福音を告げる者たちの足の美しさを語ったパウロは、「しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない」と、同胞ユダヤ人が救われない現実を語ります。それはパウロにとって大きな悲しみでした。異邦人が救われて行く一方、神の民イスラエルが福音を拒んでいるのです。
 何が問題なのか、パウロは「信仰は聞くことによるのであり」と述べます。福音が語られているにも関わらず、彼らは聞こうとしないのです。キリストについて語る言葉を神の語りかけとして、神の言葉として聞こうとしなかったのです。私たちの信仰は、聖書を神の言葉として聞く、という一点にかかっています。神の言葉である聖書が語っているからこそ、私たちはそれを信じるのです。
 イスラエルの民は、聞こえなかったと言い訳をします。しかしパウロは、聖書を引用しつつ、神の言葉は世界中に伝えられたと反論します。また、自分たちに分かるようには伝えられなかったという弁明に対しても、律法を知らなかった異邦人でさえ、福音を聞いて信じたという事実を取り上げ、聞いても信じようとしなかっただけだと言います。
 すると、イスラエルの民には救いの望みなど全くないように思いますが、神はその民に対して、「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」というのです。神は、選ばれた民を決して見捨てることなく、どこまでも救いの御手を差し伸べていてくださいます。放蕩息子の父親が、息子の帰りを待ち続けたように、神は背く者たちの立ち帰りを待っておられます。このような神だからこそ、私たちは帰って行くことができるのです。

 主イエスが十字架にかかる直前に、ペテロは主を決定的に裏切ってしまいました。しかし復活の主イエスは、自分の罪深さや弱さを素直に認めるペテロに近づいてくださり、「あなたは私を愛していますか。私はあなたを愛している」と温かく声をかけられました。ペテロは迫るような主の愛と赦しの中に大胆に飛び込んでいき、すべてをご存じの主に、自分の弱さも挫折も罪深さも丸ごと委ねました。主はこのペテロを、「わたしについて来なさい」と、弟子として再び招いてくださいました。
 ペテロは今回の挫折によって、主イエスの本当の愛が分かりました。するとペテロにとって生涯消えることのなかった心の傷が逆にペテロを生かし、信仰を深め、初代教会のリーダーとして人々を励ます存在へと、ペテロを作りかえていきました。私たちの挫折や苦しみの経験は、主の愛の御手の中で恵みに変えられていくのです。
 「わたしについて来なさい」と招いてくださる主と共に人生の旅をしていく中で、私たちは傷や苦しみの経験ゆえに、主の恵みを深く味わう人生へと導かれていきます。その挫折ゆえに主に用いられていく人生へと、私たちは変えられていくのです。
 多くの人生の傷を持ち、信仰の迷いや挫折を経験する私たちに、「わたしについて来なさい」と、主イエスは十字架の釘後の残る御手を差し伸べておられます。自信のないままでいいのです。「主よ、あなたは私の全てをご存じです。私はあなたを愛します」と言って、私たちはこのお方についていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 ガリラヤのカナで結婚式が行われたとき、主イエスもそこに招かれていました。当時の結婚式は自宅を開放し、地域の人々が出入り自由で、一週間ほど婚宴が続きました。このとき、途中でぶどう酒が尽きてしまいました。祝宴には絶対に必要なぶどう酒がなくなるという、大きな危機が新婚の二人を襲いました。
 すると、接待役をしていたマリヤが主イエスのもとへ来て、ぶどう酒がなくなったことを知らせました。母マリヤの要請に、主イエスは「わたしの時は、まだ来ていません」と答え、すぐには応じられませんでした。マリヤは、僕たちに向かって、主イエスが命じることは何でもそのとおりにするように伝えました。
 しばらくして、主イエスが厨房にやってきて、「瓶に水を一杯に入れなさい」と命じました。僕たちが言われたとおりにすると、今度は「この水を汲んで料理長のところへ持って行きなさい」と言いました。僕たちは命じられるままに水を持って行くと、その水はぶどう酒に変わっていました。料理長は舞台裏の出来事を知らず、あまりの美味しさに驚き、新婚の二人を褒めました。しかし、水を汲んだ僕たちは知っていました。主イエスが水をぶどう酒に変える奇跡を行われたことを。客人だった主イエスが彼らの主人となったとき、味気ない水が喜びのぶどう酒に変わる出来事が起こったのです。
 今も、主イエスはこの恵みのわざを行ってくださいます。その罪のために、家庭に大きな危機が訪れることがあります。神は、主イエスの十字架の恵みにより、罪人を神の子に造り変える奇跡を行ってくださいます。主イエスを家庭の中心に主人として迎え入れるとき、そこに喜びの人生が始まるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 主イエスが甦られた日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れ、鍵を閉めた一つの家に集まっていました。女性の弟子たちから、主イエスが確かに甦られたことを聞かされていながら、それを信じることができず、恐れに囚われてしまっていたのです。
 そういう弟子たちのもとへ、主イエスは無理やり押し入るように入って来られ、「安かれ」と声をかけられました。「平和があなたがたにあるように」という意味の「シャローム」という言葉です。平安を失っていた弟子たちに平安をもたらすために、「平和の君」である主イエスが彼らの真ん中に立たれたのです。
 そして、彼らに手の釘痕、脇腹の傷痕をお見せになりました。そこにおられるのが確かに十字架にかけられた主イエスであることを示されたのです。同時に、「その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53:5)とあるように、主の十字架により、罪が赦され、神との平和が与えられたことをはっきりと示されたのです。そのとき、彼らに大きな喜びが与えられました。
 その一週間後、弟子たちは再び鍵を閉めて家の中に閉じこもっていました。復活を信じられないトマスに逆に説得されるようにして、他の弟子たちも恐れに囚われていたのでしょう。しかし主は、その弟子たちのところにもう一度現れ、「平安があるように」と告げられました。不信仰と恐れの中にある者たちを、主イエスは何度でも訪ねてくださったのです。その主イエスを前にして、「わが主よ、わが神よ」と弟子たちはひれ伏しました。これこそ、毎週の礼拝で起こることです。不信仰な者がひれ伏す者へと変えられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 「苦難のしもべ」と呼ばれるこの歌は、イエス・キリストを預言したものとして受け止められてきました。重い病を負った彼は、見る影もないほどにやつれ、人々からは忌み嫌われ、嘲られました。人々は彼のことを、罪の報いとして神の裁きを受けているのだとみなしました。
 ところが、「そうではなかった」と著者は語ります。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった」と。彼が負っていた病と悲しみは、自分の罪によるものではなく、本来私たちが負うべきものを代わりに負っていたというのです。「彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ」。繰り返し出てくる「われわれ」とは、神に反抗し、自分勝手な道を突き進む迷子の羊としてのわれわれです。
 神は、そのような私たちの罪をこのしもべに負わせられました。イスラエルで罪の償いをするとき、羊や山羊が犠牲となり、民の罪を負わせられたように、神はこのしもべに罪を負わせることにより、私たち人間の罪を赦し、平安を与えられました。
 ここに表されている苦難のしもべの姿は、私たちのために十字架にかかられた主イエスの姿そのものです。主イエスは私たちのために、人々から嘲られ、ムチで打たれ、十字架にかけられました。その主イエスの十字架の犠牲により、私たちに罪の赦しとしての神との和解が与えられ、平安が与えられました。
 このキリストの十字架のゆえに、私たちはもはや、神に裁かれることはありません。この恵みに応答して、私たちは心から「あなたこそ私の主」と告白し、ひれ伏すのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 「人をさばく」とは、人を見下げて批判・非難する態度のことです。私たちは日常的に、このように人をさばきながら生きています。ここで主イエスは、「人をさばくあなたの目には梁がある」と語っています。

