「人をさばく」とは、人を見下げて批判・非難する態度のことです。私たちは日常的に、このように人をさばきながら生きています。ここで主イエスは、「人をさばくあなたの目には梁がある」と語っています。

 人間のさばきは、不公正で、不正確です。人を正しくさばくことができるのは神だけです。それなのに、私たちは簡単に人をさばきます。さばくことに喜びさえも感じます。誰もが、人よりも一段高いところに立って、人を傷つけて喜ぶ悪魔的な心を抱えているからです。その根底には、さばかれることへの不安と恐れがあり、「人をさばいていれば、自分はさばかれない」という歪んだ安心感があるからなのでしょう。

 しかし、人が人をさばくということは、神の座につくことであり、自分を神とすることです。これは聖書が語る罪です。主イエスが語った梁の正体は、私たちの内に宿る罪でした。主イエスは「まず自分の目から梁を取りのけるがよい」と語ります。しかし罪は、私たちと一つとなるほどに、深く私たちに根付いています。私たちは、自分の力で目から梁を取りのけることはできません。

 しかし主イエスは、私たちの身代わりとなって、罪人の不当なさばきを受け、父なる神から見捨てられるという究極のさばきをも受けて下さいました。本来、私たちが受けるべきさばきを全て引き受け、私たちの目から梁を取りのけて下さったのです。ここに、主イエスの愛がはっきりと示されています。この愛を受け取る時、私たちはさばくことの重荷から、さばかれることへの恐れから解放され、愛に生きる歩みを始めるようになるのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)

 「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」と語ったパウロは、自ら「しかし」と問います。「信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか」と。主を呼び求めるためには、その前に主を信じることが必要だと言います。さらに、「聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか」と続けます。主を信じるためには、まず、主イエスがどのようなお方であるのかを聖書をとおして正しく知ることが必要です。神を正しく知らないために、そのお方を信じることができないでいることが多いからです。
 さらに、パウロの言葉は核心へと入っていきます。「宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか」。信じるためには聞くことが必要だと言われても、救い主のことを伝えてくれる人がいなくては、聞くことができない、というのです。そして、「つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか」と、信仰の原点、宣教の原点へと至ります。福音を伝える者たちは、神の使者として、神によって遣わされることによって福音を宣べ伝えるために出て行くのです。
 その宣教者について、「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」とイザヤ書を引用して語ります。その伝えてくれる内容が喜びの知らせ、福音であるからこそ、伝える者の足は美しいというのです。
 神の子キリストは、神のもとからこの世に遣わされた伝令です。十字架で命をかけて、主イエスは喜びの知らせを届けてくださいました。
 この喜びの知らせにあずかった者たちは、今度は自らが神の伝令として出て行きます。私たちはこの世にあって、神に遣わされた者、麗しい宣教者として生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 パウロがこの手紙を書きながら絶えず対峙していたのは、律法を行うことによって義を得ようとする人々でした。しかし、今やキリストを信じることによって義とされる道が開かれました。救いのわざは完成し、その恵みがわたしたちの前に差し出されているのです。
 救いを与える神の言葉は、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」と告げています。「イエスは主」とは、原始教会における最も簡潔な信仰告白であり、洗礼を受ける際、ただこの一つの告白が求められました。たった一言の告白ですが、「ローマ皇帝は主」と告白することが強要された時代にあって、「イエスは主」と告白することは自分の存在をかけた告白でした。
 この信仰告白について、私たちは心に信じた後に、「イエスは主」と告白できるようになるのではないか、順番が逆ではないかと思います。これは礼拝の様子を思い浮かべるとよく分かります。まだ神を信じる前の人が、信仰者に混じって礼拝に出席し、人々と同じ信仰の言葉を口にします。そのような礼拝生活の中で、自分が口にしていることを「信じる」というみわざが起こります。聖霊が働いて、そのような信仰告白へと導いてくださるのです。
 この信仰による救いは、全ての人に及び、そこには何の差別もありません。「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるとおりです。パウロは、私たちが信仰をもって主の名を呼ぶようにと勧めます。「主よ、私を憐れんでください」と求める者たちを救ってくださいます。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 同胞ユダヤ人のためなら、「この身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」とさえ言ったパウロでしたが、9章の終わりでは、イスラエルは救いに達しなかったと言わなければなりませんでした。
