2014年3月11日(火)

「大震災から3年-被災地を尋ねて-」

 あの大震災から今日で3年となりました。長いような短いような、そのような3年でした。今日は本当は教団の会議が予定されていたのですが、明日に変更になったため、この地でこの日を過ごすことができました。高校を卒業した長女とともに、そして教会員のT姉とK姉も一緒に、4人で石巻・女川方面へと行ってきました。ちょうど1年前の震災の日にも、今日と全く同じ場所を訪れましたが、今日は昨年とは逆ルートで、一番遠くの場所から戻ってくる形で回りました。
 最初に訪れたのは、児童と教職員合わせて84名が津波の犠牲となったことで知られる大川小学校でした。小雪がちらつき、北風が吹き付ける寒さの中、ご遺族をはじめとして、いろんな方々が次々と訪れていました。我が子を失った遺族の方々が、石巻市を訴えて裁判を起こしています。あの地に立ってみると、児童たちが目ざした北上川にかかる新北上大橋付近ではなく、学校のすぐ裏手にある山を登っていれば助かったに違いない、と遺族たちの悔やんでも悔やみきれない思いは分かる気がします。周囲には学校以外の建物は何もなくなり、寒さの中でいっそうさびしく感じました。*写真の後に続いていきます

大川小学校
多くの祈りが捧げられ
素敵な校舎でした


校舎の裏の裏山
かつては住宅地が…



 大川小学校から女川へと向かう途中、雄勝硯で有名な旧雄勝町を通りました。一年前は、雄勝小学校、雄勝中学校、雄勝硯伝統産業会館などがまだ立っていたのですが、それらの建物はすっかりなくなってしまっていて、場所が分からずに通過してしまいそうになったことでした。

    2014年3月11日                   2013年3月13日  

硯伝統産業会館跡地
硯(すずり)伝統産業会館



雄勝中学校跡地
雄勝中学校



雄勝中学校方向を望んで
ガレキとプレハブ
雄勝中学校跡方向を望んで
去年と同じプレハブが


雄勝小学校跡地
雄勝小学校



 次に、女川を訪れました。この女川の町は20メートルの津波に襲われたと言われます。それがどれほどの高さのものであるか、現地に行ってみるとよく分かります。海岸近くの海抜16メートルの高台にある町立病院が2メートル近くの津波に襲われて一階フロアが浸水し、駐車場にあった車が次々と流されたというのです。その高台から見下ろす風景は、一年前とあまり変わっていないように思いました。その高台からすぐに下に降りると、津波によって倒壊したビルの一つ、泉沢水産ビルが横倒しになっています。そのすぐそばには、これも裁判になった七十七銀行女川支店があった場所に献花台が設けられており、遺族の方々が署名活動をしておられました。震災当日、行員13名は10メートルの高さの2階建て支店屋上に避難しましたが、それをはるかに上回る高さの津波に襲われて犠牲となりました。高台にある町立病院までは走れば1分の距離だということで、遺族の方々の無念さは、計り知れないものがあります。妹さんを失ったという女性の方が、その悲しみを聞かせて下さいました。    

高台の町立病院にも津波が
赤いラインが到達点



     2014年3月11日                  2013年3月13日


変わらない風景
町立病院から見る




こちらも変わらず
町立病院から見る


     2014年3月11日                            2013年3月13日

横倒しの泉沢水産ビル
七十七銀行跡地
七十七銀行
(倒れたビルの奥)


 女川で昼食を済ませた後(私は漬けマグロ丼、娘たちは復幸女川カレー)、最終訪問地である石巻に行きました。まずは2012年11月に再開した石ノ森漫画館。次に、「がんばろう!石巻」という看板が震災直後から掲げられている場所へ。寒風の中、神戸から来たというボランティアの方々が温かな飲み物をふるまって下さいました。そこからすぐ近くには、震災後の火事で焼けてしまった門脇小学校があるのですが、今日はシートに覆われていました。まもなく解体作業が始まるのでしょう。

      2014年3月11日                                     2012年

石ノ森漫画館
昔懐かしロボコン!
閉館中でした



「がんばろう!石巻」
シートで覆われた
門脇小学校
門脇小学校


 そして最後に、その近くの急な石の階段を登ると、テレビなどでもよく映される日和山公園があります。震災当日、多くの人々がこの階段を上って津波を逃れたと言われます。そこから眺める風景によって、少しずつ復興が進んでいる様子が分かります。かつて市立病院が建っていた場所は、今は建物が取り壊され、かさ上げのための盛り土がなされていました。また、海岸線近くには無数の車が積み上げられていましたが、今日はもうそれらがなくなっていました。震災発生時刻が近づくにつれ、多くの方々が集まってきて、午後2時46分、サイレンの鳴り響く中、1分間の黙祷をささげました。黙祷しながら、3年前の震災のことがよみがえり、建物が倒れるのではないかと思いながら大きな声で叫んでいたときのことを思い出しました。*続きます


日和山公園
キツい階段…



盛り土のところが
市民病院跡地のようです
かつては
市立病院が見えました



何もない今の海岸線近く
震災後置かれた被災した車


 あれから3年、私の周りでも、3年経ってやっと震災のときの写真を見ることができるようになった、やっと被災地に足を踏み入れることができるようになった、という方が結構おられます。被災地との関わりが深い分だけ、それの惨状を見つめることができずにいたのでしょう。復興とともに、心の快復もゆっくりとしたペースで進んでいるようです。
 私は、自分にできることは被災地の姿を眺め続けることかなと思い、これからも被災地を訪れたいと思います。忘れないでいること、これが自分にできることだと思っています。今も深い悲しみの中にいる方々、厳しい生活を余儀なくされている方々に、神の慰めと支えをお祈りいたします。

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