パウロはこれまで語ってきたことの結論のようにして、「ユダヤ人もギリシャ人も、ことごとく罪の下にある」と言います。、「義人はいない、ひとりもいない」とあるように、神の前ではすべての人は罪人であるというのです。その決定的な態度は、神に対する畏れがないことです。神に造られた存在でありながら、神を畏れず、自分が神のようになって生きようとします。そこに人間の罪の根源があります。
 その上で、ユダヤ人が誇りとしていた律法の意義について、律法を行うことによっては義とされることはなく、「律法によっては、罪の自覚が生じるのみ」と語りました。これは、それまでの律法理解を逆転させるものでした。ユダヤ人たちは、律法によって自分たちの正しさが証明されると考えていたからです。ところがパウロは、律法によって隠れていた罪が明らかになり、罪人であるとの自覚をもたらすことになる、とその意義を説明しました。これは、律法が態度を変えてしまったのではなく、人間の罪が律法をそのような役割を果たすものとしたのです。
 そして、「罪の自覚が生じるのみ」とパウロは語りましたが、私たちのうちに罪の自覚が生じたならば、これは大きな恵みです。そのとき初めて、自分の中には救いの可能性がないことが分かり、キリストによる救いを求めるようになるからです。  ルカ18章にあるパリサイ人と取税人のたとえにあるように、私たちは神に赦しを願い求めるしかない者たちです。神はそのような者たちに赦しを与えてくださいます。そして、神による赦しを信じるからこそ、その神を畏れ敬う者とされるのです。

 パウロによってユダヤ人も異邦人と同じように罪人であると言われた彼らは、神の正しさを問題にします。ユダヤ人の不義によって神の義が明らかになるなら、怒りを下す神は不義なのではないか、と。このユダヤ人のように、罪を指摘されてもそれを素直に認めようとせず、どこまでも自分を正当化しようとする人がいます。屁理屈を並べ立ててでも、自分は正しいと主張します。そこが崩れてしまっては、自分の存在の基盤が崩れてしまうからです。
 パウロは、「断じてそうではない」とこれを断固として否定します。神が不義であったら、もはや神が世をさばくことができなくなるではないか、と言うのです。
 それでも、ユダヤ人の屁理屈は続きます。私たちの罪のおかげで神の真実、栄光がより鮮やかに表されるのであれば、どうして罪人としてさばかれなければならないのか。むしろ、神の栄光のために、大いに悪を行おうではないか、と福音を曲解する人々さえいました。
 これに対してパウロは、「彼らが罰せられるのは当然である」と語りました。この「罰せられる」という言葉は、福音書では主イエスの十字架の場面で使われています。当然罰せられるべき私たち罪人に代わって、罰せられるはずのない御子が十字架で死なれました。私たちを罪から救い出すためでした。本来は、この主イエスの十字架こそ、不当なさばきでした。
 しかし、この主イエスの十字架によって、救いの道が開かれました。キリストのゆえに、「わたしもあなたを罰しない」と主は私たちに赦しを告げてくださるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 パウロはユダヤ人から出されるであろう反論を想定し、それに答える形で論を進めます。まず、ユダヤ人の優れている点は何かあるのか、と問います。パウロは、神の言葉が委ねられたことがそれであると答えます。ところが、神の信任を受けた彼らはそれに応えることができず、不真実に終わったというのです。
 すると、ユダヤ人が不真実に終わったとすれば、その彼らを選んだ神ご自身も不真実なのではないか、という問いが出されます。自らの罪が問われたとき、それを素直に認めようとせず、反対に神のほうが悪いと言うのです。ここに私たち罪人の姿が表されています。
 この「神は不真実なのか」という問いに対して、パウロは「断じてそうではない」と答えます。そして、「あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである」と語ります。信仰とは、どんなときも、何があっても、神を真実とすることです。これは信仰の原点とも言うべきもので、ここがズレしまっては、信仰はもはや成り立ちません。ところが私たちは、何か厳しい出来事が身に起こると、神の真実を疑い始めます。そのとき、自分自身が基準となってしまいます。
 私たちの神の真実は、御子イエスの十字架に見事に現されました。罪人をどこまでも愛し続ける神の真実が勝利をおさめたのです。
 この神の真実があるからこそ、私たちはどんなときも神を信じることができます。周りに起こってくる出来事をとおしてではなく、神の言葉によって神が真実なお方であると信じるのです。この神の真実を土台として、信仰の歩みは続けられます。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ヨセフは父ヤコブに溺愛されたため、兄たちの恨みを買い、あるとき兄たちに捕らえられ、エジプトへ行く商人に売られてしまいました。そのエジプトで、奴隷として主人ポテパルのもとで仕えていましたが、その妻の虚言により、投獄されてしまいました。どん底へと突き落とされてしまったのです。
 ところが、牢獄で出会った王の側近の夢を解き明かしたことから王の夢を解き明かすことになり、ヨセフはエジプトの総理大臣に取り立てられました。エジプトには、7年の大豊作の後、大飢饉が襲いました。すると、ユダヤからヤコブの息子たちが食糧を買い求めにヨセフのもとへやってきました。ヨセフはすぐに兄たちだと気づきましたが、しばらくはそれを隠し、兄たちが昔と変わっているかどうかを試しました。