 そこで10章に入り、パウロはもう一度、同胞に対する熱い思いを口にします。「わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである」。そのユダヤ人は、神に対して熱心であることは保証するが、それが正しい認識を欠いた、間違った熱心であると指摘します。神の子キリストを十字架につけて殺すという狂った熱心でした。
 その間違った熱心は、「自分の義を立てる」という点に集中します。自分の正しさを自ら証明することに力を注ぎ、それによって神に義と認めてもらおうとするのです。私たちの普段の生き方も、常にこの「自分の義を立てる」という方向性を持っているのではないでしょうか。社会がそのように要求するからです。問題は、神の前でさえ、そのように生きてしまうことです。キリストを頼みとするのでなく、自分の正しさを頼みとするのです。そう生きてしまうのは、神の義を知らないからです。キリストによって義とされる恵みを知らないために、自分で必死になって義を獲得しようとします。
 しかし、キリストは律法の終わりとなられました。十字架によって罪の呪いを引き受けることにより、私たちを律法の要求から解放してくださいました。そして、キリストだけを頼みとして生きるように全ての人に呼びかけておられます。どんな人も、キリストによって救われうるのです。だからこそ、私たちは愛する家族や友人の救いを諦めることなく、救いを祈り続けたいと思います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 イサクは父アブラハムから継承した神の祝福を長男エサウに与え、彼を後継者にしようとようと考えていました。しかし神のみ心は、それはエサウではなく弟のヤコブでした。
 エサウは、たった一杯の煮物と引き替えに長子の権利をヤコブに売り渡してしまうほど、神の祝福を軽んじていましが、それでもイサクは、お気に入りのエサウに祝福を与えようとします。一方、弟ヤコブに祝福を継がせたい母リベカは、ヤコブと共謀してイサクを騙します。そしてヤコブが祝福を受けてしまいました。
 リベカとヤコブのこの行為は、み心にかなったことではありません。しかしイサクはここに、主なる神のみ業を見たのでした。イサクは神のみ心にあえて目をつぶって、自分の思いを押し通そうとしたのです。にもかかわらず騙されて、結局ヤコブに祝福を与えてしまいました。そのことを知った時イサクは、主なる神は生きておられ、人間のあらゆる思いを超えてみ心を行なっておられることをハッキリと悟って、激しく震えたのです(33節)。
 「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ」(箴言19:21)。生きておられるまことの神は、たとえ私たちのたくらみや嘘、罪であっても、それさえも用いてみ心を成し遂げることがおできになるのです。
 私たちの人生にも、人の思いや計画を超えて、神のみ心が実現されていきます。私たちを救うために、み子をさえ惜しまずに与えて下さったお方は、どこまでも愛の神です。その神のみ心が 私たちの人生を貫いて、私たちを支えてくださるのです。何とありがたいことでしょうか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 神によって義とされる、救いの恵みについて、ユダヤ人と異邦人における逆転した現実をパウロは語ります。真の神を知らず、義を追い求めもしなかった異邦人が救いの恵みにあずかったのに対して、熱心に律法の義を追い求めたイスラエルが救いに至らなかった、というのです。
 この両者の対照的な姿は、マタイ20章にあるぶどう園の労働者の譬え話を思い起こさせます。ぶどう園において、一日一デナリの報酬を約束されて労働者たちが働き始めました。夕暮れになり、主人は彼らに、夜明けから一日中働いた労働者も、夕方5時にやってきてたった一時間しか働かなかった労働者も、同じ一デナリを支払いました。すると、早朝から一日中働いた労働者が主人に文句を言いました。ほとんど働いていない人と自分たちが一緒の賃金はおかしい、自分たちの苦労はもっと評価されるべきだ、と。
 それに似て、ユダヤ人たちは自分たちの正しい行いによって神の義を得られると思っていました。しかし、救いは自分のわざによって獲得するものでなく、神が一方的な恵みとして与えてくださるものです。私たちはただ感謝して受け取るだけです。何の資格もない者たちを、御子キリストの十字架の犠牲のゆえに、救ってくださるのです。
 自分たちの実績を誇るユダヤ人たちにとり、キリストはつまずきの石となりました。しかし、神が置かれたこのつまずきの石は、自分の罪を徹底的に知らされた者にとっては救いの岩となります。私たちは皆、神のみ前では実績ゼロの者たちです。そのような私たちが、ただキリストの恵みによって救われたのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 救いの与った者たちについて、「神による選び」と説明したパウロは、ここでは「残された者」と表現しました。罪のゆえに滅びることになっていた「怒りの器」が、神の憐れみによって残されたというのです。
 その神の憐れみについて、預言者ホセアの言葉を引用して語ります。ホセアは自分の生まれた子の名を「あわれまれない者」、「私の民ではない者」と付けるように主に命じられます。それはイスラエルの民に対する神の思いを表していました。神の民イスラエルは、主に「私の民ではない」と告げられたのです。
 ホセアはさらに、妻ゴメルのことで大きな痛みを経験しました。彼女は子どもたちを生んだ後、ホセアのもとを去り、他の男性のところへ行き、ついには奴隷の身となっていました。そのとき、主はホセアに「姦淫の妻を愛せよ」と命じられました。ホセアは神の言葉に従い、ゴメルを代価を払って買い戻し、再び妻として迎えました。自らの経験をとおして、イスラエルをなおも愛そうとする神の大きな痛みを知ったのです。
