罪を犯したために国が滅ぼされた絶望的な状況の中で、神がどのようなお方であるかを思い起こしたとき、そこに望みが生まれ、神を待ち望む心が与えられました。
 エレミヤは、神による救いのわざを待ち望む姿勢について、「主の救を静かに待ち望むことは、良いことである」と言い、さらに「主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい」と語ります。「静かに」「黙して」とあるのは、神が自分たちの罪を示されたとき、もはや言い訳をするのではなく、それをそのまま受け止めようとする態度です。自分の罪と真正面から向き合うことをエレミヤは勧めます。
 このときエレミヤは、「満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ」と語ります。「もうそれでよい」と言われるまで、神による罪の指摘をそのままで受け止めるようにとの勧めです。これは、私たちが罪を示されたとき、「満ち足りるまでにはずかしめを受ける」ということが出来ないからです。しばしば安易な悔い改めがなされます。自分の罪を十分に見つめることをしないままで、実に簡単に罪を悔い改め、「私は赦された」というところに立とうとします。
 そのように自分の罪を見つめることを避け、安易な悔い改めがなされるのは、心の底に大きな恐れがあるからでしょう。自分の真相を知らされることの恐れであり、神に捨てられることへの恐れです。自分の罪を見つめることができないとしたら、それは私たちが神の赦しを信じ切れていないからではないでしょうか。しかし、神の尽きざるいつくしみを信じるからこそ、私たちは安心して自らに絶望することができます。神を信じるからこそ、神の前に悔いくずおれることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 紀元前586年、南王国ユダがバビロニア帝国によって滅ぼされ、都エルサレムは破壊されて焼け野原になり、指導者たちは連行され、男たちは殺され、女たちは犯され、生き残った者たちも飢えのために死んでいく、そのような悲惨な光景を目の当たりにした預言者エレミヤは、涙を流しながらこの哀歌を作りました。
 この哀歌に、嘆きの歌の特徴の一つである「なぜ」という言葉が出てこないのは、哀しみの原因が民の罪にあることをエレミヤはよく知っていたからです。神の怒りを受けて滅ぼされたために、もはや絶望するしかありませんでした。
けれどもエレミヤは、「しかし」と述べて、絶望のただ中で希望を語ります。それまで目の前の悲惨な光景ばかりを見つめていたエレミヤが神ご自身に目を向けたとき、そこに一筋の希望が生まれました。エレミヤが思い起こしたことは、「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」ということでした。神が民と結んでくださった契約のゆえに、神はご自分の民を決して捨てることはないことを思い起こしたのです。
 この神のいつくしみとあわれみを支えるのは、神の真実です。「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。私たちの信仰は、この尽きることのない神の真実にかかっています。私たちの真実さが私たちを救うのではありません。私たちの望みは、神がどんなときにも真実を貫いてくださる、という点にあります。
 一年の歩みの中で、私たちは哀しみに沈み込むことがあるかもしれません。しかし、主のいつくしみ、その真実は尽きることがないゆえに、朝ごとに新しい命が与えられ、立ち上がることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 夢でヨセフに現れたみ使いが、生まれてくる救い主の名を「イエス」と名づけるように告げました。著者マタイは、救い主のもう一つの名として、イザヤ書の聖句を引用して紹介しました。「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」と。それは「神われらと共にいます」という意味を持つ名前でした。マタイがこの二つの名を並べて紹介したのは、神が私たちを救ってくださるということは、神がどんなときにも共におられる、ということだからです。
 神が私たちと共にいてくださる、という聖句を読むとき、自分はこの「われら」の中に含まれないのではないかと思ってしまいます。罪があるからです。マタイは、まさにそのような罪人と共におられる神として救い主が誕生されたことを伝えようとして、救い主イエスに至る系図を記します。アブラハムから始まるこの系図は、決して聖人の系図ではなく、悲しい罪人たちの系図です。そのような系図のただ中に救い主が来られた!とマタイは語ります。
誰かといつまでも共にいるということは、決して簡単なことではありません。まして、自分に害を与える人と共にいることは、自分が傷つくことを覚悟しなければなりません。神が罪人と共にいることを決意されたとき、それは十字架の死に至るまで共にいることを意味しました。たとえ自分が捨てられても、神は私たちを捨てることはないのです。
 たとえ私たちがどんなに罪に汚れていても、救い主は共にいてくださいます。主イエスは世を去る直前、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と語られました。どんなときも神が共におられるからこそ、私たちもこの神と共に生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 夢でヨセフに現れたみ使いが、生まれてくる救い主の名を「イエス」と名づけるように告げました。著者マタイは、救い主のもう一つの名として、イザヤ書の聖句を引用して紹介しました。「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」と。それは「神われらと共にいます」という意味を持つ名前でした。マタイがこの二つの名を並べて紹介したのは、神が私たちを救ってくださるということは、神がどんなときにも共におられる、ということだからです。
