかが全く分からない状態でしたが、マイホームであるシオンの園に帰って来たら、やはり精神が安定したためでしょう、とても元気になってきました。人はやはり、自分の住み慣れたホームにいることが、元気の素なのだなあと改めて思わされました。そのうち、また礼拝に出席できると思います。お祈り感謝いたします。
 それと、今日はエアコンの設置工事が行われる日ですが、先ほどやっと業者の方が来ました(午後6時)。ちょっと複雑な工事があるため、これから5〜6時間かかるそうです。終わるのは夜中の12時前? いくら工事がたて込んでいて忙しいとはいえ、あまりにも遅い時間なので「翌日にして欲しい」と交渉したのですが、ダメでした。業者の方も、一日中働いた上で、さらにこれから5〜6時間。約束の時間にも遅れて、ほんとは文句を言いたかったところなのですが、若い2人がかわいそうになってやめました。こちらも気長に待つことにします。これで、今度の日曜日は、30度を超えても大丈夫。どうぞ安心して礼拝にお出かけ下さい。



植木鉢 7月25日(月) 
 
 夜明け前の少し大きな余震で目が覚めました。次第に揺れが大きくなり、4月7日のあの大きな余震の再来かと思いましたが、そこまで行かずに収まりました。直後のテレビでは宮城県北部と中部は震度5弱となっていましたが、今朝になって仙台市青葉区は震度4とのこと。もうちょっと大きい感じがしたのですが、皆さんはいかがだったでしょうか。変な時間に起こされて、一日何となく調子が悪かった方もおられることと思います。昼頃、S姉から電話があり、「手や足が動かないんです。助けて下さい」とのこと。昨日の礼拝においでにならなかったのでちょっと心配していたところでした。午後、家内と二人で訪問し、いつもの病院に連絡し、入院させていただくこととしました。歩行困難をはじめ、いろんな症状が出ておりましたので、入院させていただいてホッとしました。担当の医師や看護師の方々が「あ、教会の方ですね」と家内のことを覚えていて下さって(震災翌日にも同様に入院させていただきましたので)、病状を説明して下さいました。S姉は病棟に入ると、いつもの仲間の方々が声をかけて下さったこともあり、とても表情が良くなって安心しきった様子だったとのこと。また、お世話をして下さる看護師の方を「この人いい人なの」と家内に紹介したりして、S姉にとっては、ご自宅よりも病院におられたほうが落ち着くのかもしれません。また、S姉のことをよく知っていて下さる看護師の主任の方が、家内に「Sさんのことをこれからもよろし」と言って下さるなど、信頼できるスタッフに支えられているようです。熱中症などの心配もありましたので、私たちもいろんな意味で安心しました。入院生活が守られますようどうぞお祈り下さい。



植木鉢 7月26日(火) 
 
 午後、傾聴ボランティアに行ってきました。クラッシュ・ジャパンからは修養生の篠崎兄とドイツ人のご家族(宣教師?)が来ておられました。お子さんが夏休みに入ったので、横浜からおいでになったとのことでした。畑の土を掘り起こし、津波で流されてきたいろんなゴミを取り除く作業をしておられました。ずいぶん畑がキレイになったなあと見ておりましたが、その隣の手つかずになっている田んぼもその方の土地だとのこと。少しずつ進んではいますが、まだまだやるべきことがいっぱいある、という感じでした。私の傾聴ボランティアのほうは、震災の出来事だけでなく、おばあちゃまがお話になる様々なことをお聞きしています。こちらの心の泥出しも、まだまだ続きそうです。
 その帰り、日本国際飢餓対策機構(JIFH)の物資倉庫に寄りました。写真にあるように、いつもと比べて物資が少ないことがすぐに分かりました。野菜やお米が尽きてしまったとのこと。そして、それらはどこかからの献品だけでなく、それ以上にJIFHが購入して提供しているということを知りました。お米は今発注していて、今週中には何とか届くのではないかということでした。また、扇風機を必要とする方々のために、スタッフが全国のいろんな場所で購入して、仙台の倉庫に送って下さっているとのこと。スタッフの方にそのお話を聞きながら、全国、全世界からたくさんの献金がJIFHになされているようですが、まだまだ続く支援を考えると、お金はいくらあっても足りないなあという思いがしました。主が必要を備えて下さるよう祈るばかりです。
 そんな中、何回かお会いした若い女性のボランティアの方が明日、東京に帰られるとのことでした(写真真ん中)。大学の夏休みを利用して、一ヶ月間、仙台YWCAに寝袋で寝泊まりしながら、倉庫や泥出し作業などの奉仕を続けられました。クリスチャンホームの方で、迷っていた本人をお母様が背中を押して下さったとのこと。送り出して下さったご家族や教会にも感謝です。この一ヶ月間の経験が、ご本人のこれからの人生に、また信仰生活に豊かな糧となりますようお祈りいたします。




