神による一方的な選びについて、パウロは「神の側に不正があるのか」との問いを提示します。これは「神はいない」と言うようなものです。
 パウロはすぐさまそれを否定し、神はご自分があわれもうとする者をあわれまれることを、出エジプト記の聖句を引用して説明します。モーセに率いられてエジプトを出てきたイスラエルの民が、荒野において神に背き、金の子牛像を礼拝するという大きな罪を犯しました。民の執り成しをしたモーセに対して、神は罪を犯したイスラエルの民をあわれんでくださることを約束されました。
 さらに、この神の自由な選びの計画は、神に敵対するエジプト王パロまで入れられていたことをパウロは語ります。神がご自分の力を現すために、パロをも立てたというのです。「だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである」と。事実、エジプト王パロは神によって心をかたくなにされたと聖書は記しています。
 使徒パウロはローマ教会の信徒たちにこれらを書き送りながら、神のあわれみを受けるに相応しい生活をしなさい、と勧めているのではなく、神があわれんでくださったことを思い起こすように促します。今、彼らが神を信じる者として生かされているのは、自分たちのわざによるのではなく、神の一方的なあわれみによるものでした。その神の自由なあわれみは、御子キリストを十字架につけるという出来事に現されました。
 私たちに求められていることは、すでに注がれている神のあわれみを感謝をもって受けるだけです。恵みを受け取ることが信仰なのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 「わたしの隣人とはだれか」という律法学者たちの質問に答えて、主イエスは「良きサマリヤ人」という名で知られる譬え話をされました。
 一人のユダヤ人の旅人がエルサレムからエリコへと向かう途中、強盗に襲われ、持ち物を奪われ、半殺しにあって路上に投げ出されました。そこを通りかかった祭司とレビ人はそれぞれ道の向こう側を通り過ぎて行きました。ところが、あるサマリヤ人は、倒れている旅人を見て憐れに思い、相手が敵対関係にあったユダヤ人であるにも関わらず、彼を助けてあげました。
 祭司やレビ人には、死にかけていた旅人を助けてあげられないそれなりの理由があったことでしょう。サマリヤ人はなおさら、敵対関係にあった民族ですから、むしろ助けないほうが当然と思われます。その彼がなぜユダヤ人の旅人を助けたのか、その理由はただ一つ、「彼を見て気の毒に思い」ということです。これははらわたが痛むほどの深い憐れみの心を意味します。その憐れみの心は、敵対関係を吹き飛ばしたのです。
 この「憐れに思う」という言葉は、新約聖書では福音書だけに出てくる言葉であり、しかも、人間に対しては使われることのない、神や主イエスの心だけを示す言葉として使われています。それゆえ、このサマリヤ人は誰よりも主イエスご自身を表していると言われます。主イエスこそ、罪のために倒れてしまっている私たちを深く憐れみ、私たちを救うために、天の王座を降り、人間の世界へと降って来てくださいました。そればかりか、ご自分の命をかけて罪の代価を支払ってくださったのです。
 主イエスの十字架の憐れみを受けた者として、私たちは他者のために生きる者へと変えられたのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 同胞イスラエルの民が救われて行かない現実を前に、パウロは「神の言葉は無効になってしまったのか」という問いを提出します。これに対して、神の約束の言葉が無効になったのではなく、ヤコブの子孫だからといって全てがイスラエルとなるのではないこと、肉の子がそのまま神の子ではないと語ります。これはユダヤ人からすれば決して認めることのできない驚くべき言葉です。
 そのことを、アブラハムの子を例にして語ります。神は、妻サラに子が生まれるという約束の言葉を信じられなかったアブラハムとサラに、イサクを与えてくださいました。彼らの不信仰にもかかわらず、約束の言葉を成就してくださったのです。
 さらにパウロは、イサクの子として生まれた双子の兄エサウと弟ヤコブの選びについて取り上げます。妻リベカが子を宿したとき、神は「兄は弟に仕えるであろう」と告げられました。まだ子が生まれる前ですから、人間のわざによるのではなく、ただ一方的に神がヤコブを選ばれたということです。人間的には、ヤコブは問題があるような人物です。ところが神は、そのヤコブをイサクの跡取りとして選ばれました。
 なぜ神はエサウではなく、ヤコブを選ばれたのか、その理由は「神がそのように選ばれた」としか説明できません。神がそのように計画されたということです。
 その神は、救いの計画の中心として、御子キリストを世に遣わし、十字架につけられました。私たちを救うために、驚くべき恵みのわざをなしてくださいました。そればかりか、私たち一人一人を救いの計画の中に入れてくださいました。私たちが救われたのは、神の一方的な選びの恵みによるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 罪を犯したために国が滅ぼされた絶望的な状況の中で、神がどのようなお方であるかを思い起こしたとき、そこに望みが生まれ、神を待ち望む心が与えられました。
 エレミヤは、神による救いのわざを待ち望む姿勢について、「主の救を静かに待ち望むことは、良いことである」と言い、さらに「主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい」と語ります。「静かに」「黙して」とあるのは、神が自分たちの罪を示されたとき、もはや言い訳をするのではなく、それをそのまま受け止めようとする態度です。自分の罪と真正面から向き合うことをエレミヤは勧めます。