 ヨセフによる最後の試みが終わり、自分がヨセフであることを明かしたとき、兄たちは驚き恐れました。自分たちが売り渡した弟が、今やエジプトの総理大臣となって目の前にいたからです。しかし、ヨセフは兄たちに「私をここに遣わしたのは神です」と語りました。自分の身に起こった数々の出来事を振り返り、神の深いご計画の中でこれらのことが起こったと受け止めたのです。
 私たちの人生にも、どうして?と思えるようなことが起こってきます。そのとき、人生の主語を「私」から「神」に置き換えるとき、人生の意味が変わってきます。過去の出来事そのものは変わりませんが、その意味は変わります。神が生きておられ、私たちの人生に働きかけ、恵みをもって導いておられたことに気づかせていただくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 

 自分たちがユダヤ人であることを誇りとしていた人々に対して、パウロの厳しい批判が語られています。「ユダヤ」という言葉は「賛美」という意味ですが、彼らは自らを誇り、讃えていました。その彼らの誇りの一つは、自分たちが神から律法を与えられた民であることでした。そして、律法を持たない異邦人たちの教師、導き手であると自任していました。けれどもパウロは、教える立場にある彼らが律法に違反していると、その罪を厳しく指摘しました。
 ユダヤ人たちのもう一つの誇りは割礼を受けている民ということでした。父祖アブラハムが神と契約を結ぶにあたり、そのしるしとして割礼を受けました。それ以後、ユダヤ人は割礼を受け、神の民のしるしとしました。その割礼は、あくまで契約の民のしるしであって、彼らが契約の言葉、律法を守り行っていない以上、彼らの割礼は無意味であるとパウロは指摘しました。彼らは中身の伴わない、見せかけのユダヤ人に過ぎないと断罪したのです。
 すべての人に必要なのは、外側の形に救いの確かさを求めるのではなく、あるいは自分が持っている何かに求めるのでもなく、神の霊によって心が新しく造り変えられることが重要でした。旧約の預言者エゼキエルが見た幻のように、神の霊は死んだような者たちを生かす力があります。パリサイ人ニコデモに主イエスが語られたように、神の霊によって人は新しく生まれることができます。この神の霊は今も生きて私たちのうちに働いておられます。霊感を受けた神の言葉の働きにより、私たちは造り変えられ、神の子とされる誉れを受けることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 スリヤの将軍ナアマンは重い皮膚病を癒してもらうために、神の預言者エリシャを訪ねました。馬と戦車、大量のお土産と多くの僕を従えて、プライドの塊となって出かけて行った彼は、自分は将軍として敬意を持って迎えられ、ありがたい儀式で癒やされるに違いないと確信していました。ところがエリシャは顔も出しません。人をよこして、「ヨルダン川で身を7回洗いなさい」と、ただそれだけです。自分のシナリオ通りにいかなかったナアマンは怒り心頭に発し、神の言葉を拒絶して帰ろうとします。しかし僕たちに諭され、思い直して神の言葉の通りにしてみると、彼の皮膚病は完全に癒されたのでした。
 「私のシナリオ」はしばしば主権は神ではなく、私にあります。自分のこだわりや思い込みに固執して、神を自分の思い通りに動かそうとします。しかし、「天が地よりも高いように、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」と主は言われます(イザヤ書55:9)。神は私たちの思いよりも遙かに高く、深い御心をもって、私たちの人生に大きな祝福のシナリオを用意してくださるのです。
 私たちの罪を赦すために、み子キリストを私たちの身代わりに十字架につけてくださったお方が、愛をもって私の人生の主権を取ってくださいます。そして、「心配することはない、神のシナリオに生きよ」と私たちを招いておられます。様々な迷いや不安を抱えつつも、このお方の導きに従っていこうではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 神の民ユダヤ人たちは、自分たちは神から律法が与えられた特別な民だから、異邦人と同じようにさばかれることはないと思っていました。これに対してパウロは、ユダヤ人も異邦人も、それぞれ自分の行いによってさばかれるのであり、神はユダヤ人だからといってえこひいきなどされない方であると語りました。
 律法が与えられているユダヤ人は律法に照らしてさばかれるのですが、律法を持たない異邦人は、何によってさばきを受けるのでしょう。律法を持たない異邦人の心にも律法の要求が記されていて、それによってさばかれるとパウロは言います。その心には良心があって、訴える自分と弁護する自分の二人が、自らの行いをさばく働きをします。そのように、ユダヤ人も異邦人も、分け隔てなく、神の御心の光に照らされてさばきを受けることになります。
 私たちは、神のさばきの光に照らされることを避けようとします。しかし、神の前に自らの姿を正直に見つめるならば、「自分は大丈夫」と言える人などいなくなります。そこに、ただ神の憐れみにすがるしかない自分の姿が見えてきます。そのとき、「神には、かたより見ることがない」という聖句が喜びの知らせとなります。神はさばきのときだけでなく、救いにおいてもえこひいきすることなく、すべての人を救いへと招いてくださるからです。えこひいきすることのない神の恵みによって私たちに救いが与えられます。
