主の祈りの第三の祈りは、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」です。天とは天の御国、神の国のことです。そこは神が支配され、神の御心が100%行われているところです。それと同じように、私たち人間が住む地においても、神の御心が行われることを求める祈りです。
 主イエスがこれを祈るようにと勧められたのは、地においては神の御心が行われていないからです。神の御心に背く人間がいるからです。神の御心よりも、自分の思いや願いを通したいと思う私たちがいるからです。神はこの祈りをとおして、私たち人間が神の御心に従うことを求めておられます。
 私たちがこの祈りを心から祈ろうとするとき、私たちが問いかけられていることは、「あなたにとって、本当に『イエスは主』と言えるか」ということです。私たちは自分の人生の領域においては、自分が全ての采配を振りたい、自分が主人でありたいと願うものです。
 私たちがこの祈りを自らの祈りにできるのは、この祈りが主イエスが教えてくださった祈りだからです。主イエスは私たちのために十字架にかかられる直前、ゲツセマネの園で祈られたとき、苦しみの杯を逃れる道を求めながらも、「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と祈られました。そして、父なる神の御心に従い、私たちを罪の滅びから救うために、十字架にかかってくださったのです。神の御心とは、私たちを救い、祝福するところにあります。
 このような神だからこそ、私たちは絶対的な信頼をもって、「あなたの御心が行われますように」と心から祈ることができるのです。
(仙台南光沢教会 佐藤信人牧師)

 主の祈りの第二の祈りは、「御国を来たらせたまえ」。御国とは、天国、あるいは神の国と言い換えることもできます。私たちがすぐにイメージするのは、信仰者が死んだ後に行く所ということでしょう。そしてもう一つは、世の終わり、主イエスが再臨されるときに実現する神の国ということです。初代教会の人々は、「マラナタ(主よ、来たりませ)」と切に祈り求めていました。
 もし、この第二の祈りが、死後の世界や再臨において実現する国を指すとしたら、私たち多くの人にとり、今すぐには聞かれなくてもいい祈りになることでしょう。しかし聖書では、神の国は将来に実現する国ということだけでなく、今すでに来ているものとしても語られています。
 主イエスがパリサイ人から「神の国はいつ来るのか」という質問を受けたとき、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」と言われました。ここで言われている神の国とは、どこかの場所や空間を表すのではなく、「神の支配」と言い換えられる言葉です。神が恵みをもって支配してくださる、それが神の国が意味するところです。
 私たちの現実の世界は、神ではなく人間に過ぎない者たちが、まるで支配者のように振る舞っています。私たち信仰者の中でも、キリストの恵みの支配が始まったものの、未完成の状態であって、キリストの完全な支配を待ち望んでいる途上にあると言えるでしょう。神が支配してくださることこそ、私たちにとっての祝福です。だからこそ、この祈りが私たちの心からの願いとなります。「御国を来たらせたまえ」と。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 主の祈りでは六つの願いが祈られていますが、前半の三つは神に関する願い、後半の三つは人間に関する願いとなっています。神に関する願いの最初の祈りは、「御名をあがめさせたまえ」です。これは驚くべき祈りの言葉です。私たちは主イエスから教えられなければ、神の御名があがめられることなど祈りもしないでしょう。ひたすら自分のために祈る私たちです。
 「あがめる」とは、「聖とする」という意味の言葉です。他の一切のものと区別して扱う、ということです。神を聖とするとは、父なる神を他のいかなるものとも区別し、正しく尊ぶことです。このように祈ることを教えられたのは、私たちが神を神とせず、自分の願いを叶えてくれそうな存在を神のように慕い求めてしまうからです。私たちキリスト者も、神に祈りながらも、その宗教的な態度においては偶像礼拝と同じように、神を自分の僕のようにして、ひたすら自分の願いに答えてもらおうとしてしまうことがあります。神と私たちとの立場が転倒してしまうのです。この祈りは、そのように逆さまになっている私たちのあり方を正しい位置へと戻す祈りです。
 私たちが神をあがめるとは、大きな神をふさわしく大きくすることであり、反対に、私たちを神の前で小さくすることです。私たちがいつの間にか神の前で大きくなり過ぎているからです。その姿勢は、礼拝をささげる者の姿です。イエス・キリストを与えてくださった大きな神の前にひざまずき、ひれ伏すことをとおして、私たちは神を大きくし、神をあがめるのです。これは卑屈になることではありません。神に創造された存在として、これによって本来の健やかさを回復していくのです。

