「あなたは姦淫してはならない」というこの第七戒は、「現代には通用しない、時代遅れだ」という声が聞こえそうな戒めです。一般の方々にとってはそうかもしれません。けれども十戒は、神を信じる民に向けて語られた言葉です。神の恵みによって罪から救われたあなたがたは、このように生きなさい、と勧められています。それゆえ、キリスト者にとっては、時代遅れになることなどない神の教えです。
 神はこの戒めにおいて、夫婦関係以外の全ての性行為を禁じておられます。それは神が結婚を重んじ、夫婦の間においてのみ、性の営みを許されたからです。結婚とは、他の男女が入り込むことなどできない、一対一の特別な関係に入ることです。
 人が姦淫の罪を犯す大きな理由の一つは、愛されていることを実感したい、という心の問題があります。渇いている心を満たすために、性が手段となり、道具になってしまいます。姦淫の罪は、人格を持っている相手を欲望を満たすための道具にしてしまうこと、人格否定につながるところに大きな罪があります。
 十戒においてこれを禁じているのは、これが信仰との関係において克服されるということです。ヨハネ4章に出てくるサマリヤの女性は、主イエスに出会ったとき、渇いていた心が満たされました。ヨハネ8章に出てくる姦淫の罪の女性は、主イエスの前に罪を認めたとき、「わたしもあなたを罰しない」という赦しの宣言を聞き、「もう罪を犯さないように」との励ましを受けて送り出されました。福音により、お互いの人格を尊ぶ愛に生きることができるように変えられていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 「あなたは殺してはならない」という十戒の第六戒を聴くときに私たちが心に留めるべきことは、実際の統計においては、殺人事件による死亡者数よりも、自分で自分を殺す、いわゆる自死者のほうがはるかに多いという事実です。それゆえ、この戒めは、まず第一にこの視点から聴くべきでしょう。
 キリスト教会の2千年の歴史において、長い間、自死は大きな罪とされてきました。神が与えてくださった大切な命を自分の手によって絶つという罪であり、命を支配しておられる神に対する越権行為だからです。カトリック教会では、自死者の葬儀は認められませんでした。
 しかし、自死のほとんどは追い込まれた末になされるものです。それゆえ、自死を考えるときに大切なのは、自分を殺すという加害者としての側面だけでなく、被害者、あるいは犠牲者としての側面を持っているということです。自死者の多くは、自らを殺す前に、すでに自分の内面は死んでしまっている、周りの人や環境によって殺されてしまっている、という事実があります。
 それゆえ、この「殺してはならない」という戒めは、共同体社会に対して、自死者を生み出すような社会を形成してはならない、という意味を持ちます。なぜなら、社会を構成する私たち一人一人が持っている価値観は、自死という面においても内なる殺人を生み出しているからです。自分など価値がないと見捨ててしまうことがあります。しかし、キリストは、価値なき私たちのために十字架で命を捨ててくださいました。だからこそ、私たちは自らを尊んで生きていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 「あなたは殺してはならない」という第六の戒めは、旧約聖書においては限定的な禁止命令とされ、死刑や戦争は容認されていました。実際、神は殺人者を死刑に処するように命じており、戦争では他の民族を全滅させるように命じておられます。
 キリスト教会がこのような旧約聖書を読む場合、常に新約の光のもとで読むことが必要です。すなわち、主イエスをとおして旧約を理解するのです。主イエスは旧約の律法を引用しつつ、「しかし、わたしはあなたがたに言う」と述べて、律法の真意を述べられました。この第六戒については、実際に行動に移さなくても、言葉をもって心の中で人を殺すなら、それも罪であると言われました。主イエスにおいて、この戒めは全面的な殺人の禁止として語られたのです。それは、どんな人も神のかたちに似せて造られた尊い存在であり、神はどんな人も滅びてしまうことを望んでおられないからです。
 これに対して、私たちは心の中で密かなる殺人を繰り返しているのではないでしょうか。自分には合わない人との関係を断ち切ってしまい、心の中から抹殺してしまうのです。
