神の養子とされたキリスト者は、御子キリストと共に「共同の相続人」とされました。それにより、キリストの栄光を共にするだけでなく、苦しみをも共にする者となりました。キリスト者であるために受ける苦しみとともに、人として避けることのできない苦しみがあります。
 その苦しみについて、パウロはここで、「やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」と言いました。苦しみなど知らないパウロではありません。彼は誰よりも多くの苦しみを経験してきた人でした。そのため、苦しみがどれほど人間から望みを奪い去ってしまう力を持っているかをよく知っていました。
 苦しみに耐える人々の姿を「うめく」と表現します。言葉で表現できない複雑な気持ちを心の中に抱えているとき、人はうめくことしかできません。それは人間だけでなく、被造物全体がうめきつつ、世の終わりにおける救いの完成を待ち望んでいるというのです。
 パウロは、世の終わりに与えられる救いの恵みの豊かさをまっすぐに見つめていた人でした。今は覆いがかかって見ることができない神の国の世界について、まだ存在していないのではなく、幕が降りている舞台の向こう側で準備が整えられているように、神の側では私たちに豊かな救いの恵みを与えようと、すでに用意していてくださいます。
 その栄光ある世界を信仰をもって見つめたとき、「今のこの苦しみは取るに足りない」とパウロは言い切ったのです。信仰をもって神の世界を見つめるところに、今を耐え忍んで生きる力が与えられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 神の霊に導かれて生きる者たちは神の子であるとパウロは語ります。洗礼によって受けた霊は、「恐れをいだかせる奴隷の霊」ではなく、「子たる身分を授ける霊」だと言います。
 このように語るのは、神の子とされたはずのキリスト者が、主人を恐れる奴隷のような心で生きてしまうことがあるからでしょう。アダムが罪を犯したとき、神を恐れて木の陰に身を隠したように、罪を持った人間は、断罪されるのではないかと神を恐れてしまうのです。
 そのような私たちに、「あなたがたはもはや奴隷ではなく、神の子とされたのだ」と語ります。裁かれるのではないかと神を怖がって生きる必要はなくなりました。「子たる身分を授ける霊」によって、天の神を「アバ、父よ」と呼ぶことができるようになりました。「アバ」とは、主イエスが使っておられたアラム語で父親を意味する幼児語です。「パパ」と親しく呼びかけるときの言葉です。幼子が父親の懐に飛び込むようにして、愛と信頼を込めて、「お父さん」と呼びかけるのです。
 主イエスがこの言葉を実際に口にされたのは、十字架を前にしたゲツセマネの祈りのときです。死の苦しみの中で、「アバ、父よ」と叫び声を上げられました。その主イエスが、私たちに同じように神を呼ぶように勧めておられます。
 私たちの中には、「父よ」と神を呼ぶことを躊躇する思いがあるかもしれません。そのような私たちが心から「父よ」と神を呼ぶことができるのは、神と罪人との間にある深い溝を乗り越えるようにして、神が人となってこの世に来てくださり、十字架で命をかけてくださったからです。この神の大きな愛に応えて、「父よ」と呼ぶ者にされるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 この書を書いている伝道者の周りにいる老いた者たちの中に、「わたしにはなんの楽しみ(喜び)もない」と嘆く人たちがいたようです。年とともに、それまで楽しみとしていたものが一つずつ奪われて行ったからでしょう。伝道者は2節から6節にかけて、人が年とともに衰えていく様子を描写し、ついにはちりに帰る現実を語ります。
 そのように衰えていく老人たちが「なんの楽しみもない」と嘆く姿を見つめながら、伝道者は「空の空、いっさいは空である」と語ります。これは、この書の最初から著者が語ってきたことでした。「空」という字は、「のみなどであけられた穴」という意味です。人の心には大きな穴があいてしまっていて、心がそれを感じ取るとき、空しさとなって意識されます。これは、なにも老人だけでなく、若者たちにも共通する問題です。ただ、若者たちは、その空しさを忘れさせてくれる様々な楽しみがあるため、心の空洞を意識しないで済んでいるだけです。けれどもその重要な問題が問題化するときが来ます。老年となって、この世の楽しみが奪われてしまうときです。もはや、心の穴を埋めることができなくなるのです。
 だからこそ、伝道者はすべての人に対して、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と勧めます。私たちが空しさから解放されるのは、私たちの本当の価値を知っておられる造り主なる神を知ることによってです。私たちの心にあいている穴は、神を受け入れるための場所です。神を心の王座に主人として迎え入れるとき、老いてなお喜びに生きる人生がそこから始まるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 パウロは、人は肉によって生きるか、霊によって生きるか、そのどちらかであると語ります。肉とは、罪に支配され、自分の思いのままに生きようとする生き方を指します。霊とは、ここでは神の霊、キリストの霊としての聖霊を指します。神の霊によって新しい命が注がれ、人は健やかに生きることができます。
 果たして自分はどちらだろうか、と思う私たちに、パウロは「神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである」と告げます。この「神の御霊が内に住む」ということが、「キリストが内におられる」と言い換えられています。聖霊が私たちの内に住んでくださることによって、キリストが私たちの内に住んでくださる、という驚くべき恵みが起こる、というのです。
