25章から、出エジプト記の第三部、幕屋の建設の話に入ります。主はモーセに対して、神の住まいとしての聖所を建設するように命じました。民が主に向かって礼拝をささげるために、「ここに神がおられる」と確信をもって言える場所、聖所が必要でした。それは、旅の途中でも移動できるテント式のものでした。その建設のために、主は詳しい設計図をモーセに告げられました。
 この幕屋の建設は、民に対して無理やり強制するようにして建てさせるものではなく、あくまで自由なささげものによって造るようにと言われました。主の命令に対し、喜びをもって応答する人々から、ささげものを受け取るように言われました。
 しかし、この命令が与えられたのは、彼らが荒野の旅の途中にあるときでした。頑張って2週間も歩けば、約束の地カナンにたどり着くことができました。他の民族に囲まれ、水や食糧の乏しい荒野で時間を使うよりも、先にカナンの地まで行って、それからゆっくりと聖所を建設すればいい、と考えてもおかしくはありません。ところが主は、今ここで聖所を造るようにと命じられました。彼らは、主を礼拝するためにエジプトから救い出されたからです。神を礼拝することこそ、神の民イスラエルが真っ先になすべきことでした。それは、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」という第一の戒めにあるように、神を神として自分たちの中心にお迎えすることが求められたのです。
 今、私たちは同じように、主を中心にお迎えして礼拝をささげます。救い主イエスが、主を求める私たちの真ん中に来てくださるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ある人がぶどう園にいちじくの木を植えました。ところが、その木は実がなるべき時が来ても、3年続けて実を結びませんでした。主人は、場所ふさぎでしかないその木を切り倒すように、園丁に命じました。  これは主イエスが話された譬え話であって、キリストの福音を聞いても悔い改めの実を結ばないユダヤ人の姿、そして私たち一人一人の姿を表しています。私たちの場合、神の前にどのような実を結んでいるかよりも、神が自分たちに対してその要求に答えてくださらないことのほうが気になっているかもしれません。自分たちにとって、この神が役に立っていないように思えてしまうのです。そこに、転倒している罪人の姿が露わになります。  この譬えは、「あなたがたは悔い改めなければ滅びるぞ」と脅しをかけているのではありません。むしろ、このような神がおられるからこそ、あなたも悔い改めることができると告げるのです。主人がいちじくを切り倒すように命じたとき、園丁がまったをかけました。手を尽くしますので、もう一年待ってください、と。この園丁は、実を結ばないいちじくの木をどこまでも見捨てることはしないのです。  これこそ、私たちの主イエスの姿です。主イエスは私たちを神の前でとりなし、十字架において私たちに代わって切り捨てられたのです。神を捨てた者たちを捨てることなく、この私の十字架に免じて、彼らを赦してください、と祈ってくださいました。この救い主キリストがおられるからこそ、「あなたこそ、私たちの救い主」と向きを変え、神のもとに立ち帰ることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 この箇所は、神がイスラエルの民と契約を結ぶ場面です。モーセが民に契約の書を読み聞かせると、民は「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」と誓約しました。
 そこでモーセは次の日、契約の儀式に臨みました。築いた祭壇に雄牛をささげ、その血の半分を祭壇に注ぎ、残りの半分を鉢に取り、民に振り注ぎました。これは、契約の当事者である神と民の双方にいけにえの血を注ぐことを意味しました。
 この行為は、当時の契約の儀式を表していました。創世記15章でアブラハムが神と契約を結んだとき、動物を二つに切り裂き、向かい合わせに置いた間を神が通られることによって契約が結ばれました。もし契約を破るようなことがあれば、この動物のように自分の血が注がれても構わないという覚悟を表しました。
 このモーセの契約も、民が律法を破ることがあれば、契約が破棄されることを、動物の犠牲によって表すものでした。しかし、イスラエルの民は契約を破り続けたため、ついには神によって滅ぼされるに至りました。旧い契約は破棄されたのです。