 私たちに求められていることは、神が差し出しておられる救いの恵みを受け取ることです。えこひいきとも思える自分に対する恵みを、感謝をもって受け取るのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 主イエスはヨルダン川に来られて、ヨハネからバプテスマを受けようとしました。この御方が来るべきメシヤだと分っていたヨハネは、これを止めようとします。しかし主イエスは、これが「すべての正しいことを成就する」ことだと語り、バプテスマを授けるよう求めました。
 「正しいこと」とは、「義」とも訳される言葉で、多くの場合「神の義」という意味で使われます。損なわれた神と人との関係を、正そうとする神の意思を表す言葉です。罪人を、何とか救おうとする神の愛の御旨のことです。主イエスは、ご自分がバプテスマを受けることは、神の義を実現することだ、と語ったのです。こうしてバプテスマを受けると、主イエスに聖霊が下り、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」と天から声がかけられました。主イエスは神に愛され、喜ばれている神の子だったのです。
 罪のないお方が、罪人と同じ姿でバプテスマを受けたのは、罪を抱えた私たちと一つとなるためでした。この後主イエスは、十字架をも、神の義を実現することと受け入れ、ご自分の命をも投げ出して下さいました。私たちの罪を全て背負うまでに、私たちと一つとなられたのです。
 神の義が目指していたのは、私たちをご自分の子として迎え入れることでした。主イエスを救い主と信じ、バプテスマを受ける時、どんな人でも主イエスと一つとされ、主イエスと同じ神の子とされます。あの日、主イエスに下った聖霊を私のものとして頂き、主イエスにかけられた声を、私への声として聴くことが出来るのです。これは、どんな時にも変わらない栄光の身分なのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)

 他者をさばく者たちに、パウロは「あなたには弁解の余地がない」と告げます。人をさばくということは、自分を基準とし、自分をものさしとして人の良し悪しを判定します。そこに、自己絶対化が生じます。人をさばくとき、私たちは自分を神としてしまうのです。
 しかも、気づかないうちに、自分も同じことをしています。そのため、他者をさばきながら、自分自身に対して判定を下していることになります。それゆえ、言い逃れすることはできません。
 ところが、他者をさばきながらも、自分は神のさばきから逃れうると考えてしまいます。パウロがここで直接語りかけていたのはユダヤ人に対してでした。彼らは前の章で異邦人の罪について語られていることを聴きながら、「そのとおりだ」と思っていたでしょう。ところが、「あなたがたも同じ罪を犯しているではないか」と指摘されたのです。ユダヤ人たちは、自分たちは神によって選ばれた特別な民であるゆえ、さばかれることはないと思っていました。
 しかし、そうではありません。神はさばきを直ちに下すことを控え、私たちが悔い改めるのを待っておられるのです。神のさばきがないのではなく、慈愛と忍耐と寛容をもって、私たちが悔い改めるようにと呼びかけつつ、待っておられます。この大きな恵みを拒むことは、終わりの日に向けて、神の怒りを積んでいることになります。
 悔い改めへと導く神の愛が注がれているからこそ、私たちは神のもとに帰ることができます。生かされているということは、神が愛をもって待っておられることなのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 

 私たちは日常生活の中で、常に先のことを気に掛けながら過ごしています。そのため、今このときを精一杯生きることよりも、体はここにありながら、心は明日へ、明後日へと離れてしまうことがあります。
 そのような私たちに、主イエスは「思いわずらうな」と言われます。思い煩いに生きるとき、私たちを顧みておられる神がおられることを忘れて生きてしまうからです。そこで主は、「空の鳥を見るがよい」と勧められました。鳥は思い煩うことなく、今日を生きるためにエサを求めて飛び回っています。それができるのは、天の父なる神が小さな鳥たちをも養っておられるからです。
 その上で、主は「あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか」と言われます。神は私たち一人一人を、はるかに価値がある者と見ていてくださいます。御子キリストを身代わりにするほどに、私たちは尊んでおられます。
 そのような顧みの神がおられるからこそ、「明日を思いわずらうな」と言われます。明日のことは、本当の支配者である神の御手に委ねます。それが、神の国を第一に求めるという姿勢です。王なる主は、私たちの明日をも御手に治めておられます。私たちは安心して明日のことを主に委ねることができます。
 明日のことも心配する私たちに、「一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と主は言われます。その同じ主が、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」と言われます。今日も明日も、主の恵みは十分に私たちに注がれています。この神に信頼して、私たちは今日を精一杯に生きることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)