植木鉢 7月27日(水) 
 
 被災地の復興を支援するための、東北地方の高速道路を乗り降りするトラックの料金が無料化されるという措置を悪用し、被災地復興とは関係のないトラックがわざわざ常磐道水戸インターなどで降り、Uターンして再び高速道に乗るというケースがたくさん出ていると報道されていました。証明書など一切必要ない制度ですので、このように悪用する人たちが出て来ることは容易に想像できます。国土交通大臣は「被災地域の復興のための施策であり、悪用しないでほしい」と呼びかけているそうですが、たとえ悪用しても今のところ法律的には問題はなく、あくまでモラルの問題ですから、制度を変えない限り、それを止めるのはなかなか難しいことでしょう。
 この高速道路の無料化措置は、私たちのような普通車の場合は、各自治体で出される被災、罹災証明を料金所で提示することで無料となります。聞くところによると、建物などに大きな被害がなくて罹災証明書をもらえないような程度であっても、申請をするだけで罹災届出証明書は発行してもらえるため(後日調査)、無料化措置を利用できるということでした。
 私の場合、いずれの証明書ももらっていません。その理由の一つは、当初6月一杯と言われていた届け出の締め切りに間に合わなかったことがあります。福島教会を往復するため、「罹災証明書を取らないのですか?」と聞かれたりしたのですが、そうこうしているうちに期日が過ぎてしまいました。それには、何となく気乗りがしなかったということもあります。罹災届出証明書だけでももらって、無料化制度を利用することも簡単にできたのですが、私の中では、自分の被災程度は罹災証明書を発行していただく範疇には入らないと思えたからです。そもそもこの制度は、震災で建物などの被害を受けて財産を失ったり、補修工事に多くの費用がかかったりしている人々、すなわち、罹災証明書をもらうほどの被害を受けた人々に対して、その経済的な負担を軽減するための制度でありましょう。私や私たちの教会は、すでにいろんな方面から経済的な支援を受けており、またこれ以上、補修工事などがほとんど必要のない状況であることを考えると、制度の本来の趣旨からは対象にはならないと自分で判断しました。「いや、制度なんだから、利用できるものは利用したほうがよい」と考える方もいるでしょう。それはその方の自由ですから、それでいいと思います。ただ私は、そうでなくても震災復興のために莫大な費用がかかるところを、私たちのような者たちまで無料化制度を利用していては、復興のための財源がいよいよ足りなくなってしまうことを考えると、復興を支援するためにも、あえて無料化制度を利用しない道を選択しました。私が千円、二千円払っても、財源不足の問題は何にも解決しないこと、その費用が直接震災復興に向けられるわけではないことぐらいはよく分かっています。それでも、震災における経済的な負担はすでにないことを考えると、無料化制度を利用するのではなく、当然払うべき高速料金を払う、というほうを選びたいと思いました。とっても大げさな言い方をするならば、自分の得にはならない方法をあえて選ぶということは、キリスト者に与えられている自由であろうと思います。震災からの復興を今日も祈ります。



植木鉢 7月28日(木) 
 
 午後、入院しておられるI姉のお見舞いも兼ねて、息子さんYくんを職場に迎えに行って病院まで送り届けるボランティアのピンチヒッターに行きました。これは、教会員のY姉ご夫妻がしばらく前から役員として関わっておられる、ボランティアを行うNPO法人ナルク(NALC)の活動によるものです。このナルクの活動には、M兄姉ご夫妻やS姉も以前から関わっておられます。シオンの園に入居しておられるN姉も、ときどきナルクのお世話になっています。
 今回I姉が入院されたとき、いろんな調整役をして下さったケア・マネージャー(?)のような方が、たまたまナルクに「こういう支援のボランティアをお願いできないか?」と問い合わせをしたところ、事務局をしておられるY姉のご主人から話を聞いたY姉が、「もしかしたら、これはI姉の息子さんことではなかしら?」と確認のために教会にお電話を下さり、それならば何とかお引き受けしましょうと、いろいろと取り計らって下さいました。もちろん、I姉はケア・マネージャーの方がどこのボランティアにお願いしているかなど全く知らなかったのですが、神さまが不思議なように導いて下さって、Y姉ご夫妻が事務局をしておられるNALCにお世話になることになりました。神さま感謝します。
 そのような経緯もあって、今日で2回目、Yくんを職場から車に乗せ、一緒にI姉の病室まで参りました。私はあまり詳しくは知らない道なのですが、カーナビとは違うYくんのナビで、「次は右」「そのまままっすぐ」と教えられながら、無事病院まで着きました。3ヶ月と言われているI姉の入院生活ですが、様々な方々の助けをいただきながら、また見えざる主の御手に支えられながら、I姉は一日でも早く退院しようとリハビリに励んでおられます。
 しばらくお話をし、最後に詩篇23篇1節をお読みしてお祈りしました。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」(新共同訳)