 人間のさばきは、不公正で、不正確です。人を正しくさばくことができるのは神だけです。それなのに、私たちは簡単に人をさばきます。さばくことに喜びさえも感じます。誰もが、人よりも一段高いところに立って、人を傷つけて喜ぶ悪魔的な心を抱えているからです。その根底には、さばかれることへの不安と恐れがあり、「人をさばいていれば、自分はさばかれない」という歪んだ安心感があるからなのでしょう。

 しかし、人が人をさばくということは、神の座につくことであり、自分を神とすることです。これは聖書が語る罪です。主イエスが語った梁の正体は、私たちの内に宿る罪でした。主イエスは「まず自分の目から梁を取りのけるがよい」と語ります。しかし罪は、私たちと一つとなるほどに、深く私たちに根付いています。私たちは、自分の力で目から梁を取りのけることはできません。

 しかし主イエスは、私たちの身代わりとなって、罪人の不当なさばきを受け、父なる神から見捨てられるという究極のさばきをも受けて下さいました。本来、私たちが受けるべきさばきを全て引き受け、私たちの目から梁を取りのけて下さったのです。ここに、主イエスの愛がはっきりと示されています。この愛を受け取る時、私たちはさばくことの重荷から、さばかれることへの恐れから解放され、愛に生きる歩みを始めるようになるのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)

