パウロはキリスト者がいかに生きるべきかを語り始めるにあたり、その大原則として、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」と語りました。自らを神にささげること、それがキリスト者がなすべき礼拝である、というのです。この「礼拝」とは、英語では「サービス」という言葉です。礼拝とは、そもそも神に対してサービスをすることです。
 ところが、私たちの実際の礼拝はどうでしょうか。自分が神にサービスすることよりも、神によってサービスされることばかりを求めてはいないでしょうか。「ささげる礼拝」よりも、「受ける礼拝」に関心が集中しているのです。私たちキリスト者が、神から恵みを受けることばかり考えているとしたら、神社仏閣のご利益信仰と大差ありません。
 大切なのは、受けるだけでなく、「ささげる礼拝」をささげ続けることです。パウロはここで、自分の体を生きた供え物としてささげるようにと勧めています。旧約時代の礼拝は、動物をいけにえとしてささげることが中心でした。けれども今は、罪の赦しを求めて犠牲をささげる必要はなくなりました。御子キリストが過越の小羊として十字架に犠牲となってくださったからです。すでに、神が最大のサービスを私たちにしてくださったのです。
 「そういうわけで」とは、「あなたがたはこのような神の命がけのサービスを受けたのだから」ということです。神の恵みが分かった者たちは、喜んで自らを神にささげて生きることを始めるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 パウロはキリスト者の倫理を語り始めるにあたり、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」と勧めています。「からだをささげる」とは、自分の存在のすべてを「どうぞお使いください」と、主のもとに置くことを意味します。まさに献身の勧めです。
 パウロはこの勧めを誰に向かって語っているのでしょうか。青年大会において、若者たちに呼びかけているのでしょうか。「兄弟たちよ」と呼びかけているように、これは教会に連なる全ての兄弟姉妹に対して、老いも若きも、男性も女性も、全てのキリスト者への呼びかけです。
 私たちは、献身などは信仰に熱心な人たちの話であって、自分には関係のないこと、と考えてしまうかもしれません。けれどもそうではありません。パウロは全てのキリスト者に対して、献身を迫っています。その献身について、「それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」と語ります。これは「なすべき当然の行為」「理に適ったこと」という意味です。献身しないキリスト者というのは、道理が通っていない、とパウロは言うのです。
 それは、全てのキリスト者は「聖なるもの」とされているからです。「聖なるもの」とは、「神のもの」ということです。キリストが十字架で命をかけて救い出してくださったことにより、私たちの存在は神のものとされました。神のものなのだから、自分を神にささげなさい、と勧めるのです。私たちのために、惜しむことなく自らをささげてくださった主イエスに対して、私たちが献身を惜しむことなどあるでしょうか。喜びをもって、自らを主におささげしようではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 人を赦すことの難しさを感じていたペテロが、主イエスに対して、何度まで赦すべきか、と質問しました。主イエスは、「七たびを七十倍するまでにしなさい」、すなわち、無限に赦し続けなさいと言われました。
 そこで主イエスは一つの譬えを話されました。王に1万タラントもの借金をしていた僕が呼び出され、負債を全て支払うように命じられました。猶予を懇願する僕を憐れに思った王は、とても返済できる金額ではないことを思い、負債の全額を免除してあげました。借金を帳消しにしてもらった僕が王宮から出て行くと、自分が100デナリを貸している友に出会いました。王に帳消しにしてもらった額に比べると60万分の一の少額です。ところが、この僕は友を赦さず、牢屋に入れてしまいました。これらの様子を見ていた仲間が王に告げ口をしたため、この僕はもう一度王に呼び出されました。「私が憐れんでやったように、あの仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と責められ、今度は彼が牢へと投げ入れられました。
 この譬え話は、主イエスの目に映る私たち人間の姿を表しています。私たちは払いきれないほどの大きな罪を抱えていた者たちでしたが、神の大きな憐れみのゆえに、御子キリストの十字架のとりなしのゆえに、その罪が赦されました。その赦しの恵みの大きさが分からないのか、と主イエスは私たちに問いかけておられます。神にどれほど大きな罪が赦されたのか、その恵みの大きさが分かり、感動した者たちは、他者を赦して生きる歩みへと変えられていきます。福音の恵みは人を造り変える力を持っているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 1章から11章まで、罪人がいかにして救われるのか、という教理を語ってきたパウロは、この12章からは、救われたキリスト者がいかに生きるべきかという倫理について語り始めます。ここで語られる生き方は、一般倫理ではなく、あくまでキリスト者の倫理です。冒頭の「そういうわけで」とは、「あなたがたはすでにキリストの恵みによって救われたのだから」ということです。
