十戒の第四の戒めとして出てくる「安息日」という言葉は、「中止する」という意味の言葉から来ています。それまでのすべての働きを中止する日が安息日です。天地を創造された主が、第7の日には働きを止めて休まれ、その日を特別に安息日として記念されました。31章には、安息日の規定を破る者は必ず殺される、とさえ言われています。すなわち、私たちの命に関わるほどの大切な戒めであるということでしょう。
 神がこのように厳しく命じられるのは、私たちが神に命じられなければ、自ら休むことをしないからです。私たちは、神のみ前に自ら進み出て、心と体と魂を休息させることをなかなかしようとしないものです。もし、一週間のうちで日曜日のこの時間に礼拝をささげる、ということが決まっていないとしたら、私たちは自発的にどこかの時間を取って礼拝に集うことができるでしょうか。次々と用事が入り、普段の働きを一時中断し、神の前に静まるということをしなくなってしまうのではないでしょうか。そのように休むことのできない私たちに対する、これは神によるドクターストップです。「そのままではあなたがたは人として死んでしまう」と主は告げられるのです。私たちを愛するからこそ、主はあえて静止の命令をされるのです。
 神の命令に従い、週に一度、それまでの働きを止めて、神のみ前に自らを休めます。私たちが自らのわざをやめるとき、そのときこそ、私たちの内で神の霊が豊かに働いてくださいます。み言葉をとおし、私たちを造り変える再創造のわざを神がなさいます。礼拝によって、私たちは新しい命に生かされるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ヨハネの手紙は「互に愛し合いなさい」という神の戒めを、繰り返し語ります。神の戒めを守ることが、神を愛することだからです。しかし当時の教会には、「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む人たちがおりました。憎しみは、当時に限った問題ではありません。聖書の「憎む」という言葉は、憎しみの感情だけでなく、「軽く見る」、「蔑(ないがし)ろにする」という意味も含みます。相手の存在を大切にしないことで、愛とは正反対の態度です。
 些細な事で憎しみの感情を抱え、気づかない内に他者を蔑ろにしてしまう私たちです。互いに愛し合うことは困難に感じることです。しかしヨハネは、神の戒めは難しくないと語ります。それは、「すべて神から生まれた者は、世に勝つ」からです。
 世は、罪のゆえに神を憎みます。しかし神は、そんな世を愛し、大切な独り子を世の救い主として遣わして下さいました。私たちは皆、世の一員です。戦いの相手である世は、私自身であり、私の内にある憎しみなのです。自分の力では、憎しみに打ち勝つことは出来ません。しかし主イエスは、力を手放すことによって世に勝って下さいました。神の栄光を捨て、人となって地上に降り、十字架に命をも捨てて、世の罪と憎しみの全てを、その身に引き受けて下さいました。そこには、私が抱えている憎しみも含まれています。
 イエスは神の子、救い主と信じ、十字架の前に自らの憎しみを差し出す時に、主はそれを受け取り、代わりに、神の子とされる恵みを与えて下さいます。私たちはこの信仰によって世に勝ち、罪と憎しみの支配から解き放たれるのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)

 十戒の第三の戒めとして、「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない」と命じられました。イスラエルの民はこの戒めを曲解して、神の名をまったく口にしなくなったため、神の呼び名を忘れてしまうほどでした。
 しかし、これは神の名を全く呼んではいけないと言っているのではありません。「悩みの日にわたしを呼べ」と主は言われます。「みだりに」とは、中身のない、空しい使い方をしないようにということです。神の名は存在そのものと結びついており、名を軽んじることは、神ご自身を軽んじることになるからです。
 私たちが忘れてはならないことは、私たちが神を呼ぶ前に、天の神が私たちの名を呼んでいてくださるということです。小さなこのわたしの存在を尊び、その価値を認め、愛していてくださるということです。人は神に名を呼ばれて、人間としての存在を回復していきます。そのとき、神を正しく呼ぶことができる者とされていきます。本来は神の名を呼ぶことなどできなかった者たちでした。しかし、主イエスが十字架でとりなしてくださって、私たちを神を呼ぶことができる者に変えてくださいました。
 その私たちには、「アバ、父よ」と呼ぶ御子の霊が与えられました。私たちは奴隷のように、神から罰を与えられるのではないかと恐れて生きる必要はなくなりました。幼子が父親のふところに飛び込むように、愛と信頼をもって、「父よ」と呼ぶことができるのです。私たちは御子の霊を受けた者たちです。主の霊を促しを受けて、神を呼ぼうではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ダビデは神への感謝として、立派な神殿を建てようと志しました。ところが神はその願いを退けられます。しかし神はダビデを拒んでいるのではありません。むしろ逆に、「ダビデとその子孫と王国に、さらなる祝福を与える」と、驚くような約束をしてくださったのでした。
 ダビデはその圧倒的な神の恵みを前にして、自分は何をしたところでその恵みに報いることができないほど、小さく弱いことを自覚します。そしてそんな取るに足りない者が神に選ばれ、豊かな恵みの中で今日まで大事に導かれてきたことを、深く感謝したのでした。