 ここで9節から11節にかけて、「もし」という言葉が繰り返されていますが、ローマのキリスト者たちに対して、「あなたがたはどっちだ」と問いかけているのではありません。なぜなら、キリストと結びつく洗礼を受けた者たちは、すでに聖霊を受けた者たちだからです。すべてのキリスト者は、洗礼によって神の霊、聖霊を受けた者たちです。神の霊が内に住んでおられないキリスト者などいないのです。
 これは、私たちがそのように感じるか、感じないかではなく、「我は聖霊を信ず」と使徒信条で告白するように、信じるべき事柄です。私たちの内に住んでおられる聖霊の確かな導きによって、私たちは「イエスは主」と告白し、神に向かって「アバ、父よ」と呼ぶことができる恵みが与えられているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

8章の初めで、「こういうわけで」と述べて、パウロはこれまでの話を要約して語ります。「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない」と。他の訳では「決してありません」と訳されています。完全なる救いの宣言であり、大きな喜びの知らせが語られています。
 これに対して、私たちは自分で除外規定を設け、「自分は当てはまらないのではないか」と考えてしまいます。しかし、聖書が語る唯一の制限は、「キリスト・イエスにある者は」ということです。これは、キリストを信じて洗礼を受け、キリストと一つにされた者、という意味です。そのようにキリストと結ばれた者がなぜ罪に定められることがないのか。2節でその理由として、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである」と言います。
 ここで重要なのは、キリスト・イエスにある者はもはや罪を犯さない、と言っているのではありません。私たちを罪に定める律法から解放されたゆえに、もはや神によって断罪されない、と言うのです。キリストが私たちに代わって十字架に死に、罪に定められたゆえに、キリストと結ばれた私たちは、もはや罪に定められることはないのです。私たちの傍らには、律法という断罪人が立っているのではありません。キリストという弁護者が立っておられます。
 律法から解放された者たちは、たとえ罪を犯しても罪に定められることはありません。けれどもその行為は、神の愛を裏切り、神を悲しませることになります。私たちを決して捨てることのない、キリストの十字架の愛を知った者たちは、神の愛に応えて、神を愛して生きるようにと招かれているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 律法からの解放を説くパウロですが、律法そのものが悪であると言うのではありません。律法を否定しているのではなく、律法を行うことによって義と認めてもらおうとする、律法主義を退けています。
 パウロは、かつてはパリサイ人として、「律法の義については落ち度のない者」(ピリピ3:6)であったと告白しています。そのパウロが、自分が願う正しい生き方ができず、願ってない悪を行ってしまう、という罪の苦しみを告白します。そして、「それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」と言います。罪が外から侵入してきて、そのまま住みついてしまっているというのです。決して自分の責任を逃れようとしてこう語っているのではありません。否定しがたいほどの、徹底した罪人であることを認めているのです。
 そこで、全面降伏するかのように、「わたしは、なんとみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と叫びます。「だれが」とは、自分の中に救いの可能性がないことを認め、外に救いを求めた言葉です。「だれか、私を救って欲しい」という救いへの叫びでもあります。
 パウロはそのどん底から神に目を注ぎ、「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな」と述べます。こんな私をも救ってくださるキリストがおられる、と。キリストが私のために十字架にかかってくださった、と信じるところから、神への感謝が生まれたのです。
 私たちは自分で自分を救おうとすることをやめ、キリストの恵みを素直に受け取る信仰へと招かれています。神への感謝は、キリストを信じる者の生きる姿なのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 主イエスは「山上の説教」の最初に、「こころの貧しい人たちは、さいわいである」と語りました。ここで、「こころ」と訳されている言葉は「霊」とも訳される言葉です。人間にとっての霊は、神と人格的な交わりを持つ大切な場所です。また、「貧しい」とは、物乞いをしなければ、自力では生きていけないほどの徹底した貧しさを意味します。「こころの貧しい人」とは、神との関わりにおいて徹底的に貧しい人、神の憐れみを頂かなければ自分の力では生きていけない者のことです。
 本来私たちは、そのような存在のはずです。今を生かされているのは、神の憐れみによるものですし、神との交わりがなければ、私たちの霊は枯れるように命を失います。ところが、私たちにはその自覚がないために、神抜きで自分の力だけで生きようとして、神との交わりを自ら断ち切ってしまうのです。