 そのため、ここで語られる言葉は決して厳しく命令する言葉ではありません。「勧める」と訳されている言葉は、「励ます」「慰める」とも訳せる言葉です。もともとは「そばに呼び寄せる」という意味の言葉であり、「弁護者」「慰め主」としての聖霊を指すときに同じ語源の言葉が使われています。パウロはローマの人々に、喜びの知らせとして語ります。
 そのように生きる力の源は、「神のあわれみによってあなたがたに勧める」とあるように、キリスト者に注がれた神の大きな憐れみが、人をそのように生かすというのです。御子キリストをさえ与えてくださった神の憐れみが、罪人を生かし、造り変え、その恵みと憐れみに応えて生きるようにするというのです。
 『ハイデルベルク信仰問答』は大きく三部に分かれていて、第三部の倫理を語る箇所には、「感謝について」という表題がついています。キリスト者の生活は、神の圧倒的な恵みに対する感謝の応答であるというのです。「わたしに賜わったもろもろの恵みについて、どうして主に報いることができようか」(詩篇116:12)とあるように、主の憐れみによって生かされた者たちは、神と人とに仕えて生きる者とされるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人師)

 神の民イスラエルに代わり、異邦人である自分たちが救いにあずかったことについて、ローマ教会の中には自分たちを知者だと思い上がる人がいたようです。これに対してパウロは、彼らが立派だったのではなく、ただ神の一方的な憐れみによって救われたことを思い起こさせます。
 その上で、全ての人を救おうとする神の奥義を伝えます。それは、イスラエルが頑なにされているのは、異邦人全体に救いが届けられるまでのことであって、その後は最初に戻るようにしてイスラエルに救いが及ぶというのです。神の御子キリストを十字架につけて殺した民が、やがての日にキリストを救い主と信じるようになる、これは神の奇跡的なみわざです。それが起こるのは、イスラエルを選ばれた神の召しは変わることがないからです。
 このことを、パウロは「神のあわれみ」という言葉で語り直します。捨てられても当然の異邦人である彼らが神の憐れみによって救われたように、神に背き続ける神の民イスラエルも、同じように神の憐れみによって救いに導かれるというのです。その神の憐れみを感謝して受け止めるために、神は人々を一度は不従順の中に閉じ込められたと言います。それは、自分の中には救いの可能性など全くないことを思い知らされた者だけが、神の憐れみを感謝して受け止めるようになるからです。
 この神の深いご計画を知ったとき、パウロは神を讃えずにはいられませんでした。教理を語ってきた前半部分を、パウロは神を賛美する頌栄の言葉をもって閉じます。救いの神の素晴らしさを知った者たちは、神を讃えて生きる者となるのです。

 パウロとバルナバナは第二次伝道旅行に出かけるにあたり、第一次伝道旅行の途中で挫折したマルコを連れて行くかどうかで意見が対立しました。弱い者に対する温かい配慮ができるバルナバは、若いマルコに再度チャンスを与えようとします。しかしパウロは彼自身の伝道への厳しい姿勢から、マルコは連れて行かないと判断し、二人は激しい論争になりました。彼らの意見の対立は、どちらが正しい、正しくないの問題ではなく、両者の性格、タイプの違いが表れたものでした。
 激論の末、個性の違いを互いに認め合いながら、二人は別々の道を行くことになりました。教会もそれを認め、神の恵みに委ねて彼らを送り出しました。その結果、バルナバとマルコのチーム、パウロとシラスのチームという、二つのチームと四人の伝道者が生まれ、そして二つの地域で福音が大きく前進していったのでした。それは、二人が別々に行くことを神も良しとしてくださり、そこにも神の祝福があったということです。
 この後もパウロ、バルナバ、マルコは強い信頼関係で共に良い働きをするようになりました。パウロとバルナバが愛をもってマルコに関わり、二人の性格の違いがマルコを一人の伝道者へと成長させていったのです。このように意見や性格の違いがあっても、主にあって必ず一つとされると信じているのが教会です。
 ですから私たちは意見の対立をいたずらに恐れる必要はないのです。主イエスの十字架の恵み、そして「イエスは主である」という信仰告白こそが、様々な意見の対立を乗り越えて私たちを一つにしてくれるのです。そこに私たちの希望があります。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 生まれたばかりの教会を分裂させかねない大きな問題が起こりました。ユダヤ人中心のエルサレム教会と、異邦人中心のアンテオケ教会との間に、人はいかによって救われるのかという点で意見が分かれ、激しい対立が生まれました。
 この問題を協議するため、パウロたちはアンテオケ教会を代表してエルサレムへと上っていきました。最初は、意見が激しくぶつかり合い、争論となりました。どちらも自分たちが正しいと信じ、一歩も引こうとしなかったからです。このとき、エルサレム教会の中心人物である使徒ペテロが、主イエスの恵みによって私たちは救われたのであって、それは異邦人も同じであると語りました。すなわち、異邦人がユダヤ人のように割礼を受ける必要などないと、アンテオケ教会の人たちを擁護する発言をしたのです。
 ペテロの発言が終わると、聞いていた人々は皆黙ってしまいました。やり込められたというのではありません。「もしかしたら、そこに神のみ旨があるのだろうか」と、神の声に聞くようにして心の耳を澄ませたのです。そうだとすると、自分の考えと神のみ心とが対立することになります。このようなときこそ、私たちの信仰の本質が問われます。私たちにとって、本当に「イエスは主」となっているか。