 「放蕩息子」の譬え話は、弟息子が帰ってくる話だけで終わらず、兄息子の話が続きます。これにより、聖書が語る罪とは何か、悔い改めとは何かが、より鮮明になります。
 弟息子が帰ってきたとき、父は大喜びで彼を迎え、盛大な晩餐会を催しました。畑から仕事を終えて戻って来た兄はそのことを聞いて腹を立て、家に入ろうとはしませんでした。彼は家から出てきた父に怒りをぶつけます。勝手に家を飛び出し、財産を使い果たして帰って来た弟のために肥えた子牛をほふり、父のもとで真面目に働いてきた自分のためには子やぎ一匹も与えてくれないなんて、あまりにも理不尽だ、と怒るのです。自分の正しさが正当に評価されていないというのです。
 父親に対する兄の訴えの中に、兄の罪が露わになります。彼は自分の弟のことを「このあなたの子」と突き放したように言います。最も大切な隣人である弟を愛するどころか、憎んでいたのです。さらに、父親に対しては、「あなたに仕えて(奴隷を意味する言葉の動詞形)」と言い、父が厳しくケチな親であると誤解していたのです。ここにもう一人、失われた息子がいました。父の最も近くにいながら、心においては遠く離れていたのです。この息子のためにも、父親は宴会の席を中座して、迎えに出なければなりませんでした。
 私たちは、弟のようであり、兄のようでもあります。いずれにしろ、父なる神の憐れみによる走りよりがなければ、父のもとへ帰ることができません。そして、神が御子キリストをこの世に遣わし、帰ってくるようにと招いていてくださるからこそ、神から離れた私たちも、喜びと感謝をもって神のもとへ帰り、「父よ」と神を呼ぶことができるのです。
(仙台南光沢教会 佐藤信人牧師)

 「放蕩息子」の名が付けられたこの譬え話は、多くはこの息子の悔い改めが中心にして語られます。同じように、私たちも罪を素直に悔い改めるようにと勧められます。しかし、主イエスがルカ15章で三つの譬えを語られたとき、失われた側ではなく、失われたものを探し求めて大喜びをする人に焦点を当てています。
 この放蕩息子の譬えでも、主イエスは息子を迎え入れる父親の姿に焦点を当て、あなたがたの父なる神はこのようなお方である、と紹介しています。すなわち、この父親は、自分勝手に家を飛び出していった弟息子を何の条件も付けることなく、そのままで迎え入れています。
 息子の側には、「息子と呼ばれる資格などない」という拘りがあります。生きるために、家に帰って行かざるを得なくなったのですが、今さら息子としては帰ることなどできない、雇い人として家においてもらおうと考えたのです。息子にとり、父との断絶は大きいのです。その大きな断絶を乗り越えさせたものは、父の憐れみによる駆け寄りでした。帰るに帰れない息子を、父は走り寄って迎え入れたのです。息子の悔い改め具合など確かめもせず、そのままで受け入れたのです。罪を持った息子を無条件で赦したのです。
 私たちは、こちら側がちゃんと悔い改めたら、神も赦してくださる、と思っています。けれどもそうではありません。神は、私たちが悔い改める前から、赦しておられます。御子キリストが人となってこの世に来られたことは、父なる神の憐れみによる駆け寄りを表しています。主イエスの十字架によって、私たちの罪は赦されているのです。その赦しの恵みが分かるとき、私たちは心から悔い改めることができるのです。
(仙台南光沢教会 佐藤信人牧師)