 神が私たちと共にいてくださる、という聖句を読むとき、自分はこの「われら」の中に含まれないのではないかと思ってしまいます。罪があるからです。マタイは、まさにそのような罪人と共におられる神として救い主が誕生されたことを伝えようとして、救い主イエスに至る系図を記します。アブラハムから始まるこの系図は、決して聖人の系図ではなく、悲しい罪人たちの系図です。そのような系図のただ中に救い主が来られた!とマタイは語ります。
誰かといつまでも共にいるということは、決して簡単なことではありません。まして、自分に害を与える人と共にいることは、自分が傷つくことを覚悟しなければなりません。神が罪人と共にいることを決意されたとき、それは十字架の死に至るまで共にいることを意味しました。たとえ自分が捨てられても、神は私たちを捨てることはないのです。
 たとえ私たちがどんなに罪に汚れていても、救い主は共にいてくださいます。主イエスは世を去る直前、「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」と語られました。どんなときも神が共におられるからこそ、私たちもこの神と共に生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ヨセフの婚約者であるマリヤが身重になったとき、ヨセフは悩み抜いた末、このことを公にしないまま、密かに離縁しようと決心しました。マリヤの妊娠が公になれば、姦淫の罪を犯したものとして律法では石打の刑に処せられることになっていたからです。マリヤの命をなんとか助けたいと思っていたヨセフは、自分が人々から責められるのを覚悟の上で、離縁する道を選び取りました。
 ところが、神の使いが夢の中でヨセフに現れ、マリヤを妻として迎えるべきこと、さらに、マリヤは聖霊によって身重になっており、男の子を生むこと、その子の名をイエスと名づけるべきことを告げました。それはマリヤがヨセフに話していたとおりでした。
 このとき、ヨセフがどのように応答したか、ヨセフの言葉は一つも記されていません。しかし、告げられたとおりにマリヤを妻に迎える、という態度をもって、主に対する信仰の告白をしました。子どもに名前を付けるという父親の特権も奪われながら、ヨセフは黙々と主に従いました。ある人は、「神に利用された人」とヨセフを称しました。
 確かに、他人から見れば、み使いの言葉を信じてそれに従うヨセフの姿は、愚か者のように思われることでしょう。しかし、ヨセフ以上に神に利用され、愚か者となられたのは、人となって生まれ、最後には十字架にかけられた御子イエスでした。
 このキリストの愚かさによって救われた者たちは、自ら愚か者となって、神に利用される人生へと歩み始めます。クリスマスの恵みが、私たちをそのような人生へと進ませてくださるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 アブラハムが人生の充実期を迎えていたある日、神は彼に「愛するひとり子イサクを燔祭として捧げよ」という厳しい試練をお与えになりました。それは、アブラハムの子孫を通して世界中が祝福されるという神の約束が破棄され、それを信じて歩んできた彼の人生が無に帰することを意味します。アブラハムは神が分からなくなってしまいました。
 しかし翌朝、アブラハムは神が示された山にイサクと共に黙々と登りました。そして激しい葛藤を通して、自分が今まで信じてきた神は真実であり、全能であり、愛のお方であることを再確認します。イサクをささげよと言われる神を理解できないにもかかわらず、このお方に確かな信頼を寄せるに至ったのです。全てを委ねたアブラハムは、燔祭の小羊がないことを不思議に思うイサクに答えました。「神が備えてくださる」。
三日目、いよいよアブラハムがイサクに手をかけようとしたとき、神は角を藪にひっかけた一匹の雄羊を与えてくださいました。アブラハムはそれを息子の代わりに燔祭としてささげることができました。
神ご自身こそが、一番大切なひとり子をさえ私たちのために惜しまずに死に渡してくださいました。このお方は私たちの先を見ていてくださり、み子と共に全てのものを私たちのために備え、与えてくださるのです。「主の山に備えあり」。先の見えない試練であればあるほど、何かの形で神の備えがそこにあることを私たちは信じて歩んでいくのです。

(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 9章に入り、パウロは偽らざる思いを語ります。それは大きな悲しみであり、絶えざる心の痛みであると言います。それは、自分の肉親や同胞のユダヤ人がキリストを信じようとしないことです。パウロは異邦人に対して熱心に伝道しながらも、同胞ユダヤ人が福音を拒み続けていることに痛みを覚えていました。
 それがなぜそれほど大きな悲しみであるかというと、キリストを拒み続けるならば、「彼らの最後は滅びである」(ピリピ3:19)ということをよく知っていたからです。この事実は、私たちにとっては考えたくないことであるため、その霊的な現実を見つめることをいつも避けてやり過ごしてしまいます。けれどもパウロは、逃げることなくその悲しい現実を見つめ、深く悲しんでいました。
