バプテスマのヨハネは、パリサイ人とサドカイ人に対して「悔い改めなければ、来るべきメシヤである主イエスが、あなたがたに裁きを下す」と宣告しました。彼らは、自分の行いや血筋によって神から義と認められようとしていました。
 その根底にあるのは、受け入れられたい、見捨てられたくないという願いで、誰もが持っているものです。私たちはこれを、自分の力で勝ち取ろうして、自分で自分の正しさを示そうとします。しかし現実には、思うように生きられない自分に直面し、「私はダメだ」と自分を裁くようになるか、「私は、あの人のようではない」と他人を裁くことで安心するようになるのです。人を裁くことが出来るのは神だけなのに、自分が神の位置に立ってしまうのです。
 主イエスは、そんな私たちに「悔い改めよ」と語ります。悔い改めとは、心の向きを変えて、神に帰ることです。神から離れて、自分の力では帰れない私たちですが、主イエスの方が私たちに近づいて下さいました。「悔い改めよ。天国は近づいた。」とは、「わたしの所に帰っておいで。わたしはあなたの側にいる。」という主イエスの招きです。いつでも、どこででも、心の向きを変えて、主イエスに向き直るならば、そこにおられる主イエスを見出します。
 罪を裁く権威を持ったこのお方は、私たちに代わって十字架にかかり、神の怒りの裁きを受けて下さいました。能力や成果ではなく、私たちの存在そのものを無条件に受け入れて下さったのです。私たちは主イエスのみもとで、人を裁くという重荷から解放され、愛されている神の子として生きるようになるのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)

 ガリラヤ湖で弟子たちのこぎ出した舟が突風に見舞われ、舟の中に水が入り込んできました。ところが、主イエスはひとり眠っておられました。弟子たちは主イエスをたたき起こすようにして言いました。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」。自分たちの危機的状況に対して、何もしてくださらない主イエスに対して文句を言っている感じです。
 これに対して主イエスは、海に向かって、「静まれ、黙れ」と言われました。私たちであるならば、騒ぎ立てる弟子たちに対して、「静まれ、黙れ」と言いたくなるものです。けれども主は、弟子たちの求めに応じてまず風を静められました。その上で、「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか」と弟子たちに尋ねられました。これは、弟子たちの不信仰を叱っている言葉ではありません。神を信じ切ることのできない弟子たちの姿に、主イエスこそ驚き、「なぜ、どうして」といぶかっておられます。
 このとき、弟子たちは突風によって舟が沈みそうになっているのに、主イエスは何もせずに眠っているだけ、とい現実を見つめていました。しかし、彼らは大切な一つのことを見ていませんでした。主イエスが天地の創造者である父なる神に全てを委ねて眠っておられるという現実でした。どのような状況にあっても、私たちの命を御手に握っておられる父なる神に全てを委ねても大丈夫であることを、主イエスは身をもって指し示しておられたのです。「真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい」(第一ペテロ4:19)。
(仙台静まりのセミナー講師 太田和功一師)

 ローマにある教会に手紙を送るにあたり、パウロは自己紹介の後、これから自分が語ろうとしていることを要約するかのように、福音について述べます。福音という言葉は、戦争における勝利の知らせのことですが、聖書は、イエス・キリストの出来事を喜びの知らせとして、福音として語り伝えました。それはすでに旧約の時代から約束されていたものであり、神から生まれたものでした。
 その福音とは、「御子に関するもの」とパウロは説明します。福音とは、神の子キリストを語ることです。この中心点がズレるとき、教会で語られる説教が律法中心となり、信仰者としてどうあるべきかという人間中心の説教となります。そのため、「~してはならない」「~しなければならない」というような禁止や命令が多く語られ、その説教は人を解放するところの喜びの知らせではなくなり、かえって人を縛りつけるもの、抑圧するものになります。
 しかし、福音とはあくまで御子キリストを語ることが中心です。私たち人間がどう生きるべきかよりも先に、神が私たちのために何をしてくださったのか、を語るのが福音です。すなわち、神が人となってこの世に来てくださり、十字架に死に、三日目に蘇ってくださいました。
 この福音の出来事に対する人間側の応答が、「これがわたしたちの主イエス・キリストです」という告白です。パウロとローマの人々を結び、現代に生きる私たちをも結び付ける接点がココにあります。キリストの十字架による喜びの知らせを聴いた者たちは、「あなたこそ私たちの主」と同じ一つの告白をし、共に神の前にひれ伏す者とされるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 神の前に正しく歩んでいたヨブが突然の災難に見舞われ、一日のうちに10人の子どもと全財産を失い、さらには全身に悪性の腫れ物ができてもだえ苦しむようになりました。
 そこへ、3人の友人がヨブを慰めるためにやってきました。喪に服する時が終わると、彼らはヨブの隠れた罪を暴こうとして責め始めました。このような災難に遭うのは、何か大きな罪が隠れているに違いないと考えたのです。いわゆる因果応報のこの考えが、どれほど私たちを苦しめることでしょう。クリスチャンでさえも、大きな苦しみや悲しみに遭った人に対して、その出来事を勝手に解釈したり、安っぽい励ましの言葉をかけようとすることがあります。しかし、人間に過ぎない私たちには全ての出来事を理解することなど出来るはずはありません。