 そのような私たちに、「あなたは殺してはならない」と語られます。それは、滅ぼされても仕方のない私たちが、主イエスの十字架によって生かされたからです。その私たちに、殺し合うのではなく、互いに生かし合う社会を形づくっていくようにと勧められています。私たちは平和を造り出して生きるようにと召されているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 十戒の後半、人との関係について語る最初の戒めは、「あなたの父と母を敬え」です。「敬う」とは、「重んじる」ということです。私たちは幼い頃からこの教えを学校などで聞かされていますが、必ずしも実行できているわけではありません。最も近い親との関係において、私たちは最も深く傷ついている、ということがあります。そのためこの戒めは、親を敬うことができない私たちの罪を裁く言葉となることがあります。
 しかし、そもそもこの戒めは私たちを裁くためではなく、私たちを祝福の中に生かすことを願って語られたものです。父と母を敬うことが、あなたにとっての祝福となる、というのです。親を重んじることができないとき、私たちはその子どもである自らをも重んじることができず、「こんな自分など価値がない」と思ってしまうものです。この戒めは、親を重んじ、自らをも重んじて生きる祝福へと私たちを招いています。
 具体的な回復のために、自分が親との関係において傷を負っていたことをまず認めることが大切です。「こんなことを思ってはダメだ、親不孝だ」と否定するのでなく、心にある思いをそのまま受け止めます。
 そのとき、自ら軽んじてしまいそうになる私たちのために、御子キリストが十字架で命をかけてくださったほどに、神は私たちを重んじてくださったという福音の恵みが輝くのです。そして、主にあって自らを重んじるようになるとき、その福音の恵みは私たちの周りに生きる家族にも及びます。キリストの恵みが、私たちの親をも重んじて生きる者へと私たちを変えていくのです。福音の恵みによる奇跡の始まりです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 主イエス一行がエリコの町を出られたとき、一人の物乞いが座っていました。彼は「ナザレのイエス」がお通りになると聞き、「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」と叫び出しました。主イエスのことを「ダビデの子」と呼んだのは、「あなたは救い主です」との信仰を告白したことを意味しました。
 ところが、人々は彼を叱って黙らせようとしました。必死に主イエスに向かって叫び求めるのを邪魔しようとしたのです。私たちの場合も、主に向かってまっすぐに祈り求めることを妨げるものがあるのではないでしょうか。私たちの場合、外からの妨害よりも、心の内からの妨害のほうが大きいかもしれません。「どうせ聞かれないのではないか」「祈っても無駄ではないか」という思いが妨げとなって、主に助けを求めることをやめてしまうのです。
 このとき、バルテマイは人々から妨げられても、主に叫び求めることをやめようとはしませんでした。彼はますます激しく叫び求めたのです。彼は、主イエスに頼るしか道はなかったのです。だからこそ、主の憐れみにすがるしかありませんでした。その熱心な信仰は、彼自身の中から生まれたものではありません。信仰とは、真実と訳される言葉です。キリストが真実なお方だからこそ、そこに信頼としての信仰が生まれます。主イエスに信頼して求め続けたとき、主は彼の求めに答えて、その目を開いてくださいました。
 私たちが信じ仰ぐお方は、私たちの救いのために十字架で命を捨ててくださった真実なお方です。だからこそ、このお方に信頼し、まっすぐに祈り求めることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 主による干ばつが続く中で、エリヤはザレパテに導かれました。そこで出会ったのは、かめに一握りの粉とびんに少しの油しかもたない、極貧のやもめでした。彼女は今まさに小さいパンを作って子どもと共に食べ、死ぬのを待つばかりでした。
エリヤは彼女に言いました。「さあ、神が働いてくださる。恐れてはならない。まず作ったパンを私のところに持って来なさい。その後であなた方のパンを作りなさい。主が再び雨を降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」。
そんなことをすれば、彼女たちの分は無くなってしまいます。しかし彼女は、「かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない」という主のお言葉を信じて、まずエリヤのためにパンを作りました。不安や疑いを抱えつつも、み言葉にしがみつくようにして、彼女は自らの人生を主にかけたのです。するとまさにみ言葉の通り、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えなかったのでした。
