行いによらず信仰によって義とされる幸いは誰に及ぶのかについて、割礼の者だけでなく、無割礼の者にも及ぶことを、パウロは再びアブラハムを例にあげて語ります。パウロがわざわざこのことを語るのは、ユダヤ主義キリスト者たちが、異邦人が救われるためにはまず割礼を受けて、ユダヤ人と同じようになってからであると言っていたからです。信仰によって義とされることを否定しないものの、信仰プラス割礼であると主張していました。
 そこでパウロは、アブラハムが義とされたのは、割礼を受ける前のとき、無割礼のときであったと指摘します。割礼がなくても、アブラハムは神に義と認められたのです。その後に受けた割礼は、神に義と認められたことのしるし、証印であると言います。ユダヤ主義者たちは、義認と割礼によるしるしとの関係性を逆転させてしまい、割礼を受けなければ義とされない、と主張しました。
 これは律法との関係においても同じです。人は律法を守り行うことによって義とされるのではなく、一方的な神の恵みを感謝して受け取ることによってのみ、救いにあずかることができます。ところがわたしたちは、ユダヤ人たちが割礼を重んじたように、信仰にプラスして、人間側の行いを救いの条件にしようとしてしまいます。
 パウロは改めてそれを否定し、「すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって」と告げます。何の行いもない者たちが、主がわたしたちの代わりに十字架にかかってくださったゆえに、救いがもたらされました。わたしたちはただ恵みを感謝して受け取るだけなのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 全ての人は行いによるのではなく、信仰によって義とされることを例証するために、パウロは信仰の父アブラハムを登場させます。私たちは、自分はアブラハムのような立派な信仰などない、と思ってしまいます。そのように考えることによって、信仰という名の良き行いに変質させ、形を変えた行為義認に陥ります。
 パウロはここで、アブラハムを立派な信仰の持ち主として紹介するのでなく、行いのない人、不信心な者の代表として連れ出します。そのアブラハムについて、聖書は「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」と語ります。
 このときの出来事は創世記15章に記されていますが、アブラハムは簡単に神の言葉を信じたわけではありませんでした。子どもが与えられなかったアブラハムは、跡取りとして養子を迎える予定であると主に答えました。これに対して主は、アブラハムから生まれる子が跡継ぎとなることを語り、それを確かなものとするために、星空を見せながら、その星のように子孫が増え広がるとの約束を与えました。この神の力強い言葉に押し切られて、アブラハムは主を信じました。神の約束を受け取ったアブラハムに対して、主は「それでよし」と言われたのです。
 アブラハムだけでなく、イスラエルの最高の王ダビデも、姦淫と殺人の罪を犯したときに、行いがないにもかかわらず、神の一方的な恵みと憐れみによって罪赦されました。
 アブラハムやダビデがそうであるように、私たちも、不信心な者を義としてくださる神に押し切られるようにして、主を信じ、それによって義と認めていただくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 神のみ前にひれ伏す真実な礼拝へと招いた詩人は、「どうか、あなたがたは、きょう、そのみ声を聞くように」と勧めます。プロテスタント教会の礼拝の中心は、神の言葉の説き明かしである説教を聴くところにあります。神の言葉を神の言葉として聴く姿勢をもって、「あなたこそ私たちの神」という信仰を告白し、礼拝の心を表します。詩人はこの命令を喜びの知らせとして語ります。礼拝者は神の声を聴くことによって、新しい命に生かされるからです。
 詩人が「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない」(新共同訳)と強い口調で命じるのは、かつてイスラエルの民が、荒野で神の声に聞き従わず、神と争い、神を試みたことがあったからです。それにより、その世代の人々は荒野で死に絶えてしまいました。神の言葉を神の言葉として聴くことは、信仰者にとって、生きるか死ぬかがかかっています。
 しかし、人生の荒野を通るとき、私たちの心は硬くなり、神の言葉を神の言葉として聴けなくなります。神の言葉よりも、人間の言葉に聴こうとしてしまうのです。それゆえ、詩人は「あなたがたは、メリバにいた時のように、また荒野のマッサにいた日のように、心をかたくなにしてはならない」と語ります。
 この勧めを語る前、詩人は神と礼拝者との関係を羊と羊飼いとの関係にたとえて語りました。「われらはその牧の民、そのみ手の羊である」。羊が羊飼いの声を聞くことによって生きることができるように、私たちは羊飼いなる主の声を聞くことによって生きることができます。十字架で命をかけてくださった主の言葉は、私たちを生かす言葉だからです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 詩人は私たちを神を礼拝する喜びへと招いています。その礼拝とは、神の前にひれ伏すことです。私たちプロテスタント教会では、文字通りひれ伏すことはしません。問題は、その心において神の前にひれ伏しているかということです。説教を聞きに来ても、そこで神を礼拝していないことがあるからです。