 友人たちとヨブとの議論が尽きたとき、神がついに沈黙を破り、ヨブに語りかけられました。それは、「なぜ正しい人が苦しむのか」という問いに答えるものではありませんでした。反対に、神への疑問を持っていたヨブに対して、神は逆に問いかけられました。「あなたは何者か」と。それは、いつの間にか神の位置に自らを置こうとしていたヨブの愚かさを気づかせる問いでした。そして、この世界のすべてを治めておられる神がおられることを教えるものでした。そのとき、ヨブは「なぜ」と問うことをやめました。神に対する絶対的な信頼が、そうさせたのです。
 私たちも、たとえどんなことが起こっても、神の愛の御手に握られていることを信じるとき、その人生を「これでよし」と受け止めることができるように変えられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 神の前に正しく歩んでいたヨブが突然の災難に見舞われ、一日のうちに10人の子どもと全財産を失い、さらには全身に悪性の腫れ物ができてもだえ苦しむようになりました。
 そこへ、3人の友人がヨブを慰めるためにやってきました。喪に服する時が終わると、彼らはヨブの隠れた罪を暴こうとして責め始めました。このような災難に遭うのは、何か大きな罪が隠れているに違いないと考えたのです。いわゆる因果応報のこの考えが、どれほど私たちを苦しめることでしょう。クリスチャンでさえも、大きな苦しみや悲しみに遭った人に対して、その出来事を勝手に解釈したり、安っぽい励ましの言葉をかけようとすることがあります。しかし、人間に過ぎない私たちには全ての出来事を理解することなど出来るはずはありません。
 友人たちとヨブとの議論が尽きたとき、神がついに沈黙を破り、ヨブに語りかけられました。それは、「なぜ正しい人が苦しむのか」という問いに答えるものではありませんでした。反対に、神への疑問を持っていたヨブに対して、神は逆に問いかけられました。「あなたは何者か」と。それは、いつの間にか神の位置に自らを置こうとしていたヨブの愚かさを気づかせる問いでした。そして、この世界のすべてを治めておられる神がおられることを教えるものでした。そのとき、ヨブは「なぜ」と問うことをやめました。神に対する絶対的な信頼が、そうさせたのです。
 私たちも、たとえどんなことが起こっても、神の愛の御手に握られていることを信じるとき、その人生を「これでよし」と受け止めることができるように変えられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 使徒パウロは自分がまだ訪れたことのないローマの教会に手紙を書き送るにあたり、自己紹介をもって始めます。そのとき、自分がいかに由緒ある家柄の出身であるかを誇示するのではなく、「パウロ、奴隷」と自らを名乗りました。当時のローマ帝国では、自由人の数十倍の数の奴隷がいました。パウロは身分としては奴隷ではなく自由人であり、それ自体誇らしいことでした。ところがパウロは、自らを奴隷として紹介したのです。
 奴隷たちの誇りは、誰の奴隷であるか、主人は誰かという点でした。パウロは、キリスト・イエスの奴隷であると、喜びをもって紹介します。かつて自由人として生きていたときは、本当の自由はそこにはなく、罪の奴隷として生きていたことをパウロはよく知っていました。悲しいことに、人は罪の奴隷として生きているとき、そのほうが自由な生き方であるように錯覚します。罪に抵抗するほうが不自由な人生であるように思ってしまうのです。しかし、人が自分を主人として生きようとするとき、周りの者たちを虐げ、抑圧し、奴隷状態へと追いやります。
 パウロはそのような罪の奴隷からキリストの僕(奴隷)へと変えられました。それは、キリストご自身が自らを僕として私たちの救いのために差し出してくださったからです。キリストの十字架によって罪の奴隷から解放されたとき、パウロは喜んで自らをキリストの前に差し出しました。罪の奴隷からキリストの奴隷へと仕える主人が変わりました。
 「イエスは主なり」と告白する私たちは、キリストに仕えて生きる喜びが与えられているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 主イエスが墓に葬られて三日目の朝、女性の弟子たちが香油を塗るために墓へと向かいました。ところが、墓の入り口は開けられ、中には主イエスの亡骸はありませんでした。彼女たちは、主が復活されたとは思いもせず、途方に暮れていました。
 そこに御使いが現れ、「そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ」と告げました。そして、「なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか」と、彼女たちの愚かさを指摘しました。探す場所を間違えているというのです。このとき、御使いは主イエスの復活の証拠として、空の墓を指し示すのではなく、「あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい」と言いました。復活を約束しておられた主の言葉を思い出すようにと言うのです。
 「思い出す」とは、ただ単に記憶を呼び覚ますというのではなく、すでに知っている知識に命が与えられ、「そうだったのか」と信じて受け止めることを意味します。同じ言葉を、彼女たちは三日前、十字架上の強盗が主イエスの憐れみを求めて言った言葉として聞いていました。「わたしを思い出してください」と。