このように神を信じるとは、神の「言葉」を信じることです。そしてみ言葉に自分の問題を委ねていくこと、自分自身をみ言葉に託していくことです。するとみ言葉は生きて私たちのうちに働き、私たちの生活の現実の出来事となっていくのです。
十字架でご自分の命を投げ出すほどに私たちを愛しておられる主は、「天地は滅びても、わたしの言葉は滅びることはない。この私の言葉にかけて生きよ」と、私たちを温かく励ましておられます。私たちも愚直にみ言葉に信頼し、日々の歩みをみ言葉にかけて生きようではありませんか。み言葉が真実であることを味わう人生でありますように。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 十戒の第四の戒めでは、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と主は語られました。そして、神が定められた安息日にはすべての働きを休むようにと命じられています。すべてのわざを休むのは、ただ何もしないでじっとしているためでなく、神の御前に出るためです。安息日は、私たちの造り主である神の前に出る日、礼拝をささげる日です。それは神のもとに帰ってくる日と言えるでしょう。主が私たちに、「わたしのもとに帰って来なさい」と招いておられるのです。
 そこで問題となるのは、私たちにとって、神のふところが安息の場となっているか、ということです。神ご自身が、私たちにとって慰めや安らぎの存在となっているか。最初の人アダムがそうであったように、神の前に出ることが私たちにとって恐れになることがあります。罪のゆえに、自分は神の前に出ることなどできないと思ってしまうのです。神に裁かれるに違いないと思い、神の前に出る礼拝が、安息をもたらすよりも、苦痛とさえなってしまいます。
 しかし、もともと神の前に出る資格のある人など一人もいません。その資格のない者たちを招くために、御子イエスがこの世に降ってきてくださいました。あの十字架によって私たちをとりなし、神に近づくことができる者としてくださいました。このキリストの命をかけたとりなしのゆえに、私たちは神の前に安心して帰ってくることができるのです。
 主は毎週、「わたしのもとに来なさい」と私たちを招いておられます。こんな罪人をも受け入れてくださる神がおられるからこそ、安心して神のもとに帰ることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 74年前の今日、6月26日、全国のホーリネス系の教会に対する弾圧事件が起こり、教会は解散を命じられ、多くの牧師たちは検挙され、投獄され、獄中死した者たちも出ました。
 このダニエル書には、そのときと同じようなことが起こっています。金の像を造らせたバビロンのネブカデネザル王は、すべての国民に対してその像に向かってひれ伏すように強要しました。国民を掌握するのに宗教の力を利用したのです。
 ところがこのとき、ユダヤの地から捕囚民として来て王に仕えていたシャデラク、メシャク、アベデネゴの3人の若者たちは、王の命令に背き、金の像に向かってひれ伏すことをしませんでした。怒った王は3人を呼び寄せ、命令に従わない場合は燃える炉の中に投げ込むと脅し、偶像礼拝を強要しました。しかし、3人は王の圧力に屈することなく、断固として偶像礼拝を拒否しました。このため、王によって燃える炉の中に投げ込まれることになりました。
 「たといそうでなくても」と述べて、偶像礼拝を強要する王の命令を退けた3人の若者たちの言葉を前に、私たちは立ちすくむ思いです。自分の身に危険が及んだ場合、信仰を明確に告白することを躊躇する思いが生まれてしまう弱さを持っていることを自覚しているからです。
 主イエスが捕らえられたとき、やはり自らを守るために主を否定してしまったペテロに対して、復活された主は3度、「私を愛するか」と問い、「私に従って来なさい」と言われました。つまずき倒れてしまう者たちをなおも捨てない主がおられます。私たちは何度でも立ち上がり、主に従って行きたいと思います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 イスラエルで朝の挨拶を交わすとき、「ボーケル・トーブ」と言います。「トーブ」とは、「良い」という意味のヘブル語です。聖書でこの言葉が最初に出てくるのが、天地創造の物語です。神が天地を創造されたとき、造られたものを見て、その度に「良し(トーブ)」と言われました。六日目に人間を造られたときには、「非常に良い」と言われました。私たち人間は、お互いの間で優劣の評価を付けて生きています。しかし神は、「あなたはすばらしい」と言ってくださいます。神に造られた人間の祝福の原点がここにあります。
