大きな地震に見舞われた熊本教会を訪問しながら、黄金律とも呼ばれるこの聖句を思い起こしていました。主イエスは、聖書が語っていることはこれである、と言われました。
 主イエスはここで、他の人のために何かをしてあげようというとき、自分に置き換え、「自分だったらどうだろうか」と考えることから始めるようにと言われます。自分がして欲しいと望むことを、相手にしてあげるようにというのです。このとき問題となるのは、私たちが思いつくことが、必ずしも相手もそのように望むとは限らないということです。こちらの思いと、受ける側の気持ちとにズレが生じるのです。そのとき、私たちは自分の考えを相手に押しつけようとすることがあります。相手が何を願うかよりも、自分がしてあげたいことをしようとするのです。隣人を愛するときにでさえ、私たちは自己中心になってしまいます。
 人を愛するということは、相手を中心にして考えることです。そのために、相手の僕のようになって仕える姿勢が必要となります。そしてそれを実践しようとするとき、私たちは自らの愛が足りないことを痛感させられます。だからこそ、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」と約束された主に、愛を求めるしかありません。神は求める者たちに良いものを与えてくださると約束されました。事実、父なる神は、私たちの救いのために、最も良いものである御子キリストを与えてくださいました。その御子は、私たちのために命をさえ与えてくださったのです。
 このキリストの愛を受けるとき、私たちは初めて、他者に仕えて生きる力が与えられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 人は自分に罪や過ちがあると思うとき、自分の顔や存在そのものを隠そうとするものです。これに対して、周りの人はそれとは反対に、その隠れている罪を暴こうとします。
 ペテロはそのような私たちに対して、「何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪をおおうものである」と勧めます。他者を愛するということは、その人の罪を暴こうとするのではなく、その罪を覆ってあげることであると。それは、罪をうやむやにすることではありません。罪を罪として認めた上で、それを覆うのです。これは、罪の赦しを意味する旧約聖書的表現です。
 「罪をおおう」と聞くと、それは甘やかしの態度であるように思う人がいます。罪を暴くことのほうが正義であると考えるのです。しかし、私たちの中に、他人の罪を責める資格のある人など果たしているでしょうか。私たちはお互い、罪を持った者たちなのです。
 罪を責められるだけでは人は変わりません。自分が赦されていることが分かったとき、真の悔い改めがそこで起こります。ペテロ自身、主イエスが捕らえられたとき、主を三度も否定するという大きな失敗を犯した人でした。そのとき、主イエスはペテロを責めるのではなく、彼を赦した上で、彼の回復のために祈られました。ペテロこそ、主によってその罪を覆っていただいた者でした。
 だからこそ、他者の罪をおおってあげる愛に生きるようにと勧めます。それは、私たちも主の十字架によって罪をおおっていただいた者たちではないか、と訴えです。主の十字架の愛に応えて、赦しの愛に生きる者でありたいと願います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 弟子たちに主の祈りを教えられたとき、主イエスは2回繰り返して、「だから」と言われました。異邦人のようにくどくどと祈るでなく、全てを知っておられる神を信頼して、こう祈りなさい、と言われました。
 前半の三つは、神についての祈りですが、神のためにとりなしの祈りをするのではなく、私たちが神の前でどう生きるべきなのか、その姿勢を整えるための祈りです。私たちが神を第一として生きることを求める祈りです。
 この主の祈りの最後に、「試みに会わせず、悪よりお救いください」と祈ります。試みとは、誘惑と同じ意味です。試練に遭うとき、誘惑にも遭います。何とかして神に信頼させないように、神以外のものに信頼し、神に従うことをやめさせようとする誘惑です。ゲツセマネの園で主イエスが苦しみの祈りをされたとき、ペテロたち3人の弟子たちは眠り込んでしまいました。そのとき、「誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい」と命じられました。私たちは自分の力で悪の力に勝つことはできません。だからこそ、目をさまして、すなわち、自分の弱さを自覚しつつ、主の助けを祈り求めることが必要です。
 私たちが自分の力を過信し、誘惑に対しても眠ったような状態でいると、悪しき者の誘惑に無意識で反応してしまいます。そのために、言葉や行動において誰かを傷つけてしまったりします。
 私たちは、自分の力ではサタンの誘惑に勝つことなどできないと深く自覚するからこそ、心の目を覚まし、主の助けを求めて祈り続けようではありませんか。
(「静まりのセミナー」講師 太田和功一師)

 ローマ・カトリック教会などでは、十戒の第二戒を第一戒の中に含めて、異教の神に対する偶像礼拝を禁じたものと理解します。しかし、私たちはこの第二戒を第一戒と区別し、これを真の神を像に刻むことを禁止したものとして理解します。
 霊なる神を形にするということは、神を被造物と同じモノにしてしまうことであり、人格を持たず、ものが言えない存在にしてしまうことです。これにより、私たち人間がこの神に向かって一方的に語るだけの信仰生活になります。これにより、神と私たち人間の立場が逆転してしまいます。
