アブラハムが人生の充実期を迎えていたある日、神は彼に「愛するひとり子イサクを燔祭として捧げよ」という厳しい試練をお与えになりました。それは、アブラハムの子孫を通して世界中が祝福されるという神の約束が破棄され、それを信じて歩んできた彼の人生が無に帰することを意味します。アブラハムは神が分からなくなってしまいました。
 しかし翌朝、アブラハムは神が示された山にイサクと共に黙々と登りました。そして激しい葛藤を通して、自分が今まで信じてきた神は真実であり、全能であり、愛のお方であることを再確認します。イサクをささげよと言われる神を理解できないにもかかわらず、このお方に確かな信頼を寄せるに至ったのです。全てを委ねたアブラハムは、燔祭の小羊がないことを不思議に思うイサクに答えました。「神が備えてくださる」。
三日目、いよいよアブラハムがイサクに手をかけようとしたとき、神は角を藪にひっかけた一匹の雄羊を与えてくださいました。アブラハムはそれを息子の代わりに燔祭としてささげることができました。
神ご自身こそが、一番大切なひとり子をさえ私たちのために惜しまずに死に渡してくださいました。このお方は私たちの先を見ていてくださり、み子と共に全てのものを私たちのために備え、与えてくださるのです。「主の山に備えあり」。先の見えない試練であればあるほど、何かの形で神の備えがそこにあることを私たちは信じて歩んでいくのです。

(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 9章に入り、パウロは偽らざる思いを語ります。それは大きな悲しみであり、絶えざる心の痛みであると言います。それは、自分の肉親や同胞のユダヤ人がキリストを信じようとしないことです。パウロは異邦人に対して熱心に伝道しながらも、同胞ユダヤ人が福音を拒み続けていることに痛みを覚えていました。
 それがなぜそれほど大きな悲しみであるかというと、キリストを拒み続けるならば、「彼らの最後は滅びである」(ピリピ3:19)ということをよく知っていたからです。この事実は、私たちにとっては考えたくないことであるため、その霊的な現実を見つめることをいつも避けてやり過ごしてしまいます。けれどもパウロは、逃げることなくその悲しい現実を見つめ、深く悲しんでいました。
 その肉親や同胞の救いに対する熱情がほとばしり出て、驚くべき言葉を口にしました。「実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」(3)。「のろわれて」という言葉は、「アナテマ」というギリシャ語の言葉で、教会から除名や破門をするときに使われる激しい言葉です。パウロは、肉親や同胞が救われるなら、私が代わりに神に呪われ、捨てられても構わない、と言ったのです。直前の8章の終わりで、「神の愛から引き離されることは決してない」と福音の確かさを高らかに宣言したパウロが、同胞のためなら、その神から引き離されてもいい、と言ったのです。
 パウロが誰かの身代わりにはなれませんが、御子キリストは私たちの代わりに呪われた者となるため、この世に降り、十字架にかかってくださいました。この大きな恵みのゆえに、クリスマスを喜び祝うのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 主イエスは、食物や着物のことで「思いわずらうな」と語りました。空の鳥を養い、野の花を装って下さる神が、「わたしたちの天の父」だからです。そう分かっていても、日々の生活で起こる様々な問題や、これから起こることへの不安が、時には変えられない過去が、私たちを思いわずらいへと引き込みます。
 思いわずらいとは、「自分にとってとても大切なことに囚われて、心の中が一杯になってしまうこと」です。これは、私たちの霊の命に関わる大きな問題です。不安や心配で一杯になった心の中には、神の居場所がなくなり、神が見えなくなってしまうからです。
 そんな私たちに、「わたしたちの天の父」を現すため、神の御子が人となってこの地上に降られました。私たちと同じ生きる悩みや苦しみを味わい、その生涯の最後には私たちの罪を全て背負い、十字架にご自分の命をも投げ出して下さいました。私たちの罪を贖い、神の子として迎え入れるためです。主イエスを見つめる時に、父なる神がどのようなお方かが分かります。わたしたちの天の父は、御子の命よりも私たちを大切にして下さるお方なのです。
 私たちは、愛されている神の子として、天の父をさらに深く知ることように求められています。これが、「まず神の国と神の義とを求める」ことです。私たちは、思いわずらいの只中でも、主の祈りや詩篇の祈りを通して、神の国へと心の中心を移すことが出来ます。詩篇の言葉をなぞるように、耳を傾ける中で、「父なる神が、主イエスがどのようなお方なのか、自分は何者なのか」という所に帰ることが出来るのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)

 三回にわたって「だれが」と問うて、神に義とされた者たちの救いを否定できる者は誰もいないことを語ったパウロは、さらに「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか」と問いかけます。引き離す力を持っているように思えるものを列挙しながら、御子キリストを与えてくださった神の愛から、私たちを引き離すことができるものなど何もないことを告げます。たとえ様々な苦しみが襲ってきたとしても、「私たちは圧倒的な勝利者です」と。
