パウロは、救いの恵みに与った者たちのあるべき姿として、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と勧めました。「共に」ということは、一般でも言われていることです。しかし、聖書が語っていることは、福音の恵みによって生かされているあなたがたは、このように生きることができる、ということです。
 まず、「喜ぶ者と共に喜ぶ」ことが勧められていますが、私たちは他の人が喜んでいるとき、一緒になって喜ぶことができない弱さを抱えています。その人をねたましく思ってしまうのです。
 そのような私たちにとって、「泣く者と共に泣く」ことのほうがやさしいと思うかもしれません。けれどもそれは、見せかけの同情となり、あるいは心理的に上に立って、苦しんでいる人をさらに苦しめてしまうことがあります。「泣く者と共に泣く」とは、相手が泣いているのを止めることなく、泣くのをそのまま受け入れることです。励まそうとすることにより、「いつまでも泣いていないで……」というメッセージを送ってしまうことがあり、「共に泣く」ということに失敗してしまいます。
 そのような私たちがこのパウロの勧めを生きることができるのは、主イエス・キリストが、私たちと共に喜び、泣いてくださったお方だからです。主イエスは、私たち罪人たちのところにまで降りてきて、十字架の死に至るまで、私たちに寄り添ってくださいました。主の十字架は、「どこまでもあなたがたと共にいる」というメッセージです。救い主のこの寄り添いを受けた者たちは、小さなキリストとして、他者のもとへ遣わされていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ダビデによるこの賛歌は、ダビデの驚きが賛美の原動力となっています。ダビデはまず、夜空に浮かぶ月や星の美しさに驚きます。けれどもそのとき、美しい雄大な自然そのものをほめたたえるのではありません。ダビデの目は、月や星にとどまるのではなく、それらを造られた神へと向けられます。そして、創造者である神のみわざをほめたたえるのです。ここが、被造物を神として拝んでしまう人々と、真の神を信じる者たちの大きな違いです。
 次に、ダビデの目は天から地へと降りてきます。宇宙の広大さと、それらを造られた神の大きさに比べたら、自分はなんと小さな存在であるかと驚きます。私たちはいつも他の人と自分とを比較して考えるため、高慢になったり、卑屈になったりします。けれどもダビデは、創造者なる神の大きさと自分とを比べて、自分の小ささを実感しました。
 けれどもそのとき、ダビデが最も驚いたことは、偉大な神がその小さな自分を顧みておられるということでした。「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか。人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」。天の神が自分のことを顧みておられることを知ったとき、自分を見る目が変わりました。価値なき者と見ていた自分を価値ある者と見るようになったのです。
 私たちはダビデ以上に、神を賛美する理由を知っています。神が私たちを顧みてくださって、御子キリストをこの世に送り、私たちのために十字架にかけてくださったからです。御子キリストがご自分の命と引き換えにするほどに、私たちを価値ある者と見てくださいました。この神の大きな恵みに驚いた者たちは、心から神を賛美して生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 パウロはローマ教会の人々に、奉仕において「熱心で、うむことなく」と勧めます。こう語るのは、私たちが主に対する奉仕において、疲れてしまう、嫌になってしまうことがあるからです。苦難を経験すると、信仰者であっても信仰生活の疲れを覚えるものです。
 そのような私たちに、「霊に燃え、主に仕え」とパウロは勧めます。主に仕えることにおいて、熱心さが失われ、心が冷めてしまうことがあるからです。自分が熱心に奉仕しているとき、私たちは他の人の姿が気になります。自分ばかり熱心に奉仕して、他の人が怠けているように思えてしまうのです。そうなると、自分だけ損をしているかのように思い、心が冷めてしまうことがあります。
 熱心に励むようにとパウロは勧めますが、これは短距離走を走るような熱心さを勧めるのではありません。そのような走り方は、途中で息切れしてしまいます。私たちの信仰生活は、マラソンを走るようなものです。神のもとに辿り着くまでの長距離を走り続けるためには、私たちは誰に仕えているのか、主人は誰かということを忘れないでいることです。私たちが仕える主イエスを見つめ続けることです。