 人が神を形にして造ろうとするのは、「自分のために」とあるように、自分にとって都合のいい、自分の役に立つ神を求めるからです。そのとき、私たちが主人となり、神を僕としてこちらの言うことを聞いてもらう、そのような信仰生活に陥ります。私たちが偶像を造るということは、自分にとって都合のいい、自分のイメージに合う神を造ろうとすることです。それは、私たちが神に似せて造られたという創造のわざに反することを行うことになります。ここに、人間と神との立場が転倒してしまう罪の姿があります。この第二戒は、そのような転倒からの悔い改めを促す勧めです。私たちは自分のために神を造るのではなく、神のために生かされている者たちなのです。
 この大きな方向転換は、私たちのために人となられたキリストが、私たちのために十字架で命を捨ててくださった、という大きな恵みを知るときに起こります。キリストの恵みに応えて、今度は神のために生きる者へと変えられていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 私たちは、多くの恐れを抱えながら生きています。その中で、私たちの生き方に暗い影を落とすのは、対人関係における恐れです。人から受け入れられない時、認められない時、見捨てられる時、私たちの心は深く傷つきます。こうして人の裁きや評価を恐れるようになるのです。
 ヨハネは、「愛には恐れはない。完全な愛は恐れをとり除く。」と語ります。ここで語られている愛は、神の愛、キリストの愛です。父なる神は私たちを愛し、大切な独り子を十字架につけるために、この地上に遣わして下さいました。私たちを御子の命よりも大切な存在と見て下さったのです。遣わされた主イエスは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかり、私たちの代わりに父なる神から捨てられて下さいました。
 ゲツセマネの園で主イエスが経験された深い恐れは、神から捨てられることへの恐れでした。主は私たちの恐れを全てご存知です。ご自身が、見捨てられることの痛み、愛されないことの孤独、受け入れらないことの苦しみ、それを避けたいという思い、その全てを味わわれたからです。このお方が、恐れの只中にあっても、いつも私たちと共にいて下るのです。ここに、様々な人生の嵐の中にあっても、安心して生きて行ける希望があります。
 キリストの愛によって、恐れの根源である罪はとり除かれました。もはや私たちは、神に見捨てられることは決してありません。十字架の愛を受け取る時に、私たちも主イエスと同じ神の子とされるからです。主イエスを信じる私たちに対する父なる神の裁きは、「あなたはわたしの愛する子」という愛の声なのです。
(仙台南光沢教会 信徒説教者 横道弘直)

 私たち人間にとって、死は克服しがたい最大の敵です。「死の力を信じる」と言ってもいいほどに、死の力に支配されて生きています。パウロが手紙を書き送ったコリントの教会にも、死の圧倒的な力を信じて、死人の復活を信じることができない人々がいました。キリストの甦りは信じても、死人の甦りは信じることができないでいたのです。
 パウロは、キリストの甦りと人間の甦りは別物ではなく、キリストの甦りを信じるなら、当然、死人の甦りを信じるはずだと述べます。死人の甦りを否定することは、キリストの甦りを否定することになるからです。そしてもし、キリストが甦らなかったとしたら、私たちの信仰は土台から崩れてしまいます。私たちは今なお罪の中に生きていることになってしまいます。なぜなら、死はキリストをも呑み込んでしまったことになり、キリストは支配者ではなく、死こそ支配者だということになるからです。
 問題の焦点は、神が十字架につけられたキリストを甦らせたのかどうか、という一点にあります。事実、聖書に書いてあるとおり、キリストは死から復活されました。私たちの罪のために十字架で死なれたキリストを、神が甦らせたのです。それは、私たちの罪の赦しを神が承認してくださった、ということです。私たちを罪と死の支配から解放するために、御子キリストは十字架にかかり、甦られたのです。
 キリストの甦りのゆえに、死はもはや私たちの支配者ではなくなりました。復活して今も生きておられるキリストこそ、私たちの人生の支配者、主となってくださったのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 12弟子のひとりであったユダは、主イエスこそ、イスラエルをローマの植民地支配から解放する王であると信じていました。しかし期待外れの主イエスに失望したユダは、わずか銀貨30枚で、主を祭司長たちに引き渡してしまいました。
 最後の晩餐の席で主イエスは、「人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」。と仰いました。私たちも、自分の思い通りにならないなら主イエスなどもういらないと言って、神がせっかく与えてくださったひとり子を、その愛と命を捨ててしまうことがあります。それは、生まれてこなかったほうがよかったと言わなければならないような、重大な罪なのです。
 しかし、「わざわいである」とは「ああ」という嘆きの言葉であり、主は罪深い私たちを、子どもに背かれた母の嘆きにも似た悲痛な心で、悲しんでおられます。そして、私のもとに帰って来なさいと、愛と赦しをもって招いておられるのです。
 「自分の思いや期待とは違うというつまずきを乗り越えて、私に従ってくるのか、それとも、イエスなどもういらないと私を捨てるのか、あなたはそれを自分で決めなければならない。そして私は、今でもあなたを愛する弟子として招き続けている。ずっと待っている」、そのように主は私たちに語りかけています。