 その神は、信仰の父と呼ばれたアブラハムに対して、「あなたは祝福となる」と宣言されました。その神の指示に従ってアブラハム一族が移住してきた場所は、必ずしも祝福にあふれた所には見えませんでした。そのとき神はもう一度、祝福の約束を告げられました。それに対して、アブラハムは、「アーメン」と信仰をもって受け止めました。
 このアブラハムの祝福は、イエス・キリストを信じる者たちにも与えられると約束されました。そのために、御子イエスは十字架にかかってくださったのです。
 この神の祝福を信じる者たちは、神がなさることのすべてを肯定的に受け止めることができるようになります。私たち人間の世界では、失敗と思えるようなことが起こってきます。しかし、神は決して失敗をなさるお方ではありません。失敗と思えるような事柄をも、益に変えることができるのです。
 私たちは、「あなたは祝福となる」というこの神の約束を信じて生きる人生を歩んでいきたいものです。
(茅ヶ崎教会 中道善次牧師) イスラエルで朝の挨拶を交わすとき、「ボーケル・トーブ」と言います。「トーブ」とは、「良い」という意味のヘブル語です。聖書でこの言葉が最初に出てくるのが、天地創造の物語です。神が天地を創造されたとき、造られたものを見て、その度に「良し(トーブ)」と言われました。六日目に人間を造られたときには、「非常に良い」と言われました。私たち人間は、お互いの間で優劣の評価を付けて生きています。しかし神は、「あなたはすばらしい」と言ってくださいます。神に造られた人間の祝福の原点がここにあります。
 その神は、信仰の父と呼ばれたアブラハムに対して、「あなたは祝福となる」と宣言されました。その神の指示に従ってアブラハム一族が移住してきた場所は、必ずしも祝福にあふれた所には見えませんでした。そのとき神はもう一度、祝福の約束を告げられました。それに対して、アブラハムは、「アーメン」と信仰をもって受け止めました。
 このアブラハムの祝福は、イエス・キリストを信じる者たちにも与えられると約束されました。そのために、御子イエスは十字架にかかってくださったのです。
 この神の祝福を信じる者たちは、神がなさることのすべてを肯定的に受け止めることができるようになります。私たち人間の世界では、失敗と思えるようなことが起こってきます。しかし、神は決して失敗をなさるお方ではありません。失敗と思えるような事柄をも、益に変えることができるのです。
 私たちは、「あなたは祝福となる」というこの神の約束を信じて生きる人生を歩んでいきたいものです。
(茅ヶ崎教会 中道善次牧師)

 第四戒において、「安息日を覚えて、これを聖とせよ」と主は命じられました。「聖とする」とは、区別する、取り分ける、という意味です。もともと、人間とはかけ離れた存在である神の属性を表す言葉ですが、その神のために人や物などを区別することを聖別すると表現します。天地を創造されたとき、そのわざを休まれた第七日を神が聖別されたように、あなたがたもこの日を聖別しなさい、ということです。
 この戒めを理解する上で心に留めるべきことは、これはイスラエル社会全体に対する戒めであるという点です。家族全体、地域社会全体に「この日を聖別する」という共通理解があって初めて、個々人がこれを守ることが可能となります。
 その意味において、異教社会にある現代の日本の国において、私たちキリスト者が主の日を聖別することは、なかなか難しいものがあるでしょう。私たちの家族をはじめ、世の人々は十戒の教えとは異なる論理のもとで生きているからです。
 そこでなお、この戒めを守ろうとするとき、そこに信仰の戦いが必要です。この世は私たちに対して、主の日を聖別することを止めさせようとします。そのような中で、主の日を聖別することは、「イエスこそ私たちの主人です」という信仰を告白することを意味します。
 それができるのは、私たちが神に救われ、聖なる民とされているからです。主イエスが十字架で命をかけて私たちを買い取ってくださり、神のもの、聖なる民としてくださいました。その恵みに答えて、私たちは自らの存在をかけて、「あなたこそ私の主」と告白していくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)