 このときエレミヤは、「満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ」と語ります。「もうそれでよい」と言われるまで、神による罪の指摘をそのままで受け止めるようにとの勧めです。これは、私たちが罪を示されたとき、「満ち足りるまでにはずかしめを受ける」ということが出来ないからです。しばしば安易な悔い改めがなされます。自分の罪を十分に見つめることをしないままで、実に簡単に罪を悔い改め、「私は赦された」というところに立とうとします。
 そのように自分の罪を見つめることを避け、安易な悔い改めがなされるのは、心の底に大きな恐れがあるからでしょう。自分の真相を知らされることの恐れであり、神に捨てられることへの恐れです。自分の罪を見つめることができないとしたら、それは私たちが神の赦しを信じ切れていないからではないでしょうか。しかし、神の尽きざるいつくしみを信じるからこそ、私たちは安心して自らに絶望することができます。神を信じるからこそ、神の前に悔いくずおれることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 紀元前586年、南王国ユダがバビロニア帝国によって滅ぼされ、都エルサレムは破壊されて焼け野原になり、指導者たちは連行され、男たちは殺され、女たちは犯され、生き残った者たちも飢えのために死んでいく、そのような悲惨な光景を目の当たりにした預言者エレミヤは、涙を流しながらこの哀歌を作りました。
 この哀歌に、嘆きの歌の特徴の一つである「なぜ」という言葉が出てこないのは、哀しみの原因が民の罪にあることをエレミヤはよく知っていたからです。神の怒りを受けて滅ぼされたために、もはや絶望するしかありませんでした。
けれどもエレミヤは、「しかし」と述べて、絶望のただ中で希望を語ります。それまで目の前の悲惨な光景ばかりを見つめていたエレミヤが神ご自身に目を向けたとき、そこに一筋の希望が生まれました。エレミヤが思い起こしたことは、「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」ということでした。神が民と結んでくださった契約のゆえに、神はご自分の民を決して捨てることはないことを思い起こしたのです。
 この神のいつくしみとあわれみを支えるのは、神の真実です。「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。私たちの信仰は、この尽きることのない神の真実にかかっています。私たちの真実さが私たちを救うのではありません。私たちの望みは、神がどんなときにも真実を貫いてくださる、という点にあります。
 一年の歩みの中で、私たちは哀しみに沈み込むことがあるかもしれません。しかし、主のいつくしみ、その真実は尽きることがないゆえに、朝ごとに新しい命が与えられ、立ち上がることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 夢でヨセフに現れたみ使いが、生まれてくる救い主の名を「イエス」と名づけるように告げました。著者マタイは、救い主のもう一つの名として、イザヤ書の聖句を引用して紹介しました。「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」と。それは「神われらと共にいます」という意味を持つ名前でした。マタイがこの二つの名を並べて紹介したのは、神が私たちを救ってくださるということは、神がどんなときにも共におられる、ということだからです。
 神が私たちと共にいてくださる、という聖句を読むとき、自分はこの「われら」の中に含まれないのではないかと思ってしまいます。罪があるからです。マタイは、まさにそのような罪人と共におられる神として救い主が誕生されたことを伝えようとして、救い主イエスに至る系図を記します。アブラハムから始まるこの系図は、決して聖人の系図ではなく、悲しい罪人たちの系図です。そのような系図のただ中に救い主が来られた!とマタイは語ります。
誰かといつまでも共にいるということは、決して簡単なことではありません。まして、自分に害を与える人と共にいることは、自分が傷つくことを覚悟しなければなりません。神が罪人と共にいることを決意されたとき、それは十字架の死に至るまで共にいることを意味しました。たとえ自分が捨てられても、神は私たちを捨てることはないのです。
 たとえ私たちがどんなに罪に汚れていても、救い主は共にいてくださいます。主イエスは世を去る直前、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と語られました。どんなときも神が共におられるからこそ、私たちもこの神と共に生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 夢でヨセフに現れたみ使いが、生まれてくる救い主の名を「イエス」と名づけるように告げました。著者マタイは、救い主のもう一つの名として、イザヤ書の聖句を引用して紹介しました。「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」と。それは「神われらと共にいます」という意味を持つ名前でした。マタイがこの二つの名を並べて紹介したのは、神が私たちを救ってくださるということは、神がどんなときにも共におられる、ということだからです。
 神が私たちと共にいてくださる、という聖句を読むとき、自分はこの「われら」の中に含まれないのではないかと思ってしまいます。罪があるからです。マタイは、まさにそのような罪人と共におられる神として救い主が誕生されたことを伝えようとして、救い主イエスに至る系図を記します。アブラハムから始まるこの系図は、決して聖人の系図ではなく、悲しい罪人たちの系図です。そのような系図のただ中に救い主が来られた!とマタイは語ります。