 その肉親や同胞の救いに対する熱情がほとばしり出て、驚くべき言葉を口にしました。「実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない」(3)。「のろわれて」という言葉は、「アナテマ」というギリシャ語の言葉で、教会から除名や破門をするときに使われる激しい言葉です。パウロは、肉親や同胞が救われるなら、私が代わりに神に呪われ、捨てられても構わない、と言ったのです。直前の8章の終わりで、「神の愛から引き離されることは決してない」と福音の確かさを高らかに宣言したパウロが、同胞のためなら、その神から引き離されてもいい、と言ったのです。
 パウロが誰かの身代わりにはなれませんが、御子キリストは私たちの代わりに呪われた者となるため、この世に降り、十字架にかかってくださいました。この大きな恵みのゆえに、クリスマスを喜び祝うのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 主イエスは、食物や着物のことで「思いわずらうな」と語りました。空の鳥を養い、野の花を装って下さる神が、「わたしたちの天の父」だからです。そう分かっていても、日々の生活で起こる様々な問題や、これから起こることへの不安が、時には変えられない過去が、私たちを思いわずらいへと引き込みます。
 思いわずらいとは、「自分にとってとても大切なことに囚われて、心の中が一杯になってしまうこと」です。これは、私たちの霊の命に関わる大きな問題です。不安や心配で一杯になった心の中には、神の居場所がなくなり、神が見えなくなってしまうからです。
 そんな私たちに、「わたしたちの天の父」を現すため、神の御子が人となってこの地上に降られました。私たちと同じ生きる悩みや苦しみを味わい、その生涯の最後には私たちの罪を全て背負い、十字架にご自分の命をも投げ出して下さいました。私たちの罪を贖い、神の子として迎え入れるためです。主イエスを見つめる時に、父なる神がどのようなお方かが分かります。わたしたちの天の父は、御子の命よりも私たちを大切にして下さるお方なのです。
 私たちは、愛されている神の子として、天の父をさらに深く知ることように求められています。これが、「まず神の国と神の義とを求める」ことです。私たちは、思いわずらいの只中でも、主の祈りや詩篇の祈りを通して、神の国へと心の中心を移すことが出来ます。詩篇の言葉をなぞるように、耳を傾ける中で、「父なる神が、主イエスがどのようなお方なのか、自分は何者なのか」という所に帰ることが出来るのです。
(仙台南光沢教会信徒説教者 横道弘直)

 三回にわたって「だれが」と問うて、神に義とされた者たちの救いを否定できる者は誰もいないことを語ったパウロは、さらに「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか」と問いかけます。引き離す力を持っているように思えるものを列挙しながら、御子キリストを与えてくださった神の愛から、私たちを引き離すことができるものなど何もないことを告げます。たとえ様々な苦しみが襲ってきたとしても、「私たちは圧倒的な勝利者です」と。
 そしてついに、この手紙の頂点、そればかりか新約聖書のクライマックスとも言われるパウロの確信の言葉が語られます。「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。人間を圧倒してしまう死さえも、キリストの十字架に表された神の愛から私たちを引き離すことなど出来ない、と高らかに宣言します。
 私たちはいつも、どこに神の愛を認めようとしているでしょうか。もし、自分の周りに起こってくる様々な出来事の中に神の愛を確かめようとするなら、いとも簡単に神の愛から引き離されたしまうことでしょう。神の愛は、御子キリストの十字架に決定的に表されています。私たちがこの神の愛から引き離されることがないのは、私たちが神をしっかりと捕らえているからではなく、神によって捕らえられているからです。信仰とは、神によって捕らえられていることを信じ、受け入れることです。救いの確かさは、私たちにあるのでなく、神の愛にあるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ローマ8章の最後の段落は、この手紙だけでなく、聖書全体における一つの頂点、クライマックスであると言われます。ここに、救いの喜びが高らかに歌い上げられています。
 パウロはこれまでの内容を要約して、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」と問いかけます。この「もし」は不確定な「もし」ではなく、「確かに神はわたしたちの味方なのだから」との意味です。そのとき、もはや神を信じる者たちに敵対できる者は誰もいない、と語ります。 信仰者に敵対する勢力は、神の前で私たちを訴え、罪に定めようとします。「この人にはこのような罪があるではないか」と訴えて断罪するのです。そして、私たちはそのような声に惑わされて、「私のような者は、とてもクリスチャンとは言えない」と、自ら罪に定めてしまうことがあります。
 けれどもパウロは、神がなされた救いのわざを指し示して、「敵対できる者は誰もいない」と告げます。父なる神は、御子をさえ惜しまずに私たちのために死に渡されたではないか、と。私たちの側にその資格があったからではなく、私たちがまだ敵であったときに、御子キリストは十字架で死んでくださいました。そしてキリストは今も、神の右の座にあって私たちのために神にとりなしをしておられます。この御子キリストがおられるからこそ、私たちは安心することができるのです。
 クリスマスにおいて、御子キリストは私たちの味方となるために、天の王座を降り、人となってこの世に来てくださいました。この神が私たちの味方としておられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)