 そのとき、仰ぐ主によって命が与えられます。それは、主ご自身、私たちのために熱心に仕えてくださった、その恵みを知るからです。十字架で命を捨てるほどに、私たちのために熱心に仕えてくださった主の恵みを知らされるからです。そのとき、エマオの途上の弟子たちが、「心が内に燃えたではないか」という経験をしたように、私たちの冷めて心も温かくされます。世の終わりまで主に仕えていきる喜びの中を歩ませていただく者とされるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 キリスト者の具体的な生活指針を語るにあたり、パウロは「愛には偽りがあってはならない」と語ります。私たちの愛には、偽りが入り込んでしまうからです。「偽り」と訳されているギリシャ語の言葉は、「仮面をかぶって芝居をする役者」という意味です。私たちの愛が、まるで仮面を付けて芝居をするかのようになってしまうというのです。たとえばボランティア活動が、相手のためにやっているように見えながら、自分のため、自分の自己実現のためであったりすることがあります。
 そのように、本物の愛と偽りの愛の決定的な違いは、中心がどこにあるか、という点です。関心の中心を相手に置き、相手のために手を差し伸べる、それが本物の愛です。ところが、偽りの愛は、相手のためのように見えながら、実は自分のため、という心が根底にあります。
 真実に互いに愛し合うために、「進んで互いに尊敬し合いなさい」と勧めます。人間の価値観で他人をはかるのではなく、神の目をもって人を見るとき、その人の本当の価値が分かります。それは、御子キリストが命をかけるほどの大きな価値です。
 そのような真実な愛を阻むのが高ぶりですが、そうならないように、「低い者たちと交わるがよい」と言います。そして、御子キリストこそ、高い所におられたのに、低い私たちのところへて降って来られ、私たち罪人と一つとなってくださいました。私たちはそのキリストの真実な愛を受け、それによって救いにあずかりました。キリストの十字架の真実を受けた者たちは、自己中心から解放され、他者のため、真実な愛に生きることを始めるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 キリスト者の倫理として、具体的な勧めを語るにあたり、パウロは「思い上がるな」と命じます。教会も人間の集まりである限り、思い上がるような人がいるのは当然のことのように思ってしまいます。しかし、パウロはこれを信仰の問題として捉えます。パウロが真っ先にこれを語るのは、思い上がりが教会を内部から壊すことになるからです。
 パウロはいつも教会を人間の体にたとえて語ります。私たちひとりひとりは洗礼によってキリストと結ばれ、キリストの体の各器官として、教会を形づくる存在とされました。神は、教会に連なる者たちひとりひとりに恵みの賜物を与え、それぞれが賜物を用いて教会を支えるようにと願っておられます。どの器官も必要な器官であり、お互いの間には上も下もありません。
 ところが、キリストの体の中に、思い上がってしまう人が出てきます。キリストを差し置いて、自分が支配者に、主人になろうとするのです。人間に過ぎない者が、キリストに代わって主人になろうとするなら、もはや「イエスは主」ではなくなってしまいます。教会が教会ではなくなってしまうのです。
 「イエスは主」と仰ぐ者たちは、その私たちの主が、天の栄光の王座を降りて、私たちのためにひたすら下へと降る道を歩まれたことを知っています。十字架の死に至るまで、ひたすら下降の道を歩まれたのです。このキリストの謙りによって救われた者たちは、もはや上を目指す歩みではなく、下へと向かう道を歩み始めます。主人になろうとする自分の罪と向き合いながら、真実に主に従って生きて行きます。そこに、「イエスは主」と告白する真の教会が建て上げられていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 使徒パウロは第二次伝道旅行中、ギリシャのアテネからコリントの町へとやって来たとき、挫折と失望を覚えていました。アテネでの伝道が思うように行かなかったからです。
 そのような中、コリントでプリスキラとアクラという熱心なクリスチャン夫婦に出会い、大きな励ましを受けて伝道の働きを続けました。さらに、シラスとテモテがやってきて、テサロニケ教会の人々の様子を伝えてくれました。行き詰まりを覚えていたパウロにとり、その吉報も大きな励ましとなりました。
 そんなある夜、パウロは幻の中で主の語りかけを聞きました。「恐れるな。語りつづけよ、黙っているな。あなたには、わたしがついている。だれもあなたを襲って、危害を加えるようなことはない。この町には、わたしの民が大ぜいいる」。主がこのように語られるというのは、パウロの中に大きな恐れがあり、孤独を感じ、迫害者から危害を加えられる心配があったからでしょう。そのようなパウロに、このコリントの町に神を信じる者たちがたくさんいる、と言われ、「わたしがあなたと共にいる」と励ましを与えられました。
 この神の語りかけを受けたパウロは、「ここに腰をすえて、神の言を彼らの間に教えつづけた」というのです。宣教のわざに行き詰まりと恐れを覚える伝道者が、神の言葉の励ましがあるからこそ、その困難な地でなお腰を据えて、福音を語り続けることができたのです。
 私たちも自分が遣わされている地で福音を語ろうとするとき、行き詰まりや恐れを覚えることでしょう。それでもなお、主が「わたしがあなたと共にいる。救われる民が大勢いる」と言われるからこそ、腰を据えて宣教に励むことができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)


