2014年6月29日(日)

「思い起こせ、力ある主を」

 今朝は3ヶ月半ぶりに築館教会での礼拝奉仕でした。5名で礼拝をささげました。礼拝後、いつものように楽しく昼食をいただきました。Rくんが、「佐藤先生が来るから」と、チーズケーキを作ってくれました。とってもおいしかったです。それと、超刺激的なジンジャーエール。とっても苦かったです! また、クリスチャンホームの子どもならではの、「日曜日に無理やり教会に連れて行かれるのが嫌だったなあ」という共通の話題で盛り上がりました。それでも、今は毎週のように礼拝に集っていること、主の大きな憐れみを覚えました。 

 礼拝は、イザヤ書40章27~31節から、「思い起こせ、力ある主を」という説教題でメッセージを語りました。これは、自分自身に語りかけるような思いでした。30節に、「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れ果てて倒れる」とあるように、信仰者であっても、様々な出来事が起こってくる中で、疲れ果ててしまうことがあります。ココで語られているのは、何よりも信仰における疲れです。目の前の状況の困難さのゆえに、神を信じることにおいて疲れてしまう、そういうことがあります。その信仰の疲れは、私たちの主がいかなるお方であるかを見失ってしまうところから生じます。バビロン捕囚におけるイスラエルの民は、「わが道は主に隠れている」「わが訴えはわが神に顧みられない」と嘆いていました。自分たちにいつくしみの目を注いでいて下さる主が分からなくなっていたのです。目の前に立ちふさがる困難のほうが大きく見えていたのです。そのような民に、イザヤは語りかけました。「あなたは知らなかった、あなたは聞かなかったか」。それは、「あなたは知っているはずではないか、聞いているはずではないか」ということです。「思い起こせ、主がいかなるお方であるかを!」
 天地を創造された主は、自ら弱ったり力を失ったりはされません。主は、「弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる」(29)お方です。
 そういうお方だからこそ、「このお方に信頼しても大丈夫、間違いない」という信頼が生まれます。困難な状況の中で、なお主を待ち望む信仰が与えられます。
 この主への信頼は、私たちに日ごとに新しい力を与えてくれます。信仰の疲れを覚えている方々が、主の力に支えられて歩みをなさるようにと願わされたことでした。  

「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(31)

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