 このとき、人々は議長のヤコブの提案を受け入れ、救いは行いによらず、信仰のみ、という原則を確認しました。この決定を「聖霊と私たちは……決めた」と告げたのです。人間の話し合いの中に神が生きて働いてくださり、この決定を導いてくださったとの信仰を告白したのです。「イエスは主」と告白する教会はこのように形成されていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 聖霊の賜物について、コリント教会で大きな混乱が起こっていました。聖霊を受けたと自称する人々が、異言を話したりなどの特異な現象をもって、それを聖霊を受けたしるしと言い張り、自ら誇っていたのです。
 これに対して、パウロはコリント教会の混乱を鎮めるために、聖霊の賜物とはどのようなものなのかを語ります。パウロはまず、彼らが異教徒だったとき、悪しき霊に誘われるままに、興奮・熱狂して自らを失い、恥ずべき行為を行っていたことを思い起こさせます。しかし、聖霊に満たされるということは、決して熱狂することではなく、自らを失ってしまうことでもありません。
 聖霊なる神のわざの中心は、人々が自らの意思をもって「イエスは主である」と告白するようになることです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」とあるように、聖霊なる神の助けを受けて初めて、人は「イエスは主」と告白することができるようになるのです。
聖霊が地上にお降りになったペンテコステの日、目を見張る様々な現象が起きましたが、その中心は、「イエスは主」と告白する教会がそこに生まれたということです。主イエスご自身、ペテロが信仰を告白したとき、「あなたのその信仰告白を土台として私の教会を建てよう」と言われました。「イエスは主」という信仰こそ、教会の土台であり、その告白は聖霊の助けによるのです。
 私たちは常に、イエスではなく、自らを主人として生きようとする者たちです。聖霊の助けがなければ、「イエスは主」と告白して生きることはできません。だからこそ、私たちは日ごとに聖霊の助けを慕い求めようではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 この詩篇16篇には、「前」と「右」という言葉が2回ずつ出てきます。詩人ダビデは敵に命を狙われる危機にあって、主に向かって「私の避け所となってください」と叫び求めました。それは、主なる神以外のものを頼みとしても、そこには本当の幸いはないことを知っていたからです。そのとき、詩人は他の人を見る目が変わっていきました。かつては権力のある人、財を持つ人を羨んでいましたが、今は、神を畏れる人を尊敬するようになったのです。
 そのようなダビデは、「主はわたしの嗣業」(5)と告白します。イスラエルの12部族には、神からそれぞれの土地が割り当てられました。しかし、祭司としての部族であるレビ族だけは土地が与えられませんでした。神に仕えるレビ族にとって、主ご自身が嗣業である、とされたのです。ダビデは同じように、主こそ私の嗣業、と言いました。これほどの幸いはない、と言うのです。
 主に幸いを見いだした詩人は、「わたしは常に主をわたしの前に置く」と言いました。どんなときも神を意識し、神の御前で生きようとする姿勢を表します。その神は、「わたしの右にいます」と言います。神がご自身の力ある右の手で私を守っていてくださる、という信頼の表明です。だからこそ、「わたしは動かされることはない」と言い切ることができました。人生において困難がないというわけではありません。しかし、常に主の御前に生きるとき、主が私の右の手を握り、私を守り支えてくださる、と信じ抜いたのです。
 私たちもダビデのように、日々の生活において主を意識し、主の御前に生きようではありませんか。
(静まりのセミナー講師 太田和功一師)

 イスラエルが福音につまずき、神に捨てられたように見えたものの、それによって異邦人に救いが及んだことをパウロは見いだしました。イスラエルの罪が、異邦人の祝福につながっていたというのです。それだけでなく、異邦人が救われることによって、イスラエルがそれを妬み、信仰へと奮起させられるという神の不思議な計画をそこに見たのです。
 そのように、イスラエルが神に完全に捨て去られてしまったわけでなく、回復の望みがあることを植物の例えを用いてパウロは説明します。異邦人が救われたということは、イスラエルの民が折り取られた場所に接ぎ木されたようなものだというのです。神が台木であるイスラエルの父祖を祝福し、聖なるものとしておられるゆえに、異邦人はその祝福に与っているに過ぎないのです。ですから、彼らは何一つ誇ることはできません。もし神が台木であるイスラエルを惜しむことをされなかったなら、異邦人が救われることなど起こらなかったからです。
 パウロは、「神の慈しみと厳しさを見よ」と述べます。神の厳しさは罪を犯したイスラエルに向けられ、神の慈しみは異邦人の救いに表されています。けれども神は、なおもイスラエルの民を惜しんでおられ、救おうと願っておられます。それは神が「御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかた」だからです。私たちの神は、罪人を滅ぼし去ることを惜しみ、代わりに御子を十字架につけたお方です。キリストの十字架に、神の慈しみと厳しさが現されています。この神の慈しみを知った者たちは、神のもとへと帰る者とされるのです。