 するとダビデは自分の願いが却下されたことなど、もはや問題ではなくなりました。神がこれからも共にいてくださり、私の喜びも悲しみも、不安も無力さも、私という人間をよくご存じでいてくださることを悟ったとき、願いが叶わなくてもダビデは満たされました。これ以上何も言う必要がないほど、満ち足りたのでした(20節)。
 神は私たちの罪深さも弱さも、全てをご存じです。その上で私たちを選び、私たちの罪を赦すために、ひとり子を十字架につけてしまったほどに、私たちを愛しておられます。そしてその愛と真実にかけて、私たちの人生を何があっても責任をもって負うとおっしゃるのです。
 それならば私たちは、この上何を神に申し上げるのでしょうか。自分の願いが叶わなくても、その圧倒的な恵みのゆえに、私たちは神の「NO」を受け入れることができるのです。「NO」と仰る上で、さらに大きな祝福を備えてくださる神ご自身に、私たちは満ち足りるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 大きな地震に見舞われた熊本教会を訪問しながら、黄金律とも呼ばれるこの聖句を思い起こしていました。主イエスは、聖書が語っていることはこれである、と言われました。
 主イエスはここで、他の人のために何かをしてあげようというとき、自分に置き換え、「自分だったらどうだろうか」と考えることから始めるようにと言われます。自分がして欲しいと望むことを、相手にしてあげるようにというのです。このとき問題となるのは、私たちが思いつくことが、必ずしも相手もそのように望むとは限らないということです。こちらの思いと、受ける側の気持ちとにズレが生じるのです。そのとき、私たちは自分の考えを相手に押しつけようとすることがあります。相手が何を願うかよりも、自分がしてあげたいことをしようとするのです。隣人を愛するときにでさえ、私たちは自己中心になってしまいます。
 人を愛するということは、相手を中心にして考えることです。そのために、相手の僕のようになって仕える姿勢が必要となります。そしてそれを実践しようとするとき、私たちは自らの愛が足りないことを痛感させられます。だからこそ、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」と約束された主に、愛を求めるしかありません。神は求める者たちに良いものを与えてくださると約束されました。事実、父なる神は、私たちの救いのために、最も良いものである御子キリストを与えてくださいました。その御子は、私たちのために命をさえ与えてくださったのです。
 このキリストの愛を受けるとき、私たちは初めて、他者に仕えて生きる力が与えられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 人は自分に罪や過ちがあると思うとき、自分の顔や存在そのものを隠そうとするものです。これに対して、周りの人はそれとは反対に、その隠れている罪を暴こうとします。
 ペテロはそのような私たちに対して、「何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである」と勧めます。他者を愛するということは、その人の罪を暴こうとするのではなく、その罪を覆ってあげることであると。それは、罪をうやむやにすることではありません。罪を罪として認めた上で、それを覆うのです。これは、罪の赦しを意味する旧約聖書的表現です。
 「罪をおおう」と聞くと、それは甘やかしの態度であるように思う人がいます。罪を暴くことのほうが正義であると考えるのです。しかし、私たちの中に、他人の罪を責める資格のある人など果たしているでしょうか。私たちはお互い、罪を持った者たちなのです。
 罪を責められるだけでは人は変わりません。自分が赦されていることが分かったとき、真の悔い改めがそこで起こります。ペテロ自身、主イエスが捕らえられたとき、主を三度も否定するという大きな失敗を犯した人でした。そのとき、主イエスはペテロを責めるのではなく、彼を赦した上で、彼の回復のために祈られました。ペテロこそ、主によってその罪を覆っていただいた者でした。
 だからこそ、他者の罪をおおってあげる愛に生きるようにと勧めます。それは、私たちも主の十字架によって罪をおおっていただいた者たちではないか、と訴えです。主の十字架の愛に応えて、赦しの愛に生きる者でありたいと願います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 弟子たちに主の祈りを教えられたとき、主イエスは2回繰り返して、「だから」と言われました。異邦人のようにくどくどと祈るでなく、全てを知っておられる神を信頼して、こう祈りなさい、と言われました。
 前半の三つは、神についての祈りですが、神のためにとりなしの祈りをするのではなく、私たちが神の前でどう生きるべきなのか、その姿勢を整えるための祈りです。私たちが神を第一として生きることを求める祈りです。
 この主の祈りの最後に、「試みに会わせず、悪よりお救いください」と祈ります。試みとは、誘惑と同じ意味です。試練に遭うとき、誘惑にも遭います。何とかして神に信頼させないように、神以外のものに信頼し、神に従うことをやめさせようとする誘惑です。ゲツセマネの園で主イエスが苦しみの祈りをされたとき、ペテロたち3人の弟子たちは眠り込んでしまいました。そのとき、「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい」と命じられました。私たちは自分の力で悪の力に勝つことはできません。だからこそ、目をさまして、すなわち、自分の弱さを自覚しつつ、主の助けを祈り求めることが必要です。
