聖霊の賜物について、コリント教会で大きな混乱が起こっていました。聖霊を受けたと自称する人々が、異言を話したりなどの特異な現象をもって、それを聖霊を受けたしるしと言い張り、自ら誇っていたのです。
 これに対して、パウロはコリント教会の混乱を鎮めるために、聖霊の賜物とはどのようなものなのかを語ります。パウロはまず、彼らが異教徒だったとき、悪しき霊に誘われるままに、興奮・熱狂して自らを失い、恥ずべき行為を行っていたことを思い起こさせます。しかし、聖霊に満たされるということは、決して熱狂することではなく、自らを失ってしまうことでもありません。
 聖霊なる神のわざの中心は、人々が自らの意思をもって「イエスは主である」と告白するようになることです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」とあるように、聖霊なる神の助けを受けて初めて、人は「イエスは主」と告白することができるようになるのです。
聖霊が地上にお降りになったペンテコステの日、目を見張る様々な現象が起きましたが、その中心は、「イエスは主」と告白する教会がそこに生まれたということです。主イエスご自身、ペテロが信仰を告白したとき、「あなたのその信仰告白を土台として私の教会を建てよう」と言われました。「イエスは主」という信仰こそ、教会の土台であり、その告白は聖霊の助けによるのです。
 私たちは常に、イエスではなく、自らを主人として生きようとする者たちです。聖霊の助けがなければ、「イエスは主」と告白して生きることはできません。だからこそ、私たちは日ごとに聖霊の助けを慕い求めようではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 この詩篇16篇には、「前」と「右」という言葉が2回ずつ出てきます。詩人ダビデは敵に命を狙われる危機にあって、主に向かって「私の避け所となってください」と叫び求めました。それは、主なる神以外のものを頼みとしても、そこには本当の幸いはないことを知っていたからです。そのとき、詩人は他の人を見る目が変わっていきました。かつては権力のある人、財を持つ人を羨んでいましたが、今は、神を畏れる人を尊敬するようになったのです。
 そのようなダビデは、「主はわたしの嗣業」(5)と告白します。イスラエルの12部族には、神からそれぞれの土地が割り当てられました。しかし、祭司としての部族であるレビ族だけは土地が与えられませんでした。神に仕えるレビ族にとって、主ご自身が嗣業である、とされたのです。ダビデは同じように、主こそ私の嗣業、と言いました。これほどの幸いはない、と言うのです。
 主に幸いを見いだした詩人は、「わたしは常に主をわたしの前に置く」と言いました。どんなときも神を意識し、神の御前で生きようとする姿勢を表します。その神は、「わたしの右にいます」と言います。神がご自身の力ある右の手で私を守っていてくださる、という信頼の表明です。だからこそ、「わたしは動かされることはない」と言い切ることができました。人生において困難がないというわけではありません。しかし、常に主の御前に生きるとき、主が私の右の手を握り、私を守り支えてくださる、と信じ抜いたのです。
 私たちもダビデのように、日々の生活において主を意識し、主の御前に生きようではありませんか。
(静まりのセミナー講師 太田和功一師)

 イスラエルが福音につまずき、神に捨てられたように見えたものの、それによって異邦人に救いが及んだことをパウロは見いだしました。イスラエルの罪が、異邦人の祝福につながっていたというのです。それだけでなく、異邦人が救われることによって、イスラエルがそれを妬み、信仰へと奮起させられるという神の不思議な計画をそこに見たのです。
 そのように、イスラエルが神に完全に捨て去られてしまったわけでなく、回復の望みがあることを植物の例えを用いてパウロは説明します。異邦人が救われたということは、イスラエルの民が折り取られた場所に接ぎ木されたようなものだというのです。神が台木であるイスラエルの父祖を祝福し、聖なるものとしておられるゆえに、異邦人はその祝福に与っているに過ぎないのです。ですから、彼らは何一つ誇ることはできません。もし神が台木であるイスラエルを惜しむことをされなかったなら、異邦人が救われることなど起こらなかったからです。
 パウロは、「神の慈しみと厳しさを見よ」と述べます。神の厳しさは罪を犯したイスラエルに向けられ、神の慈しみは異邦人の救いに表されています。けれども神は、なおもイスラエルの民を惜しんでおられ、救おうと願っておられます。それは神が「御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかた」だからです。私たちの神は、罪人を滅ぼし去ることを惜しみ、代わりに御子を十字架につけたお方です。キリストの十字架に、神の慈しみと厳しさが現されています。この神の慈しみを知った者たちは、神のもとへと帰る者とされるのです。