 イスラエルを憐れむ神は、「私の民ではない」と言ったその場所で、「私の民である」と告げてくださるとパウロは語ります。「その場所で」とは、「そのままで」ということです。憐れみを受ける者たちは何の資格もないのに、悔い改めたわけでもないのに、罪人がそのままで恵みを受ける、それが贖いということです。
 罪人が憐れみを受ける「その場所」とは、キリストの十字架という場所です。十字架の下で、「あなたは罪人である」と告げられます。けれども同時に、そこで「あなたの罪は赦された」と告げられます。どんな人も、資格がない者たちが、憐れみを受けるように招かれているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 神が人間に対して絶対的な主権を持っておられる方であることを語ったパウロは、人々から出るであろう問いを取り上げます。「なぜ神は、なおも人を責められるのか」。罪の責任は神にあるのではないか、という人間の心の中にある問いです。
 これに対してパウロは、「神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか」と問い返します。神によって造られた存在である人間が、造り主である神に対して「なぜ自分をこのように造ったのか」と問うことがあるはずないではないか、と言うのです。
 ここで、パウロはキリスト教信仰の大切な土台である、神が造り主であり、人間は神によって造られた存在であることを明示します。この創造者と被造物との関係は、決して逆転できない絶対的な関係です。陶器師が自分の意のままに自由に器を造るように、主権者なる神は絶対的な主権を持っておられます。ところが人は、この秩序を逆転させて、自分が主人になろうとします。これこそ、聖書が語る罪です。神を否定し、自分が主権者になろうとするのです。「あなたは何者なのか」と問うのは、向きを変えて、本来のあるべき姿に戻るようにとの呼びかけです。
 造り主である神は、神に滅ぼされても当然の怒りの器に対し、大いなる寛容をもって忍耐し、あわれんでくださいました。私たち罪人を生かすために、御子キリストが十字架において神の怒りを受けてくださいました。神は、御子キリストを身代わりとするほどに、私たちをあわれみ、「あなたは尊い」と告げておられます。この神のあわれみが注がれていることが分かるとき、神に感謝して生きる者へと変えられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ある主人がぶどう園を造り、農夫たちに貸し与えて旅に出ました。収穫の季節が来たので、その分け前を受け取るために自分の僕を遣わしました。ところが、農夫たちは僕たちに暴力を振るい、ある者たちを殺してしまいました。主人はそれでも、再び僕たちを送りました。すると、農夫たちは同じように扱いました。主人は三度目の正直とばかりに、今度は自分の跡取り息子を遣わしました。ところが、農夫たちはぶどう園を自分たちのものにしようと考え、息子を殺してしまいました。
 この譬え話をされた主イエスは、「この後、主人はどうするだろうか」と人々に尋ねました。主人の怒りを想像させたのです。これを聞いていたのは、主イエスと衝突していた祭司長や長老たちでした。直前の主イエスによる宮きよめに腹を立てて、「何の権威があってこんなことをするのか」と文句を言ったのです。彼らの問いかけに対する答えとして、主イエスはこれを語られました。
 この譬え話の農夫たちのように、祭司長や長老たちは、この世が神のものであり、神の子イエスこそ主人であることを忘れていました。主イエスを殺すことによって、自分たちがこの世の主人になろうとしていたのです。祭司長たちだけではありません。私たちも、神の存在を私たちの生活の中から抹殺することにより、自分が主人になって生きようとします。それこそ、聖書が語る罪の根源です。神と人とを退け、自分が主になって生きてしまうのです。
 そのような私たちに対して、神は私たちを皆殺しにするのではなく、悔い改めて帰ってくるのを待っておられます。御子キリストを十字架で殺し、反対に私たちを生かそうと、愛をもって招いておられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 神による一方的な選びについて、パウロは「神の側に不正があるのか」との問いを提示します。これは「神はいない」と言うようなものです。
 パウロはすぐさまそれを否定し、神はご自分があわれもうとする者をあわれまれることを、出エジプト記の聖句を引用して説明します。モーセに率いられてエジプトを出てきたイスラエルの民が、荒野において神に背き、金の子牛像を礼拝するという大きな罪を犯しました。民の執り成しをしたモーセに対して、神は罪を犯したイスラエルの民をあわれんでくださることを約束されました。
 さらに、この神の自由な選びの計画は、神に敵対するエジプト王パロまで入れられていたことをパウロは語ります。神がご自分の力を現すために、パロをも立てたというのです。「だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである」と。事実、エジプト王パロは神によって心をかたくなにされたと聖書は記しています。
 使徒パウロはローマ教会の信徒たちにこれらを書き送りながら、神のあわれみを受けるに相応しい生活をしなさい、と勧めているのではなく、神があわれんでくださったことを思い起こすように促します。今、彼らが神を信じる者として生かされているのは、自分たちのわざによるのではなく、神の一方的なあわれみによるものでした。その神の自由なあわれみは、御子キリストを十字架につけるという出来事に現されました。
 私たちに求められていることは、すでに注がれている神のあわれみを感謝をもって受けるだけです。恵みを受け取ることが信仰なのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)