 これに対して、神は御子イエスをこの世に送り、新しい契約を立ててくださいました。動物の血によるのではなく、御子イエスの十字架の血による永遠の契約です。しかも、私たちが罪を犯す前から、神が一方的に責任を負われた恵みの契約でした。相応しくない者たちと、新しい契約を結んでくださったのです。
 私たちに求められていることは、差し出された恵みに対する信仰です。「イエスこそ神の子救い主」と信じ続けることにより、この契約の中に生かされるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 主イエスが十字架で死なれた直後の様子を描いた「イーゼンハイムの祭壇画」と呼ばれる絵があります。そこに、主イエスが十字架の死を本当に苦しまれたのだということが大きな痛みをもって描かれています。そして、お読みしているこの聖句には、神の御子が父なる神に捨てられるという絶望的な苦しみが、深い嘆き、切なる叫びとして記されています。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。
 十字架にかけられて死ぬということは、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」(ガラ3:13)とあるように、罪の呪いを受けて死ぬということです。キリストは律法を完全に行われた方であり、神に捨てられることなどありえないお方でした。そのお方が、神の怒りをその身に受けて、三位一体の神の愛の交わりから断ちきられたのです。その深い苦しみのゆえに、「どうして?」と父なる神に向かって叫ばれました。
 この主イエスの叫びがあるからこそ、「神はあなたをお見捨てにならない」と言い切ることができるのです。私たちに代わって御子が捨てられたからこそ、もはや私たちは神に捨てられることはなくなりました。
 詩篇88篇は、最初から最後まで、詩人は神に向かって嘆いています。どこにも希望の光が見えません。私たちが自らの苦しみをこの詩に乗せるようにしてこれを口にすることができるのは、主イエスの十字架の叫びがあるからです。見捨てられたキリストがおられるからこそ、どんなことがあっても、私たちは神に捨てられることはありません。この大きな恵みのゆえに、私たちは悔い改めの生涯を歩むことができるのです。 
(坂戸キリスト教会 鄕家一二三牧師

 神の民の基準としての十戒が語られた後、具体的な掟が語られます。その初めに、同じユダヤ人が奴隷となった場合、どのように扱うべきかが記されています。貧しさのゆえに、自らを奴隷として売るケースがあったようです。そのような奴隷について、7年目には、無償で自由の身として去らせるようにと命じられます。人格を尊重した驚くべき掟です。
 ただ一つ、その去り方について規程が設けられています。それはその家にやってきたときと同じ状態で去るようにということです。独身で来た場合は独身で、妻と一緒に来た場合は妻と一緒に去るように。問題は、独身でやってきた奴隷に、主人が妻を与えた場合です。その場合は、妻と子どもを置いて、その家を去らなければならないと規程されています。妻は主人のものだからです。
 けれども、ここにも例外規程が設けられていて、もし本人が去ることを望まず、主人を愛し、主人のもとで仕えることを望む場合、妻子と共にその家に留まることができる、というのです。そのために、家の戸口へ行き、耳を錐で刺し通して穴を開けるということを行いました。生涯、主人に仕えるしるしとなりました。
 果たして、そのような奴隷が本当にいたでしょうか。それよりも、奴隷に愛される主人などいたでしょうか。聖書は、キリストこそ、そのような主人であると語ります。主は私たちの僕となってくださり、十字架において私たちの身代わりとなり、私たちを罪の奴隷から解放してくださいました。このキリストの愛に応えて、私たちは自らを主の僕としてささげます。喜びをもって、「イエスは主」と告白して生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 第十の戒めは、「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」と命じています。これは、他人のものを欲しがり、何としてでも手に入れようとする貪欲の罪を禁じたものです。 私たちの欲望というものは、一度追い求め始めると、限界というものがありません。手に入れたもので満足できず、もっと多くのもの、もっといいものが欲しくなります。それは、モノがなくて生活できないような貧困の問題ではなく、満たされていない心の問題です。満たされない心の空しさを、人はモノによって埋め合わせしようとします。お金を貪欲に求めた取税人ザアカイは、まさにそのような人でした。