 多くの欠けを持つ私たちは、何とか自分の力でその欠けを埋めようと頑張って疲れ果ててしまいます。自分が自分の羊飼いになろうとするのです。しかしそれは、「わたしはわたしの羊飼い。わたしは欠けることばかりです」という状況をもたらします。これに対して詩人は、主が羊飼いとなって下さるとき、多くの欠けが一つ一つ埋められていくというのです。あの病室にあっても、主がI姉の羊飼いとなって下さり、全ての欠けを満たして下さるようにと祈り、帰って来ました。まだ1ヶ月ほどは入院生活が続きそうです。どうぞ引き続きお祈り下さい。



植木鉢 7月29日(金) 
 
 教団本部から、『K元牧師性加害事件検証報告』という小冊子が10冊ほど送られてきました。10年以上前に起きた事件について検証を続けてきた人権対策室が、その報告をパンフレットという形で出したものです。今回、私は初めてこの文章を読んだのですが、すぐに気づいたことは、これは今年3月の教団総会の資料として配られていたものであり、さらに、私たちの教団のホームページに、教団総会の後からずっと掲載されていた文章でした。総会資料については、震災後の混乱で読む暇がなかったと言えたとしても、ホームページについては、震災のことで何度も教団のホームページを見て、「また何か載っているなあ」と知ってはいたのですが、あえて読もうとはしませんでした。「もう昔の事件で、今の自分にはあまり関係ない」と全く無関心でいたのです。そのような無関心が、同じような事件が起きるのを見過ごしにしてしまうことになると気づかされました。なぜなら、この検証報告は過去の出来事をワイドショーのように興味本位で伝えるものではなく、今の私たち自身の信仰姿勢を問うものであるからです。過去の事件を振り返りながら、今の私たちが抱える問題に光を投げかけるのです。そしてこの問題は恐らく、私たち全ての信仰者が抱えている問題であろうと思います。それゆえこれは、「自分には関係ない」とか「もう済んだ話だ」ということはあり得ないのです。(教団のホームページは http://www.jhc.or.jp/ )
 もう一つ、ある方から『神の言はつながれていないU』という本を頂いて読んでいます。これは1942年6月26日に起こった旧ホーリネス系教会に対する弾圧を記念して、毎年行われている聖会の説教、講演会をまとめたものです。その中には、かつて私がテープで聞いて深く心を揺さぶられた村上宣道先生の弾圧五十周年記念聖化大会のメッセージも掲載されています。ホーリネス系の教会からだけでなく、それ以外の教派・教団からも説教者・講演者として立てられ、そのメッセージが載っています。「日本の近代化とホーリネス弾圧」という文章の中で、戦争へと向かって行った時代の流れを、教会が見極めることが出来なかった事実に触れている文章が心に留まりました。

 ……生臭い匂いがどんどんしているのに、クリスチャンはそのことを知ろうとしないのでしょうか。その時の流れを知ろうとしないのでしょうか。そして、そのことは自分の信教の自由に束縛を与えるものだということを悟っていないのでしょうか。知ろうとしないこと、黙っていることは、結局賛成していることになってしまうのです。

 最後の、「知ろうとしないこと、黙っていることは、結局賛成していることになってしまうのです」という文章は、震災後、原発問題などで大きく揺れている今の私たちの心にグサリと突き刺さる言葉ではないでしょうか。そして、70年近く前の弾圧の出来事を読むということは、これもやはり、今の私たちの信仰を問い直すことにつながります。決して昔の出来事ではなく、また自分とは関係のない話でもなく、今のこの私の信仰姿勢がココで問われているのです。この本は教会図書に入れましたので、どうぞお読み下さい。



植木鉢 7月31日(日) 
 
 午後、墓前祈祷会(清掃)が行われました。役員会と重なっていたため、私が行くことができず、また人数も少ない中、家内のほかに4名の方が行って下さいました。ありがとうございました。涼しく、雨も降らなかったため、いつもこの時期に行う墓前祈祷会としては一番やりやすかったとのことです(写真)。

 私たちの墓地があるみやぎ霊園も震災でかなり被害を受けており、私が先月行ったときにも、写真にあるように、壁面が崩れている箇所が幾つもあり、立ち入り禁止になっている場所は今もそのままになっているとのことでした。まだまだ、いろんなところに震災の爪痕が残っているようです。

 私たちの教会では、年に3回(春と秋のお彼岸、お盆)が来る前に、清掃を兼ねた墓前祈祷会を行っています。春は3月13日に行く予定でしたが、震災によってそれどころではなくなり、今日が今年初めての墓前祈祷会でした。今度は9月11日の敬老祝会の後に参ります。ぜひご参加ください。そういう私も、このところ、他の集会などと重なって私が行くことができないでいます。代わりに行って下さった方々、ありがとうございました。


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