 人は、神の本当の偉大さを知ったならば、命じられなくてもひれ伏すものです。私たちの問題は、神の大きさが分からず、神を小さな存在にしていることでしょう。神の前に自分を低くすることによって、礼拝の心を表すものですが、私たちは神の前に自分が大きくなり過ぎています。そればかりか、礼拝においても、自分を大きくすることを追い求めてしまいます。これでは、ご利益を得るためにお参りをする世の宗教と何も変わりません。神の前にひれ伏す真実な礼拝をささげることこそ、被造物である私たち人間に必要なことです。神を礼拝しないとき、人は自ら神になってしまうからです。
 そして、人間が神にならないように、神が人となってこの世に来てくださいました。神の本当の偉大さは、私たちの救いのために、御子キリストが十字架にかかってくださったことにあります。神がまず、私たちを御子イエスの命と引き換えにするほどに価値あるものとしてくださいました。その恵みに感謝して、「わたしたちにとり、あなたこそ最も価値あるお方です」と告白する礼拝をささげるのです。
 礼拝の中心に主が臨在しておられると信じて、真実な礼拝をささげるように呼びかけられています。大きな喜びへと招かれているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 出エジプトの奇蹟のみわざばかりを思い起こしていた捕囚の民に対して、主は「さきの事を思い出してはならない」と言われました。過去における神の恵みのわざの思い出が、新しいみわざを期待するのをかえって妨げていたからです。
 さらに神は、「もうあなたの罪を思い出さない」と言われました。このとき彼らは、先祖から続く背きの罪のために神の裁きを受け、長い間囚われの身となっていました。その自分たちの罪を否定することなどできず、自分で自分を救う、自己救済の可能性もありませんでした。
 彼らに残された救いの道は、神によって罪を赦していただくしかありませんでした。だからこそ、主は「わたしこそ、わたし自身のためにあなたのとがを消す者である。わたしは、あなたの罪を心にとめない」と言われました。民の功績などではなく、神の側の一方的な憐れみによって、民の罪を赦すというのです。
 罪を忘れるといっても、それは決して簡単なことではありませんでした。その方法は、「あなたの罪の重荷をわたしに負わせ」とあるように、主ご自身が彼らの罪の重荷を背負うことによってでした。「負う」という言葉は、名詞になると「しもべ」という言葉になります。イザヤ書は後半にかけて、神によって遣わされた苦難のしもべを紹介します。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」(53:4)。
 この預言は、御子キリストにおいて成就しました。主イエスが十字架で私たちの罪を負うことにより、救いが与えられました。キリストのゆえに、神は私たちの罪をもはや思い出さない、と告げてくださるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 神の民イスラエルは神に背き続けたために国が滅び、指導者たちはバビロンへと連行されました。捕囚の身となった最初のうちは、神がまもなく国を復興してくださるとの期待を持っていましたが、時間が経つうちにその期待は薄れ、人々の心は空しさで覆われていきました。
 将来に希望が持てなくなると、人々は過去の歴史に慰めを求め、イスラエルにとっての救いの原点である出エジプトの奇蹟を繰り返し思い起こしました。けれどもそれは、自分たちをエジプトの国から救い出してくださった神が、このバビロンからも救い出してくださるに違いない、というのではありませんでした。かえって、出エジプトの奇蹟を起こしてくださった神が、今は何もしてくださらない、と不満を表明するようになっていました。
 そのような民に対して、預言者は驚くべき神の言葉を語ります。あなたがたは、さきの事、すなわち、出エジプトの奇蹟ばかりを思い起こすのはやめなさい、と。神による新しいわざに期待するためには、過去との訣別が必要でした。その上で、「見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる」と告げられました。出エジプトのときとは異なる、全く新しいわざを神ご自身が行ってくださるというのです。しかも、そのみわざはすでに始まっていると言われます。それは、人間の力が尽きたときにこそ始まる神のみわざでした。
 今も、私たち信仰者がその信仰に疲れ、自分たちの側の可能性が尽きたようなとき、神はそこから新しいみわざを行ってくださいます。この神の言葉に励まされ、私たちは前に向かって歩みを進めていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 一年の最後の日を迎え、この年の歩みを振り返るとき、結婚の喜びがある一方で、教会員の相次ぐ急死という大きな悲しみもありました。これらをどう受け止めればいいか、惑う私たちに対して、「すべてのわざには時がある」と語られています。人間が計画する時ではなく、神が定めておられる時ということです。神が、それぞれにふさわしい時を備えておられるというのです。
 著者はさらに、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」とさえ語ります。これは伝道の書を記した人の言葉です。この書の冒頭で、「空の空、空の空、いっさいは空である」と嘆いた人です。人生の空しさというものを嫌というほど経験してきた著者が、「美しい」と言うのです。これは、一つ一つの出来事の結末を見て、「やはりそうだった」と述べているのではありません。人生の空しさを実感し、不条理に心を悩ませながらも、「それでも、神のなされることはすべて時にかなって美しい」と言ってのけました。これは神に対する信頼、信仰の言葉です。