 そのような物質によって心が支配されてしまっている姿は、イエス・キリストの父なる神ではなく、お金や財産、物質を神としてしまっている人間の姿です。「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)とパウロが言ったように、盗みやむさぼりの罪は、神ならぬものを神として生きる偶像礼拝の罪です。この最後の第十戒にきて、もう一度最初の第一戒に戻ります。「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」。物質を神のように慕い求めるのではなく、神を神として生きるように命じられています。
 それができるのは、私たちの神は、私たちに必要な全てのものを与えてくださる神だからです。そしてすでに、私たちのために最も価値のある御子キリストを与えてくださいました。キリストの絶大な価値が分かるとき、私たちはもはや、モノによって心を満たす必要はなくなります。「あなたこそ私の主」と告白して生きる人生へと変えられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 第九戒は、「あなたは隣人について、偽証してはならない」と教えています。直接には、裁判の席で偽りの証言をすることの禁止です。そのようなことが横行すれば、健全な社会を築けなくなるからです。
 その上で、この戒めは隣人に関して偽りを語ることを禁じています。それは単に嘘をつくことだけでなく、陰口や悪口を言って他人を貶めるような行為を禁じるものです。私たちは普段の生活において、非公式の裁判を繰り返し行い、他の人を断罪しています。
 そのように、他者のことを悪く言おうとする心、それを密かな喜びとしてしまう心こそ問題です。その心の奥には、他人を悪く言って引き下げることによって、自分を高くしようとする思いが潜んでいます。シーソーのように、他人を引き下げることにより、カタンと自分のほうが上がるという非常に不健全な心理がそこにあります。そのような罪を持つ私たちにとり、十戒で禁じられたぐらいでは止めることはできません。
 しかし、私たちはもはやそのようにして生きる必要がなくなった者たちです。神が御子キリストによって、私たちを高く引き上げてくださったからです。どん底に落とされても仕方のない者たちのために、キリストが最も低いところへと降ってくださり、私たちを高く引き上げ、「あなたは価値がある」と告げてくださいました。だからこそ、私たちはもはや他人を引き下げることによって自分を高める必要はなくなりました。
 私たちは神に救われた者として、他人を引き下げるのではなく、他の人の徳を高める言葉を語る歩みを続けていきたいと思います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 「あなたは盗んではならない」というこの第八戒は、人の持ち物を奪うという一般的な盗みの罪を指すと理解して間違いではありませんが、もともとの意味は、人を盗むということでした。人を盗んで自由を奪い、奴隷として売買することを禁じたものです。聖書の時代、そのようなことが行われていたからです。
 現代に生きる私たちの国では、このような戒めは当てはまらないと思ってしまうかもしれません。しかし、精神的に相手を奴隷とし、支配し、自分の都合のいいように動かそうとすることは私たちの周りでも行われているのではないでしょうか。神は、そのような生き方から自由になることを求めておられます。
 この戒めが直接語られているのは、エジプトで奴隷としての苦しみを味わっていたイスラエルの民です。彼らの先祖たちは、兄弟が兄弟を盗んで奴隷として売り渡すという大きな罪を犯しました。その子孫が後に、自ら奴隷の苦しみを味わうことになったのです。神はその奴隷状態から解放してくださり、彼らを神のものとしてくださいました。その大きな恵みを受けた者たちだからこそ、もはや他者を奴隷とするような生き方はするな!と命じられます。
 私たちは罪の奴隷から解放され、新しい主人である神のものとされました。その私たちは、神だけを主人として仕えて生きるとともに、他の人の主人となって隷属させることもしないのです。神のもとからその人を盗むことになるからです。
 贖われた者たちの集まりである教会は、お互いに尊び、他者を支配するのではなく、自ら進んで仕えて生きる、新しい歩みを始めるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ここでは、御霊と、水と、血とによる神のあかしが語られています。水は主イエスの洗礼を、血は主イエスが十字架で流された血を指し、神の御子が、私たち罪人の仲間になられたことをあかしします。それは、私たちに永遠の命を与えるためでした。神は、御子イエス・キリストを信じる私たちに、永遠のいのちを賜った、とあかししています。