 私たちの罪を赦すために、その尊い命を惜しげもなく捨ててくださった主イエスです。私たちは、たとえどのような罪を抱えていても、決して見捨てることなく招き続けてくださる主の愛に、安心して飛び込んで生きていこうではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 十戒の中の第一戒は、その後に続く九つの戒めの土台となるものであり、私たちの信仰生活の第一ボタンとも言うべきものです。ここを外しては、信仰生活は成り立たなくなってしまいます。
 その第一の戒めは、「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」です。主を礼拝しながら、他のものをも同時に拝むようなことがあってはならない、ということです。エジプトに長い間住んでいたイスラエルの民には、かつての偶像礼拝の生活へと逆戻りする危険がありました。だからこそ、まず初めに、神だけを神とするように命じる必要があったのです。
 私たちキリスト者は、救われたときから、もはや他の偶像の神を拝むようなことはなくなったことでしょう。しかし、神という名がついていなくても、被造物に過ぎないものをまるで神であるかのようにして生きてしまうことがあるのではないでしょうか。お金や富をはじめ、地位、名誉、評判などあらゆるものを神としてしまいます。すなわち、父なる神以上に私たちが寄り頼む存在があるとすれば、それが私たちにとっての神となっている、ということです。その究極は、自分が神になって生きようとすることです。
 この第一戒は、私たちをそのようなところから回復させるところの悔い改めへの招きです。私たちのために十字架にかかってくださった主イエスを「私の神、私の主」として生きるようにと招きます。命まで与えてくださったお方以外に、私たちには神は必要ではなくなったのです。十字架の主のみ前に、「あなたこそ主」とひれ伏したいと願います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 十戒と聞くと、神からの厳しい戒めというイメージを持っている方がおられるでしょう。この十戒を正しく理解するためには、その前文にあたる2節の言葉を正しく受け止めることが必要です。
 神は契約を結ぼうとしている民に大切な言葉を語るにあたり、自己紹介をされました。「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」。神はイスラエルの民に向かって、「わたしはあなたの神である」と告げられました。民の熱心さによるのではなく、ご自分のほうからそのように名乗り出てくださったのです。
 しかもそのお方は、彼らを奴隷となっていたエジプトの地から解放してくださった救い主であるというのです。そのように語られることによって、主はイスラエルの民を宝の民として愛しておられることを明らかにされました。そのような神が語られる言葉は、たとえどのように厳しい言葉であったとしても、彼らを苦しめる意図をもって語られるはずなどありません。彼らが健やかに生きることをひたすら願って語られる、命の言葉です。
 この主の言葉は、私たち一人一人に対する語りかけでもあります。神は私たちを宝と見なし、そのために御子キリストをお与えくださいました。キリストが十字架で命をかけて救い出してくださった私たちに対する言葉は、常に愛に基づく言葉です。たとえどんなに厳しい言葉であっても、私たちの救いを願い、祝福を願って語ってくださる言葉です。私たちはその愛に応えて生きるようにと招かれているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 12年間も難病を患っていた女性がいました。彼女は律法によって汚れた者とされ、社会から隔離されて大きな苦しみを負っていました。しかしある日、せめてみ衣にでも触れば治していただけるだろうと信じて主イエスにそっとふれると、その病気はたちまち癒やされたのでした。
 主イエスは彼女に、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」とおっしゃいました。
 彼女の信仰とは何でしょうか。それは彼女が、本来は信仰と呼べないようなやり方かもしれませんが、それでも主イエスの救いをひたすら願って、すがるように手を伸ばしたことです。主イエスを求め慕う思いがちょっと間違っているなら間違っているままで、しかし、このお方にこそ私を救う力があると信じて、彼女は主イエスに全てをかけました。
 すると自分ではそれを信仰などとは思っていなくても、主イエスの方で、「これがあなたの信仰だ。その信仰に私は喜んでこたえる」と言ってくださり、恵みのみ業を現してくださったのでした。
 私たちの姿勢も、本来の信仰のあり方からすれば相応しくないかもしれません。しかしそれでも、ただひたすら主に頼って主の服に触るような礼拝をささげるとき、主は「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言ってくださいます。そして「人生のあらゆる問題や苦悩や矛盾を、神の恵みにすっぽり包み込んでもらって、あなたは安心して生きていくことができるのだ」と、私たちの人生を保証してくださるのです。
 この励ましのみ言葉を聞きつつ、私たちもただひたすらに、主に寄り頼んでいこうではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)