 異邦人が救われ、選ばれた神の民が救われない現実を前に、「神はその民を捨てたのであろうか」とパウロは問います。それに対して、「断じてそうではない」と自ら否定します。その理由として、イスラエルの中イスラエルとも言うべき自分が救われたということは、神がイスラエルの民を捨ててはおられないことのしるしだ、と言うのです。
 さらに、旧約の預言者エリヤのことを引き合いに出します。アハブ王がバアルの神を礼拝し、国全体が偶像礼拝に傾く中で、エリヤはそれを必死に食い止めようと、バアルの神との対決をしました。大勝利を収めた後、アハブの妻イゼベルの「エリヤの命を奪え」という命令を耳にして、エリヤは恐れをなし、荒野を彷徨い歩きます。心神耗弱の状態に陥っていたエリヤに対して、「あなたはここで何をしているのか」という神の声がかかります。エリヤは、自分がどれほど孤独に耐えながら一人で頑張ってきたのか、それにも関わらず、今命が奪われようとしている、そのことを訴えました。それに対して、「バアルにひざをかがめなかった七千人を、わたしのために残しておいた」と主は語られました。自分だけが残されたと思っていたエリヤに、「あなた以外にも、多くの民が残されている」と言われたのです。
 パウロはこのことを語りながら、今も神は恵みによって選ばれた者たちを残しておられる、と言います。それは神がその民を見捨ててはおられないことの証拠だというのです。
 この国に生きる私たちも、「自分ひとり」と孤独を感じることがありますが、神は「ほかにも多くの者がいる」と言われます。他の方々の救いのために、私たちをそれぞれの場においていてくださるのです。

 福音を告げる者たちの足の美しさを語ったパウロは、「しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない」と、同胞ユダヤ人が救われない現実を語ります。それはパウロにとって大きな悲しみでした。異邦人が救われて行く一方、神の民イスラエルが福音を拒んでいるのです。
 何が問題なのか、パウロは「信仰は聞くことによるのであり」と述べます。福音が語られているにも関わらず、彼らは聞こうとしないのです。キリストについて語る言葉を神の語りかけとして、神の言葉として聞こうとしなかったのです。私たちの信仰は、聖書を神の言葉として聞く、という一点にかかっています。神の言葉である聖書が語っているからこそ、私たちはそれを信じるのです。
 イスラエルの民は、聞こえなかったと言い訳をします。しかしパウロは、聖書を引用しつつ、神の言葉は世界中に伝えられたと反論します。また、自分たちに分かるようには伝えられなかったという弁明に対しても、律法を知らなかった異邦人でさえ、福音を聞いて信じたという事実を取り上げ、聞いても信じようとしなかっただけだと言います。
 すると、イスラエルの民には救いの望みなど全くないように思いますが、神はその民に対して、「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」というのです。神は、選ばれた民を決して見捨てることなく、どこまでも救いの御手を差し伸べていてくださいます。放蕩息子の父親が、息子の帰りを待ち続けたように、神は背く者たちの立ち帰りを待っておられます。このような神だからこそ、私たちは帰って行くことができるのです。