 しかし、私たち人間は、「すべて美しい」とは言えない思いを抱えることがあります。「なぜこのようなことが起こるのか?」という出来事に遭遇したときです。そのことについて、「人は神のなされるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない」と著者は言います。限界のある人間は神のみわざの全体像を見ることができないため、「美しい」とは思えないことがあります。
 そう思えないときも、私たちは信じることができます。御子キリストをさえ与えてくださった神がなさるわざだからこそ、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と信じて、歩みを進めていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 救い主イエスがベツレヘムに誕生されたとき、御使いはその喜びの知らせを羊飼いたちに告げました。「あなたがたは見るであろう」と語り、彼らが救い主を見に行くようにと促しました。この御使いの招きに答えるようにして、羊飼いたちは直ちに立ち上がり、救い主を探しにベツレヘムの町に向かいました。
 私たちは、この羊飼いたちのように、主の招きの言葉を受けて、すぐに応答することができるでしょうか。このとき、羊飼いたちは仕事中でしたし、野原に羊を残して行くことは、羊泥棒や野獣に襲われるなど危険が伴うことでした。また、夜の暗闇の中で住所も名前も知らない幼子を探すことの困難を考えると、今すぐには行かない、という結論に至る可能性のほうが大きいのではないでしょうか。
 ところがこのとき、羊飼いたちは躊躇することなく立ち上がり、羊を野原に残したまま幼子を探しに行きました。自分たちの仕事を中断してでも、救い主に出会うことを優先したのです。神に出会うために礼拝に集うということは、私たちの都合よりも神を第一にすることです。そしてそれが、「イエスは主」という信仰の告白になります。
 羊飼いたちは、御使いの語りかけの中に、今ここで立ち上がるようにとの聖霊の促しを聴き取ったのでしょう。彼らにとって、今このときを外しては、救い主に出会う時はなかったのです。同じように、神は今ここで救い主に出会い、礼拝をささげるようにと招かれます。限りある命を生きている私たちは、神の招きを受けた今このとき、真実な礼拝をささげる者でありたいと思います。 
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 救い主誕生の知らせが最初に届けられたのは、ベツレヘムの野原にいた羊飼いたちでした。当時の羊飼いは、非常に貧しく、厳しい労働条件のもとで働いていました。社会的にも人々からは軽んじられ、宗教的にも、神を信じようとしない不真面目な輩とみなされていました。
 神は、そのような羊飼いたちをわざわざ選んで、この大きな喜びの知らせを伝えました。「すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える」と。救い主の誕生は、世の中の流れからは取り残されていたような羊飼いたちにとっても喜びの知らせであるというのです。
 「すべての民に与えられる」ということは、羊飼いがそうであるように、私たち一人一人にとっても喜びの知らせであるというのです。私たちは今、そのクリスマスを喜ぶことができるでしょうか。反対に、今は喜ぶどころではない、と思うような理由が幾つもあったりするのではないでしょうか。しかし、神はそのような者たちにこそ、インマヌエルの神として、御子イエスを私たちのもとに送ってくださいました。
 「喜び」という言葉は、ルカ15章で印象深く使われています。三つの譬え話で、失われた羊、銀貨、息子が本来のところへ帰って来たとき、「天では大きな喜びがある」と主は語られました。その大きな喜びのために、神は、御子イエスをこの世に遣わされました。その御子は、私たちの救いのために十字架で死なれました。神の大きな喜びは、御子イエスを十字架につけるという大きな痛みを伴うものだったのです。
 神は、喜びを失っている私たちのために、救い主を送ってくださいました。この大きな喜びへと、私たちは招かれているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ある主人が晩餐会に多くの人々を招きました。しかし当日になると、みんな理由をつけて断り始めました。怒った主人は今度は貧しい人々や体の不自由な人、外国人などを無理やり引っ張ってきて、宴席をいっぱいに満たしました。
 この譬え話しの主人は神ご自身で、「さあ、おいでください」と、私たちを救いの恵みへと招いておられます。そのお心は喜び躍っています。私たちは神にとって実に愛すべき、喜びの存在なのです。しかしだからこそ、私たちがその招きを軽々しく断る時、神は激しいまでに胸を痛められます。
 断った人々はこの招きは当然のことと思い、招きの重みや主人の喜びが分かっていませんでした。一方、強引につれて来られた人々は、神の救いを受ける資格などないと自他共に認めていました。しかし本来ふさわしくない者が、戸惑いながらも、「ありがとうございます」と招きに応じることによって救いの恵みにあずかったのです。
 私たちも本来、救われる資格のない者です。しかし救われるにふさわしい者になろうと頑張る必要はありません。主イエスは私たちの罪を赦すために私たちに必要なことをすべて成し遂げてくださいました。それゆえ神は、「さあ、来なさい!準備はすっかりできているから!」と、ひとり子の命さえ惜しまない愛をもって私たちに強く迫っているのです。私たちはただ感謝して救いの恵みをいただき、共に神の晩餐の席に着こうではありませんか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)