 こころが貧しいにもかかわらず、神をなきものにしようとする私たちに、主イエスは「天国は彼らのものである」と語りました。天国は、神が愛と恵みをもって支配される場所です。主イエスは、私たちに天国を与えるため、神の栄光を捨て、人となって私たちの所まで来て下さいました。十字架に命を捨てるほどに貧しくなって、私たちの罪を贖って下さいました。主イエスを信じ、洗礼を受けた者の内には、聖霊が住んで下さいます。聖霊によって、主イエスが、どんな時も私たちと共にいて下さるのです。このお方を、「私の主、私の神」と仰ぐ時、私たちの心の内が天国になります。主イエスが、私の神として、愛と恵みをもって支配する場所になるのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)

 パウロは「わたし」という主語を用いて、人間の罪の最も深刻な現実を語ります。本来は善である律法を行いたいと願いながらも、それを行うことができず、反対に、自分が本当はしたくないこと、憎んでいることを行ってしまう、そのような自分であることを告白します。パウロの中で、完全な自己矛盾が起こっているのです。そのため、「わたしは自分のしていることが、わからない」と嘆きます。したいと思うことができず、したくないことを行ってしまう、そのように罪によって打ちのめされている現実があるからです。
 この自己矛盾は、私たちの内にもあるものではないでしょうか。このような自己矛盾を抱えたままでは、人は健やかに生きていくことができません。なぜなら、その心の底には、「こんな自分ではありたくない」「こんな自分ではダメだ」という強烈な自己否定の心があるからです。このような思いは自分という存在を内側から破壊してしまいます。罪の問題をそのままにしては、人は健やかに生きることはできないのです。
 パウロは自分の中に潜む闇を見つめたとき、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と叫びました。自分の中には救いがないことを認めた上で、「だれか、この私を救って欲しい」と叫んだのです。自分に絶望した者による、救いをひたすら求める真実な叫びです。
 私たちも、パウロの言葉に自らを重ねるようにして、主に向かってこれを叫ぶことができます。救いの神が聴いていてくださるからこそ、まっすぐに罪を告白できるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 救いの恵みを“律法からの解放”という側面から語ったパウロは、当然出るであろう「律法は罪なのか」という問いに対して、「断じてそうではない」と答えつつ、律法が果たした役割について語ります。
パウロは、「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう」と言います。十戒の第十の戒めにある「むさぼり」の罪についても、「むさぼるな」と律法によって教えてもらわなければ、自分がむさぼりの罪を犯していることに気づかなかったというのです。
 さらに、律法が罪によって悪用される様子を伝えます。「罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起こさせた」。神が与えられた律法が、罪が活動するための基地になってしまい、あるいは跳躍板のように利用されて、あらゆる罪が一気に吹き出したというのです。そのとき、それまで死んでいた罪が生き返り、自分自身が死んでしまったと告白します。
 パウロはこれらのことを他人事としてではなく、自らの経験として語ります。しかも、律法の働きを悪しきものとして語っているのではありません。むしろ、律法によって初めて自分が滅びるべき罪人であることが明確になったというのです。私たちは自分のモノサシを用いていては罪は分かりません。神の基準に照らして初めて、罪が分かるものです。
 このとき、パウロのように叫ばざるを得ない者であると知らされます。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」。これは決して絶望に終わるものではありません。キリストを与えてくださった神が、救いへの叫びを聞いておられるからです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 罪と死の支配のもとに生きる罪人の現実について、パウロはさらに律法による支配について語ります。救いとは、律法による支配からの解放でもあるからです。その律法の支配が及ぶのは、人が生きている期間だけであることを結婚にたとえて説明します。結婚に関する律法は、夫が生きているときだけ妻を支配しますが、夫が死ぬと、その律法からは解放されます。
 それと同じように、私たちはキリストをとおして、律法に対して死んだのだとパウロは語ります。キリストは私たちのために十字架にかかり、罪の支払う報酬としての死をその身に引き受けてくださいました。そして、私たちはキリストと一つに結ばれる洗礼によって、キリストと共に死に、律法に対しても死にました。私たちはもう律法の支配のもとに生きる必要はなくなったのです。
 パウロがこのことを熱く語るのは、すでに救われたキリスト者が、依然として律法の支配のもとに生きていることがあるからです。私たちを生かすために語られた神の言葉が変質し、私たちを縛り、苦しめるものとなってしまうからです。そのような私たちに、パウロは「あなたがたはすでに律法の支配から解放されたのだ」と喜びの知らせを語ります。
 私たちはもはや、律法という古い文字によって生きる者たちではありません。神の言葉がそれを語られた生ける神から切り離されるとき、命を失った単なる文字となってしまいます。けれども私たちは、文字に支配されて生きるのでなく、神の霊によって命が与えられる者たちです。キリストを与えてくださった神の愛を受けて私たちは生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)