誰かといつまでも共にいるということは、決して簡単なことではありません。まして、自分に害を与える人と共にいることは、自分が傷つくことを覚悟しなければなりません。神が罪人と共にいることを決意されたとき、それは十字架の死に至るまで共にいることを意味しました。たとえ自分が捨てられても、神は私たちを捨てることはないのです。
 たとえ私たちがどんなに罪に汚れていても、救い主は共にいてくださいます。主イエスは世を去る直前、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と語られました。どんなときも神が共におられるからこそ、私たちもこの神と共に生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ヨセフの婚約者であるマリヤが身重になったとき、ヨセフは悩み抜いた末、このことを公にしないまま、密かに離縁しようと決心しました。マリヤの妊娠が公になれば、姦淫の罪を犯したものとして律法では石打の刑に処せられることになっていたからです。マリヤの命をなんとか助けたいと思っていたヨセフは、自分が人々から責められるのを覚悟の上で、離縁する道を選び取りました。
 ところが、神の使いが夢の中でヨセフに現れ、マリヤを妻として迎えるべきこと、さらに、マリヤは聖霊によって身重になっており、男の子を生むこと、その子の名をイエスと名づけるべきことを告げました。それはマリヤがヨセフに話していたとおりでした。
 このとき、ヨセフがどのように応答したか、ヨセフの言葉は一つも記されていません。しかし、告げられたとおりにマリヤを妻に迎える、という態度をもって、主に対する信仰の告白をしました。子どもに名前を付けるという父親の特権も奪われながら、ヨセフは黙々と主に従いました。ある人は、「神に利用された人」とヨセフを称しました。
 確かに、他人から見れば、み使いの言葉を信じてそれに従うヨセフの姿は、愚か者のように思われることでしょう。しかし、ヨセフ以上に神に利用され、愚か者となられたのは、人となって生まれ、最後には十字架にかけられた御子イエスでした。
 このキリストの愚かさによって救われた者たちは、自ら愚か者となって、神に利用される人生へと歩み始めます。クリスマスの恵みが、私たちをそのような人生へと進ませてくださるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 アブラハムが人生の充実期を迎えていたある日、神は彼に「愛するひとり子イサクを燔祭として捧げよ」という厳しい試練をお与えになりました。それは、アブラハムの子孫を通して世界中が祝福されるという神の約束が破棄され、それを信じて歩んできた彼の人生が無に帰することを意味します。アブラハムは神が分からなくなってしまいました。
 しかし翌朝、アブラハムは神が示された山にイサクと共に黙々と登りました。そして激しい葛藤を通して、自分が今まで信じてきた神は真実であり、全能であり、愛のお方であることを再確認します。イサクをささげよと言われる神を理解できないにもかかわらず、このお方に確かな信頼を寄せるに至ったのです。全てを委ねたアブラハムは、燔祭の小羊がないことを不思議に思うイサクに答えました。「神が備えてくださる」。
三日目、いよいよアブラハムがイサクに手をかけようとしたとき、神は角を藪にひっかけた一匹の雄羊を与えてくださいました。アブラハムはそれを息子の代わりに燔祭としてささげることができました。
神ご自身こそが、一番大切なひとり子をさえ私たちのために惜しまずに死に渡してくださいました。このお方は私たちの先を見ていてくださり、み子と共に全てのものを私たちのために備え、与えてくださるのです。「主の山に備えあり」。先の見えない試練であればあるほど、何かの形で神の備えがそこにあることを私たちは信じて歩んでいくのです。

(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 9章に入り、パウロは偽らざる思いを語ります。それは大きな悲しみであり、絶えざる心の痛みであると言います。それは、自分の肉親や同胞のユダヤ人がキリストを信じようとしないことです。パウロは異邦人に対して熱心に伝道しながらも、同胞ユダヤ人が福音を拒み続けていることに痛みを覚えていました。
 それがなぜそれほど大きな悲しみであるかというと、キリストを拒み続けるならば、「彼らの最後は滅びである」(ピリピ3:19)ということをよく知っていたからです。この事実は、私たちにとっては考えたくないことであるため、その霊的な現実を見つめることをいつも避けてやり過ごしてしまいます。けれどもパウロは、逃げることなくその悲しい現実を見つめ、深く悲しんでいました。
 その肉親や同胞の救いに対する熱情がほとばしり出て、驚くべき言葉を口にしました。「実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」(3)。「のろわれて」という言葉は、「アナテマ」というギリシャ語の言葉で、教会から除名や破門をするときに使われる激しい言葉です。パウロは、肉親や同胞が救われるなら、私が代わりに神に呪われ、捨てられても構わない、と言ったのです。直前の8章の終わりで、「神の愛から引き離されることは決してない」と福音の確かさを高らかに宣言したパウロが、同胞のためなら、その神から引き離されてもいい、と言ったのです。
 パウロが誰かの身代わりにはなれませんが、御子キリストは私たちの代わりに呪われた者となるため、この世に降り、十字架にかかってくださいました。この大きな恵みのゆえに、クリスマスを喜び祝うのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)