 そしてついに、この手紙の頂点、そればかりか新約聖書のクライマックスとも言われるパウロの確信の言葉が語られます。「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。人間を圧倒してしまう死さえも、キリストの十字架に表された神の愛から私たちを引き離すことなど出来ない、と高らかに宣言します。
 私たちはいつも、どこに神の愛を認めようとしているでしょうか。もし、自分の周りに起こってくる様々な出来事の中に神の愛を確かめようとするなら、いとも簡単に神の愛から引き離されたしまうことでしょう。神の愛は、御子キリストの十字架に決定的に表されています。私たちがこの神の愛から引き離されることがないのは、私たちが神をしっかりと捕らえているからではなく、神によって捕らえられているからです。信仰とは、神によって捕らえられていることを信じ、受け入れることです。救いの確かさは、私たちにあるのでなく、神の愛にあるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ローマ8章の最後の段落は、この手紙だけでなく、聖書全体における一つの頂点、クライマックスであると言われます。ここに、救いの喜びが高らかに歌い上げられています。
 パウロはこれまでの内容を要約して、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」と問いかけます。この「もし」は不確定な「もし」ではなく、「確かに神はわたしたちの味方なのだから」との意味です。そのとき、もはや神を信じる者たちに敵対できる者は誰もいない、と語ります。 信仰者に敵対する勢力は、神の前で私たちを訴え、罪に定めようとします。「この人にはこのような罪があるではないか」と訴えて断罪するのです。そして、私たちはそのような声に惑わされて、「私のような者は、とてもクリスチャンとは言えない」と、自ら罪に定めてしまうことがあります。
 けれどもパウロは、神がなされた救いのわざを指し示して、「敵対できる者は誰もいない」と告げます。父なる神は、御子をさえ惜しまずに私たちのために死に渡されたではないか、と。私たちの側にその資格があったからではなく、私たちがまだ敵であったときに、御子キリストは十字架で死んでくださいました。そしてキリストは今も、神の右の座にあって私たちのために神にとりなしをしておられます。この御子キリストがおられるからこそ、私たちは安心することができるのです。
 クリスマスにおいて、御子キリストは私たちの味方となるために、天の王座を降り、人となってこの世に来てくださいました。この神が私たちの味方としておられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 私たちは皆、人生の途中で、やりかけのことを残したまま天に召されて行きます。どんな人の死も、「途上の死」とも言うべき側面を持っています。旧約の偉大な信仰者モーセもそうでした。出エジプトの民を率いて40年の荒野の旅を続けた後、モーセたちはついに約束の地の手前までやってきました。ヨルダン川を渡ればそこが約束の地でした。
 ところが、神はモーセに対して、「おまえはこのヨルダンを渡ることができない」と言われました。約束の地に入ることなく、こちら側で死ぬというのです。詩篇90篇は「神の人モーセの祈」という表題が付いていますが、人は神から「人の子よ、帰れ」と声をかけられて死を迎えると記されています。モーセはこのとき、「モーセよ、帰ってきなさい」と声をかけられたのです。
 もう120才に達していたとはいえ、約束の地を目前にして死ななければならないのは、モーセにとっても無念だったでしょう。やりかけの仕事を残したまま、その途中で死を迎えるということは、全ての人にとって最後の、そして最大の試練でしょう。死の現実を受け入れるには葛藤があり、時間がかかるものです。
 モーセは民に向かって、「私はここで死ぬ」と告げることをとおして、自分の死を受け入れていきました。モーセは主の命令に従って、約束の地に入ることなく、あとは全てを主の御手に委ねて死んでいきました。
 私たちも、親しい者の命が奪われるとき、大きな悲しみを経験します。それでもなお、全ては主の御手にあり、深い神の御旨をそこにあると信じて受け止めます。そこに、新しい出発をする力が与えられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 100歳のアブラハムと90歳のサラに、神の約束の成就としてイサクが与えられました。しかし既にアブラハムには、女奴隷ハガルとの間に生まれたイシマエルがいました。それは神の約束を待ちきれなかったアブラハム夫婦の工作によるものでしたが、ここから家庭はお世継ぎ問題の修羅場となりました。
 身勝手なサラは、今や邪魔者となったイシマエル親子を荒野に追い出すよう、アブラハムに要求します。すると苦悩するアブラハムに神は語られました。「あなたは苦しまなくてよい。あなた方の不信仰から発したすべての問題の後始末を私が引き受ける」と。そしてイサクの子孫が正統な跡継ぎであり、同時にイシマエルをも祝福して一つの大いなる国民にすると、新しい約束をアブラハム夫婦とハガルに与えてくださったのでした。
 全能なる神は人の思いや罪や弱さ、失敗をもご自分の計画に新たに取り込んでくださり、それをみ心に沿って用いることができるお方です。ただ、これは決して人の罪や弱さが正当化されているわけではありません。神はご自分の主権に基づいて、初めの計画からすればみ心ではない事柄にも心を配られ、憐れみを示してくださるということです。たとえそれが私たちの罪の結果であれ、私たちがどうすることも出来ない事態に、神はいつも慈しみ深く関わってくださり、尻ぬぐいをしてくださるのです。