 「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」と語ったパウロは、自ら「しかし」と問います。「信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか」と。主を呼び求めるためには、その前に主を信じることが必要だと言います。さらに、「聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか」と続けます。主を信じるためには、まず、主イエスがどのようなお方であるのかを聖書をとおして正しく知ることが必要です。神を正しく知らないために、そのお方を信じることができないでいることが多いからです。
 さらに、パウロの言葉は核心へと入っていきます。「宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか」。信じるためには聞くことが必要だと言われても、救い主のことを伝えてくれる人がいなくては、聞くことができない、というのです。そして、「つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか」と、信仰の原点、宣教の原点へと至ります。福音を伝える者たちは、神の使者として、神によって遣わされることによって福音を宣べ伝えるために出て行くのです。
 その宣教者について、「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」とイザヤ書を引用して語ります。その伝えてくれる内容が喜びの知らせ、福音であるからこそ、伝える者の足は美しいというのです。
 神の子キリストは、神のもとからこの世に遣わされた伝令です。十字架で命をかけて、主イエスは喜びの知らせを届けてくださいました。
 この喜びの知らせにあずかった者たちは、今度は自らが神の伝令として出て行きます。私たちはこの世にあって、神に遣わされた者、麗しい宣教者として生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 パウロがこの手紙を書きながら絶えず対峙していたのは、律法を行うことによって義を得ようとする人々でした。しかし、今やキリストを信じることによって義とされる道が開かれました。救いのわざは完成し、その恵みがわたしたちの前に差し出されているのです。
 救いを与える神の言葉は、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」と告げています。「イエスは主」とは、原始教会における最も簡潔な信仰告白であり、洗礼を受ける際、ただこの一つの告白が求められました。たった一言の告白ですが、「ローマ皇帝は主」と告白することが強要された時代にあって、「イエスは主」と告白することは自分の存在をかけた告白でした。
 この信仰告白について、私たちは心に信じた後に、「イエスは主」と告白できるようになるのではないか、順番が逆ではないかと思います。これは礼拝の様子を思い浮かべるとよく分かります。まだ神を信じる前の人が、信仰者に混じって礼拝に出席し、人々と同じ信仰の言葉を口にします。そのような礼拝生活の中で、自分が口にしていることを「信じる」というみわざが起こります。聖霊が働いて、そのような信仰告白へと導いてくださるのです。
 この信仰による救いは、全ての人に及び、そこには何の差別もありません。「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるとおりです。パウロは、私たちが信仰をもって主の名を呼ぶようにと勧めます。「主よ、私を憐れんでください」と求める者たちを救ってくださいます。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 同胞ユダヤ人のためなら、「この身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」とさえ言ったパウロでしたが、9章の終わりでは、イスラエルは救いに達しなかったと言わなければなりませんでした。
 そこで10章に入り、パウロはもう一度、同胞に対する熱い思いを口にします。「わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである」。そのユダヤ人は、神に対して熱心であることは保証するが、それが正しい認識を欠いた、間違った熱心であると指摘します。神の子キリストを十字架につけて殺すという狂った熱心でした。
 その間違った熱心は、「自分の義を立てる」という点に集中します。自分の正しさを自ら証明することに力を注ぎ、それによって神に義と認めてもらおうとするのです。私たちの普段の生き方も、常にこの「自分の義を立てる」という方向性を持っているのではないでしょうか。社会がそのように要求するからです。問題は、神の前でさえ、そのように生きてしまうことです。キリストを頼みとするのでなく、自分の正しさを頼みとするのです。そう生きてしまうのは、神の義を知らないからです。キリストによって義とされる恵みを知らないために、自分で必死になって義を獲得しようとします。
 しかし、キリストは律法の終わりとなられました。十字架によって罪の呪いを引き受けることにより、私たちを律法の要求から解放してくださいました。そして、キリストだけを頼みとして生きるように全ての人に呼びかけておられます。どんな人も、キリストによって救われうるのです。だからこそ、私たちは愛する家族や友人の救いを諦めることなく、救いを祈り続けたいと思います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 イサクは父アブラハムから継承した神の祝福を長男エサウに与え、彼を後継者にしようとようと考えていました。しかし神のみ心は、それはエサウではなく弟のヤコブでした。
 エサウは、たった一杯の煮物と引き替えに長子の権利をヤコブに売り渡してしまうほど、神の祝福を軽んじていましが、それでもイサクは、お気に入りのエサウに祝福を与えようとします。一方、弟ヤコブに祝福を継がせたい母リベカは、ヤコブと共謀してイサクを騙します。そしてヤコブが祝福を受けてしまいました。
 リベカとヤコブのこの行為は、み心にかなったことではありません。しかしイサクはここに、主なる神のみ業を見たのでした。イサクは神のみ心にあえて目をつぶって、自分の思いを押し通そうとしたのです。にもかかわらず騙されて、結局ヤコブに祝福を与えてしまいました。そのことを知った時イサクは、主なる神は生きておられ、人間のあらゆる思いを超えてみ心を行なっておられることをハッキリと悟って、激しく震えたのです(33節)。
 「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ」(箴言19:21)。生きておられるまことの神は、たとえ私たちのたくらみや嘘、罪であっても、それさえも用いてみ心を成し遂げることがおできになるのです。
 私たちの人生にも、人の思いや計画を超えて、神のみ心が実現されていきます。私たちを救うために、み子をさえ惜しまずに与えて下さったお方は、どこまでも愛の神です。その神のみ心が 私たちの人生を貫いて、私たちを支えてくださるのです。何とありがたいことでしょうか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)