 彼女たちは、かつて言われた主イエスの言葉を思い出しました。そのとき、彼女たち自身の信仰が蘇りました。「主は蘇って今も生きておられる」と。そして、その喜びの知らせを携えて、他の弟子たちのもとへと出て行ったのです。
 私たちも、主が生きておられることを信じられず、途方に暮れることがあります。だからこそ、共に毎週の礼拝に集い、神の言葉に聴きます。それにより、私たちも蘇りの命に生かされるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 厳しい荒野の旅を続けていた民は、食べ物がないと言ってつぶやきました。毎朝神が天から降らせてくださるマナが与えられていながら、「この食べ物には飽き飽きした」と不平を言ったのです。神は怒りを発し、へびを彼らのもとに送られました。咬まれた者たちはその毒が回り、焼け付くような傷みと高熱で苦しみながら、次々と死んでいきました。
 民は自分たちの罪を悔い、モーセに助けを求めました。モーセが主にとりなしの祈りをささげると、主はモーセに、ヘビの像を造り、それを竿の上につけて掲げるようにと命じました。そして、「すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」と約束されました。
 モーセは主の命令に従い、青銅でヘビの像を造り、それを竿の上に掲げ、「このヘビを仰ぎ見る者は生きるであろう」と告げました。ヘビは忌み嫌われる神に呪われた動物であり、これを神として拝むというのではありません。命を約束された主の言葉を信じて、ヘビを仰ぐという信仰を求められたのです。そして、主の言葉を信じて上げられたヘビを仰いだ者たちは、約束のとおりに生きることができました。
 後に、主イエスはこの出来事を引き合いに出しながら、「人の子も上げられなければならない」と言われました。その言葉のとおり、やがて主イエスは神に呪われた者として十字架に上げられ、信仰をもって仰ぐ者たちを救う道を開いてくださいました。一緒に十字架につけられた強盗も、十字架の主イエスを信じて仰ぎ、救いを約束されました。今も、十字架の主イエスを仰ぐ者たちは、命に生きることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 イスラエルの民が神に礼拝をささげるために、妨げとなっている罪を取り除くための贖いのわざが必要でした。聖所では、毎日、祭司によって動物の犠牲がささげられました。
 そして、一年に一度の大贖罪の日には、大祭司が至聖所に入り、すべての民の罪のために贖いのわざを行いました。まず自らの罪のために犠牲をささげた後、二頭の山羊を用意し、くじに当たった最初の山羊を殺してその血を取り、大祭司はその血を携えて至聖所に入り、贖罪所に注ぎました。血を流すということは、命をもって罪の償いをするということです。人間の代わりに、動物が犠牲となり、その血が注がれました。
 次に、もう一頭の山羊を連れて来て、大祭司はその頭の上に両手を置き、イスラエルの人々のあらゆる罪を告白しました。それは、民の罪を山羊の上に移して負わせることを意味しました。その上で、その山羊を殺すことなく、遠く荒野へと放ちました。「アザゼル」とは、除去するという意味であり、罪を負った山羊を荒野へ放つことにより、民の中から罪が取り除かれたことを意味しました。これは、先に犠牲としてささげられた山羊による贖いのわざの意味を見える形で表したものでした。
 御子イエスが現れたとき、バプテスマのヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と紹介しました。主イエスは私たちの罪のために、大祭司となり、自らの命を犠牲としてささげられました。これにより、私たちの罪のために贖いのわざは成し遂げられました。このわざはもう繰り返される必要はありません。主の十字架の贖いにより、私たちは大胆に神に近づくことができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ヨハネは手紙の最後に「気をつけて、偶像を避けなさい。」と記しました。偶像とは、「これがなければ生きていけない」と思うもの、神よりも大切な存在のことです。私たちは、空しさや寂しさ、孤独や不安を覚える時に、お金、地位、名誉、愛情、趣味、娯楽、嗜好品、スマホなど日常にある様々なものに慰めや癒しを求めます。本来は良いものであっても、それを失えば生きていけないと思うほどに大切な存在になる時、それは偶像に変わります。
 偶像は、自分の願いを叶えてくれる神として、私たちの心が作り上げるものです。しばしば偶像は、一時的に私たちの欲求を満たしてくれるため、そこから離れられなくなるのです。偶像の奴隷、罪の奴隷の状態です。偽りの神々の支配から解放されるには、まことの神を神として礼拝するしかありません。
 私たちが神を知り、神に立ち返るようになるため、まことの神である主イエスがこの地上に来られて、神がどのようなお方かを明らかにして下さいました。主はこの地上で、多くの力ある神のみわざを行いましたが、人として生きることで、私たちと同じ痛み、苦しみ、孤独をも味わわれました。それ故主は、私たちの弱さをご自分の経験として知っておられます。それだけではなく、偶像を作り続ける私たちを受け入れ、ご自身がその罪を全て背負って、十字架に命を捨てて下さいました。
 自分の内に偶像を見出す時は、自分の弱さに直面する時です。それはまた、そんな私をも愛して下さったお方を知る時でもあります。このキリストの愛が、私たちを偶像に支配されない者へと変えていくのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)