主イエスは、みことばを「聞いて行う」人を「岩の上に自分の家を建てた賢い人」にたとえ、雨、洪水、風のような困難や試練が襲っても、その家は倒れないと約束されました。「聞いて行う」と言われると、「言われたことは、ちゃんと成し遂げなければならない」と思ってしまいますが、主イエスが求めているのは成功や成果ではありません。むしろ、自分が成し遂げたことを拠り所として、自分の正しさを主張するような生き方を、厳しく警告されました。

「聞いて行う」とは、「岩」であるみことばの上に自分の人生を建て上げることです。これは人生の土台が根本から変わることです。私たちは、お金や地位や人の評価などを拠り所にして、「私」という土台の上に、人生を建て上げようとしています。「聞いて行う」とは、人生の土台が「私」から「みことば」へと変わることなのです。

これは、毎週の礼拝において、みことばを語っている主イエスがどんなお方かを知ることで、初めて可能になります。主イエスは、私たちを救うために人となって地上に降り、私たちの罪を全て背負って十字架に死んで下さったお方です。ご自分の命よりも、私たちを大切にして下さるお方です。ですから、主イエスが語る言葉は、全て愛の言葉です。

礼拝を通して、主イエスの愛を知る時、私たちの内に信頼が生まれます。「イエスは主」の信仰が与えられます。こうして私たちは、みことばを「私に対する愛の言葉」として受け取り、それぞれの人生へと帰って行きます。嵐の中でも動かない愛の言葉を土台とし、それぞれの人生を、日々、築き上げていくのです。

(南光沢教会信徒説教者 横道弘直)

 パウロはキリスト者の倫理の大原則を語るにあたり、「あなたがたは、この世と妥協してはならない」と勧めます。この世と調子を合わせ、同化して生きることがないように、ということです。なぜこのようなことを命じるかというと、「この世」はキリスト者に対して、「自分たちに合わせるように」と働きかけてくるからです。そして、その「世」とは、御子キリストを十字架につけて殺した世です。そのキリストに従って生きようとする者たちに対しても、同じような圧力をかけてきます。
 これに対してパウロは、何が神の御旨であるかを弁え知るように、と勧めます。世にあって生きるとき、私たちの信仰の感性は鈍くなり、何が神の御心なのかが分からなくなってしまうことがあります。さらに、分かっていながらも、世の働きかけてに屈するようにして、調子を合わせてしまうことがあります。問われているのは、誰に合わせて生きるのか、ということです。キリストとこの世と、私たちの本当の主人は誰か、という問いでもあります。私たちは、自分を守ろうとして、この世に、人に合わせて生きようとすることがあります。神に喜ばれることよりも、人に喜ばれる道を選ぼうとします。
 そのような中、私たちは心の向きを変え、まっすぐに神に向き直り、神によって造り変えていただくことを求めるようにと語ります。主イエスが山の上で栄光の姿に変えられたように、私たちキリスト者は、神を見つめつつ生きるとき、キリストに似た者へと変えられていきます。私たちのために、自ら姿を変え、人となって十字架にかかってくださったキリストを見つめ続けるとき、私たちの内に聖霊のみわざとして、そのような大きな変革が起こるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 パウロはキリスト者がいかに生きるべきかを語り始めるにあたり、その大原則として、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」と語りました。自らを神にささげること、それがキリスト者がなすべき礼拝である、というのです。この「礼拝」とは、英語では「サービス」という言葉です。礼拝とは、そもそも神に対してサービスをすることです。
 ところが、私たちの実際の礼拝はどうでしょうか。自分が神にサービスすることよりも、神によってサービスされることばかりを求めてはいないでしょうか。「ささげる礼拝」よりも、「受ける礼拝」に関心が集中しているのです。私たちキリスト者が、神から恵みを受けることばかり考えているとしたら、神社仏閣のご利益信仰と大差ありません。
 大切なのは、受けるだけでなく、「ささげる礼拝」をささげ続けることです。パウロはここで、自分の体を生きた供え物としてささげるようにと勧めています。旧約時代の礼拝は、動物をいけにえとしてささげることが中心でした。けれども今は、罪の赦しを求めて犠牲をささげる必要はなくなりました。御子キリストが過越の小羊として十字架に犠牲となってくださったからです。すでに、神が最大のサービスを私たちにしてくださったのです。
 「そういうわけで」とは、「あなたがたはこのような神の命がけのサービスを受けたのだから」ということです。神の恵みが分かった者たちは、喜んで自らを神にささげて生きることを始めるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 パウロはキリスト者の倫理を語り始めるにあたり、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」と勧めています。「からだをささげる」とは、自分の存在のすべてを「どうぞお使いください」と、主のもとに置くことを意味します。まさに献身の勧めです。
 パウロはこの勧めを誰に向かって語っているのでしょうか。青年大会において、若者たちに呼びかけているのでしょうか。「兄弟たちよ」と呼びかけているように、これは教会に連なる全ての兄弟姉妹に対して、老いも若きも、男性も女性も、全てのキリスト者への呼びかけです。
 私たちは、献身などは信仰に熱心な人たちの話であって、自分には関係のないこと、と考えてしまうかもしれません。けれどもそうではありません。パウロは全てのキリスト者に対して、献身を迫っています。その献身について、「それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」と語ります。これは「なすべき当然の行為」「理に適ったこと」という意味です。献身しないキリスト者というのは、道理が通っていない、とパウロは言うのです。
 それは、全てのキリスト者は「聖なるもの」とされているからです。「聖なるもの」とは、「神のもの」ということです。キリストが十字架で命をかけて救い出してくださったことにより、私たちの存在は神のものとされました。神のものなのだから、自分を神にささげなさい、と勧めるのです。私たちのために、惜しむことなく自らをささげてくださった主イエスに対して、私たちが献身を惜しむことなどあるでしょうか。喜びをもって、自らを主におささげしようではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)