 神のあかしは、私たち一人一人への愛の言葉です。愛の言葉は、受け入れるか拒むかの応答を求めます。しかし私たちは、永遠のいのちの価値よりも現実の問題の方が大きく思え、神のあかしを喜んで受けいれられないのです。そんな私たちに御霊は、主イエスが水と血とを通って私たちのところに来て下さったとあかしします。神の御子が、罪人が受ける洗礼を受けて下さり、私たちの罪を背負って十字架に血を流して下さいました。こうして、痛みや苦しみの多い私たちの生活の中に、失敗を繰り返す私たちの弱さの中に、罪を抱えた私たちの心の中にまで来て下さり、ご自分のいのちを私たちと分かち合って下さいました。
 永遠のいのちとは、主イエスご自身です。御子を信じる者は、永遠のいのちである主イエスを、私のものとして持っているのです。主イエスは、私の主、私の神、誰よりも親しい私の友です。永遠のいのちに生きるとは、死んだ後だけでなく、今ここで、主イエスとの親しいいのちの交わりに生きることです。私たちは一人ではありません。水と血とを通って私たちのところに来られた主が、私たちの痛みや弱さをご存知の主が、いのちの源である主が、いつも私たちと共にいて下さるのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)

 私たちが神に祈る祈りについて、14節には「神はそれを聞きいれて下さる」と言われています。文語訳では、「必ず聞き給う」と訳されています。神は私たちの祈りに必ず答えてくださるお方だというのです。
 そして、神に答えていただくための条件が二つあると聖書は語ります。一つは、「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」とあるように、神の御旨に叶った祈りをささげることです。それは、最も従順な子どものような態度をもって、神に祈り求めることです。従順な幼子は、神の御心に反することを求めるはずはないからです。
 もう一つの条件は、私たちが神を信じて祈ることです。「わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである」(15)。「かなえられた」という言葉は、「持つ」という意味です。神の御心に沿った祈りであるならば、それが実現する前から、すでに神からいただいたものとして、信頼することができるのです。主イエスご自身も、同じことをこう語っています。「あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)。私たちが祈ったことは、すべてもう受け取ったものと信じなさい、ということです。祈りは答えられると信じて祈るだけでなく、さらに一歩進んで、すでに叶えられたと信じるのです。
 そのような私たちの祈りに、主は必ず最善の時と方法をもって答えてくださるのです。
(山形ホーリネス教会 菊地新牧師) 私たちが神に祈る祈りについて、14節には「神はそれを聞きいれて下さる」と言われています。文語訳では、「必ず聞き給う」と訳されています。神は私たちの祈りに必ず答えてくださるお方だというのです。
 そして、神に答えていただくための条件が二つあると聖書は語ります。一つは、「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」とあるように、神の御旨に叶った祈りをささげることです。それは、最も従順な子どものような態度をもって、神に祈り求めることです。従順な幼子は、神の御心に反することを求めるはずはないからです。
 もう一つの条件は、私たちが神を信じて祈ることです。「わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである」(15)。「かなえられた」という言葉は、「持つ」という意味です。神の御心に沿った祈りであるならば、それが実現する前から、すでに神からいただいたものとして、信頼することができるのです。主イエスご自身も、同じことをこう語っています。「あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)。私たちが祈ったことは、すべてもう受け取ったものと信じなさい、ということです。祈りは答えられると信じて祈るだけでなく、さらに一歩進んで、すでに叶えられたと信じるのです。
 そのような私たちの祈りに、主は必ず最善の時と方法をもって答えてくださるのです。
(山形ホーリネス教会 菊地新牧師)