 私たちはこのお方のみ手に自分の人生を委ね、私たちの内に神のみ心が成っていくことを求めて生きていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 私たちの祈りを執り成してくださる御霊は、「神の御旨にかなうとりなし」をしてくださいます。私たちに対する神の御旨、深いご計画は、予め選び出してくださった私たちを完全に救ってくださることです。その目標に向かって、御霊がとりなしておられるというのです。
 だからこそ、パウロは有名な28節でこう述べます。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」。
神は私たちのために、全てのことが最終的には益となるように働き続けておられるというのです。
 「すべてのこと」と言われると、本当にそうだろうか?と疑問に思うことがあるでしょう。そのようには思えない現実があるからです。そうなると、本当の問題は、何を益とみなすか、ということであり、そもそも「これが最善である」と決めるのは誰か、ということです。私たちがこの聖句を読むとき、「全てのことは私が願っているような益へと変えられる」と読もうとするでしょう。益であるかどうかを判断するのは自分であると考えるのです。
 しかし、私たちにとって何が最善であるかを知っておられるのは神です。私たちを召された神は、私たち以上に、何が最善であるかを知っておられます。私たちの目には、今はそのことが見えないかもしれません。ずっと後になって、「本当に神が最善をなしてくださった」と気づくことがあります。それゆえ、私たちは御子をさえ与えてくださった神の愛を信じて、神が最善をなしてくださると信じて今を生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 教会堂を建てるときの起工式などでよく読まれるこの詩は、新会堂の建築を願う私たちが常に心に留めておくべき聖句です。表題に「ソロモンがよんだ都もうでの歌」とありますが、この1、2節には「むなしい」という言葉が繰り返されています。家を建てるのも、町を守るのも、また日々の労働においても、主が共にいて働いてくださるのでなければ、その人間のわざは空しい、と言うのです。これは人間の働きそのものを全否定しているのではありません。神の存在を計算に入れず、神を抜きにしてわざを進めようとすることの空しさを語っています。
 このように詩人が語るのは、私たち信仰者が、主に対する信仰を告白しながらも、現実的なわざになると、神を退け、自分たちの知恵や力だけで事を進めようとするからです。主なる神ではなく、いつの間にか自分たちが主人となってしまいます。そのような私たちに、主の導きに信頼し、具体的なわざにおいて、主を中心に迎え入れるようにと勧めます。
 出エジプトの民が荒野で幕屋を建設するときも、主が命じられたとおりに従いました。その主の御心を熱心に求めたからこそ、使徒行伝の教会は激しく意見をぶつけ合いました。しかし、一度結論が出ると、潔く自分の考えを取り下げ、「これぞ主の御心」と信じて一致協力しました。話し合いの中に、主が御心を現してくださると信じていたのです。
 主を中心にお迎えした神の民は、ヨルダン川を渡るときも勇気をもって踏み出し、幕屋を建設するときも、主によって心を動かされ、喜んでささげものをしました。私たちも「主が建ててくださる」と信じ、主のみわざに期待しつつ、信仰の一歩を踏み出して行きたいと思います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 私たちは罪による弱さとともに、被造物としての限界による弱さがあります。その弱さの一つの表れとして、大きな苦しみや悲しみに遭ったとき、どう祈ったらいいか分からない、という弱さに直面します。神に祈りたいことはたくさんあるにも関わらず、祈りの言葉が見つからず、ただうめくしかないことがあります。パウロは、祈れないのは私たちの不信仰によるのではなく、私たちの弱さだと言います。
 そのとき、私たちの内に住んでおられる御霊が、弱い私たちを助けてくださいます。御霊が同じようにうめきながら、私たちのために執りなしてくださるというのです。私たちはその御霊のうめきを聴くことはできません。しかし、御霊がうめきながら私たちのために執りなしておられることを信じることができます。
 その御霊は、私たちのために正しい執りなしをしてくださいます。それは、神の御旨にかなう執りなしです。私たちは自己中心のため、神の心に反するような祈りをささげることがあります。御霊は、私たちの願っているとおりになるように執りなすのではなく、神の御心に沿って執りなしをしてくださいます。
 パウロはさらに、この8章の後半で、御子イエスによる執りなしを紹介します。私たちのために十字架で命をかけて執りなしをしてくださった主イエスが、今は神の右の座にあって私たちのために執りなしをしておられるというのです。地上にあっては御霊がうめきをもって私たちの祈りを執りなし、天においては御子イエスが執りなし、父なる神がそれを聴いてくださいます。
 三位一体の神の働きがあるからこそ、私たちは苦しみの中で、「アバ、父よ」と叫ぶことができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)