 私たちが自分の力を過信し、誘惑に対しても眠ったような状態でいると、悪しき者の誘惑に無意識で反応してしまいます。そのために、言葉や行動において誰かを傷つけてしまったりします。
 私たちは、自分の力ではサタンの誘惑に勝つことなどできないと深く自覚するからこそ、心の目を覚まし、主の助けを求めて祈り続けようではありませんか。
(「静まりのセミナー」講師 太田和功一師)

 ローマ・カトリック教会などでは、十戒の第二戒を第一戒の中に含めて、異教の神に対する偶像礼拝を禁じたものと理解します。しかし、私たちはこの第二戒を第一戒と区別し、これを真の神を像に刻むことを禁止したものとして理解します。
 霊なる神を形にするということは、神を被造物と同じモノにしてしまうことであり、人格を持たず、ものが言えない存在にしてしまうことです。これにより、私たち人間がこの神に向かって一方的に語るだけの信仰生活になります。これにより、神と私たち人間の立場が逆転してしまいます。
 人が神を形にして造ろうとするのは、「自分のために」とあるように、自分にとって都合のいい、自分の役に立つ神を求めるからです。そのとき、私たちが主人となり、神を僕としてこちらの言うことを聞いてもらう、そのような信仰生活に陥ります。私たちが偶像を造るということは、自分にとって都合のいい、自分のイメージに合う神を造ろうとすることです。それは、私たちが神に似せて造られたという創造のわざに反することを行うことになります。ここに、人間と神との立場が転倒してしまう罪の姿があります。この第二戒は、そのような転倒からの悔い改めを促す勧めです。私たちは自分のために神を造るのではなく、神のために生かされている者たちなのです。
 この大きな方向転換は、私たちのために人となられたキリストが、私たちのために十字架で命を捨ててくださった、という大きな恵みを知るときに起こります。キリストの恵みに応えて、今度は神のために生きる者へと変えられていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 私たちは、多くの恐れを抱えながら生きています。その中で、私たちの生き方に暗い影を落とすのは、対人関係における恐れです。人から受け入れられない時、認められない時、見捨てられる時、私たちの心は深く傷つきます。こうして人の裁きや評価を恐れるようになるのです。
 ヨハネは、「愛には恐れはない。完全な愛は恐れをとり除く。」と語ります。ここで語られている愛は、神の愛、キリストの愛です。父なる神は私たちを愛し、大切な独り子を十字架につけるために、この地上に遣わして下さいました。私たちを御子の命よりも大切な存在と見て下さったのです。遣わされた主イエスは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかり、私たちの代わりに父なる神から捨てられて下さいました。
 ゲツセマネの園で主イエスが経験された深い恐れは、神から捨てられることへの恐れでした。主は私たちの恐れを全てご存知です。ご自身が、見捨てられることの痛み、愛されないことの孤独、受け入れらないことの苦しみ、それを避けたいという思い、その全てを味わわれたからです。このお方が、恐れの只中にあっても、いつも私たちと共にいて下るのです。ここに、様々な人生の嵐の中にあっても、安心して生きて行ける希望があります。
 キリストの愛によって、恐れの根源である罪はとり除かれました。もはや私たちは、神に見捨てられることは決してありません。十字架の愛を受け取る時に、私たちも主イエスと同じ神の子とされるからです。主イエスを信じる私たちに対する父なる神の裁きは、「あなたはわたしの愛する子」という愛の声なのです。
(仙台南光沢教会 信徒説教者 横道弘直)

 私たち人間にとって、死は克服しがたい最大の敵です。「死の力を信じる」と言ってもいいほどに、死の力に支配されて生きています。パウロが手紙を書き送ったコリントの教会にも、死の圧倒的な力を信じて、死人の復活を信じることができない人々がいました。キリストの甦りは信じても、死人の甦りは信じることができないでいたのです。
 パウロは、キリストの甦りと人間の甦りは別物ではなく、キリストの甦りを信じるなら、当然、死人の甦りを信じるはずだと述べます。死人の甦りを否定することは、キリストの甦りを否定することになるからです。そしてもし、キリストが甦らなかったとしたら、私たちの信仰は土台から崩れてしまいます。私たちは今なお罪の中に生きていることになってしまいます。なぜなら、死はキリストをも呑み込んでしまったことになり、キリストは支配者ではなく、死こそ支配者だということになるからです。
 問題の焦点は、神が十字架につけられたキリストを甦らせたのかどうか、という一点にあります。事実、聖書に書いてあるとおり、キリストは死から復活されました。私たちの罪のために十字架で死なれたキリストを、神が甦らせたのです。それは、私たちの罪の赦しを神が承認してくださった、ということです。私たちを罪と死の支配から解放するために、御子キリストは十字架にかかり、甦られたのです。
 キリストの甦りのゆえに、死はもはや私たちの支配者ではなくなりました。復活して今も生きておられるキリストこそ、私たちの人生の支配者、主となってくださったのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)