 主イエスが十字架にかかる直前に、ペテロは主を決定的に裏切ってしまいました。しかし復活の主イエスは、自分の罪深さや弱さを素直に認めるペテロに近づいてくださり、「あなたは私を愛していますか。私はあなたを愛している」と温かく声をかけられました。ペテロは迫るような主の愛と赦しの中に大胆に飛び込んでいき、すべてをご存じの主に、自分の弱さも挫折も罪深さも丸ごと委ねました。主はこのペテロを、「わたしについて来なさい」と、弟子として再び招いてくださいました。
 ペテロは今回の挫折によって、主イエスの本当の愛が分かりました。するとペテロにとって生涯消えることのなかった心の傷が逆にペテロを生かし、信仰を深め、初代教会のリーダーとして人々を励ます存在へと、ペテロを作りかえていきました。私たちの挫折や苦しみの経験は、主の愛の御手の中で恵みに変えられていくのです。
 「わたしについて来なさい」と招いてくださる主と共に人生の旅をしていく中で、私たちは傷や苦しみの経験ゆえに、主の恵みを深く味わう人生へと導かれていきます。その挫折ゆえに主に用いられていく人生へと、私たちは変えられていくのです。
 多くの人生の傷を持ち、信仰の迷いや挫折を経験する私たちに、「わたしについて来なさい」と、主イエスは十字架の釘後の残る御手を差し伸べておられます。自信のないままでいいのです。「主よ、あなたは私の全てをご存じです。私はあなたを愛します」と言って、私たちはこのお方についていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 ガリラヤのカナで結婚式が行われたとき、主イエスもそこに招かれていました。当時の結婚式は自宅を開放し、地域の人々が出入り自由で、一週間ほど婚宴が続きました。このとき、途中でぶどう酒が尽きてしまいました。祝宴には絶対に必要なぶどう酒がなくなるという、大きな危機が新婚の二人を襲いました。
 すると、接待役をしていたマリヤが主イエスのもとへ来て、ぶどう酒がなくなったことを知らせました。母マリヤの要請に、主イエスは「わたしの時は、まだ来ていません」と答え、すぐには応じられませんでした。マリヤは、僕たちに向かって、主イエスが命じることは何でもそのとおりにするように伝えました。
 しばらくして、主イエスが厨房にやってきて、「瓶に水を一杯に入れなさい」と命じました。僕たちが言われたとおりにすると、今度は「この水を汲んで料理長のところへ持って行きなさい」と言いました。僕たちは命じられるままに水を持って行くと、その水はぶどう酒に変わっていました。料理長は舞台裏の出来事を知らず、あまりの美味しさに驚き、新婚の二人を褒めました。しかし、水を汲んだ僕たちは知っていました。主イエスが水をぶどう酒に変える奇跡を行われたことを。客人だった主イエスが彼らの主人となったとき、味気ない水が喜びのぶどう酒に変わる出来事が起こったのです。
 今も、主イエスはこの恵みのわざを行ってくださいます。その罪のために、家庭に大きな危機が訪れることがあります。神は、主イエスの十字架の恵みにより、罪人を神の子に造り変える奇跡を行ってくださいます。主イエスを家庭の中心に主人として迎え入れるとき、そこに喜びの人生が始まるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 主イエスが甦られた日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れ、鍵を閉めた一つの家に集まっていました。女性の弟子たちから、主イエスが確かに甦られたことを聞かされていながら、それを信じることができず、恐れに囚われてしまっていたのです。
 そういう弟子たちのもとへ、主イエスは無理やり押し入るように入って来られ、「安かれ」と声をかけられました。「平和があなたがたにあるように」という意味の「シャローム」という言葉です。平安を失っていた弟子たちに平安をもたらすために、「平和の君」である主イエスが彼らの真ん中に立たれたのです。
 そして、彼らに手の釘痕、脇腹の傷痕をお見せになりました。そこにおられるのが確かに十字架にかけられた主イエスであることを示されたのです。同時に、「その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53:5)とあるように、主の十字架により、罪が赦され、神との平和が与えられたことをはっきりと示されたのです。そのとき、彼らに大きな喜びが与えられました。
 その一週間後、弟子たちは再び鍵を閉めて家の中に閉じこもっていました。復活を信じられないトマスに逆に説得されるようにして、他の弟子たちも恐れに囚われていたのでしょう。しかし主は、その弟子たちのところにもう一度現れ、「平安があるように」と告げられました。不信仰と恐れの中にある者たちを、主イエスは何度でも訪ねてくださったのです。その主イエスを前にして、「わが主よ、わが神よ」と弟子たちはひれ伏しました。これこそ、毎週の礼拝で起こることです。不信仰な者がひれ伏す者へと変えられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 「苦難のしもべ」と呼ばれるこの歌は、イエス・キリストを預言したものとして受け止められてきました。重い病を負った彼は、見る影もないほどにやつれ、人々からは忌み嫌われ、嘲られました。人々は彼のことを、罪の報いとして神の裁きを受けているのだとみなしました。
 ところが、「そうではなかった」と著者は語ります。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」と。彼が負っていた病と悲しみは、自分の罪によるものではなく、本来私たちが負うべきものを代わりに負っていたというのです。「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ」。繰り返し出てくる「われわれ」とは、神に反抗し、自分勝手な道を突き進む迷子の羊としてのわれわれです。
 神は、そのような私たちの罪をこのしもべに負わせられました。イスラエルで罪の償いをするとき、羊や山羊が犠牲となり、民の罪を負わせられたように、神はこのしもべに罪を負わせることにより、私たち人間の罪を赦し、平安を与えられました。
 ここに表されている苦難のしもべの姿は、私たちのために十字架にかかられた主イエスの姿そのものです。主イエスは私たちのために、人々から嘲られ、ムチで打たれ、十字架にかけられました。その主イエスの十字架の犠牲により、私たちに罪の赦しとしての神との和解が与えられ、平安が与えられました。
 このキリストの十字架のゆえに、私たちはもはや、神に裁かれることはありません。この恵みに応答して、私たちは心から「あなたこそ私の主」と告白し、ひれ伏すのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 「人をさばく」とは、人を見下げて批判・非難する態度のことです。私たちは日常的に、このように人をさばきながら生きています。ここで主イエスは、「人をさばくあなたの目には梁がある」と語っています。

 人間のさばきは、不公正で、不正確です。人を正しくさばくことができるのは神だけです。それなのに、私たちは簡単に人をさばきます。さばくことに喜びさえも感じます。誰もが、人よりも一段高いところに立って、人を傷つけて喜ぶ悪魔的な心を抱えているからです。その根底には、さばかれることへの不安と恐れがあり、「人をさばいていれば、自分はさばかれない」という歪んだ安心感があるからなのでしょう。

 しかし、人が人をさばくということは、神の座につくことであり、自分を神とすることです。これは聖書が語る罪です。主イエスが語った梁の正体は、私たちの内に宿る罪でした。主イエスは「まず自分の目から梁を取りのけるがよい」と語ります。しかし罪は、私たちと一つとなるほどに、深く私たちに根付いています。私たちは、自分の力で目から梁を取りのけることはできません。

 しかし主イエスは、私たちの身代わりとなって、罪人の不当なさばきを受け、父なる神から見捨てられるという究極のさばきをも受けて下さいました。本来、私たちが受けるべきさばきを全て引き受け、私たちの目から梁を取りのけて下さったのです。ここに、主イエスの愛がはっきりと示されています。この愛を受け取る時、私たちはさばくことの重荷から、さばかれることへの恐れから解放され、愛に生きる歩みを始めるようになるのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)