 祈りにおいて、「父よ」と神を呼ぶことから始めるようにと主イエスは教えられました。その父なる神と私たち人間との関係を見事に表しているのが、放蕩息子の譬え話です。
 ある人に二人の息子がいました。弟息子が父親に遺産を分けてくれるように願い出ると、父はそのとおりに分けてやりました。すると息子は、全てをお金に換え、荷物をまとめて父の家を出ていきました。キリスト教信仰における罪とは、父なる神から離れ、神を無視して生きることです。人は造り主なる神からも自由になりたいと願うものです。その自由とは、我が儘に生きる自由、自分勝手な自由です。しかし、神から離れて生きるとき、その行き着く先は罪に囚われ、欲望に振り回されて生きるものとなってしまいます。
 父の家を捨て、遠い国へ行った息子は、放蕩生活の末、財産を使い果たしてしまいました。食べることさえままならなくなったのです。自由を追い求めた結果、極めて不自由な生活に陥ったのです。これこそ、神から離れて生きる私たちの姿です。
 生活が破綻したとき、この息子は我に返り、父の家を飛び出して来たことが全ての原因であることに気づきました。彼は父の家に帰り、お詫びしようと歩き始めます。主イエスはこのとき、もう息子と呼ばれる資格はない、と自覚した彼が、「父よ」と呼ぶ姿を描いています。それは、神の子と呼ばれる資格などない私たちが、なお神に向かって「父よ」と呼ぶことが許されている、ということです。私たちが神を呼ぶ前から、神が私たちを子として招いておられるからです。だからこそ、私たちはどのようなときにも、「父よ」と神を呼ぶことができるのです。
(仙台南光沢教会 佐藤信人牧師)

 私たちが祈るとき、天の神に向かって「父よ」と呼ぶようにと主イエスは教えられました。主イエスが話しておられたアラム語では「アバ」、これは幼子が父親を呼ぶときの言葉で、愛と信頼を込めた、本当の子だけが口にできる言葉です。私たちが天の神に向かってこのように呼べるのは、恵みによって神の子とされたからです。そこには、「父よ」と呼ぶことができる者とされた大きな喜びがあります。
 祈りにおいて、私たちはそのような喜びをもって神を呼んでいるでしょうか。どのように呼ぶかは、神をどのようなお方として捉えているかということを反映します。異邦人は神のことを、与えることを拒む方と思っていたため、自分たちがくどくどと祈らなければ聞いてくださらない方と理解していました。
 私たちは神を自分の父親のイメージと重ねてしまうため、父なる神を誤解してしまうことがあります。私たちはあくまで、御子キリストをとおして、また御子について記した聖書をとおして神を知ります。主イエスによって表された神は、私たちに対して喜んで良いものを与えてくださる方であり、私たちのために御子の命をさえ与えてくださる方です。私たちの救いのために、最も大切な御子の命を十字架において与え、それによって私たちを神の子としてくださいました。このような神だからこそ、私たちは喜びと感謝をもって、「父よ」と呼ぶことができるのです。
 主イエスは私たちが愛と信頼をもって「アバ、父よ」と呼ぶように招いておられます。主イエスの十字架の恵みによって神の子とされた者として、大きな喜びをもって「父よ」と神を呼ぼうではありませんか。
(仙台南光沢教会 佐藤信人牧師)

 「主の祈り」において、まず「天にいますわれらの父よ」と神に向かって呼びかけるようにと主イエスは教えられました。キリスト教信仰における祈りは、相手ははっきりしないような独り言の祈りではありません。「このお方に向かって祈りなさい」と主イエスは語られました。
 「天にいます」とは、物理的、空間的な意味ではありません。上空の遙か彼方に、宇宙の果てに神がおられる、というのでないのです。「天」とは、神がおられるところを意味します。地上に生きる私たちとはかけ離れた存在としての神を意味します。「はじめに神は天と地とを創造された」と聖書が始まっているように、この世界の全てを造られた神がおられる、ということがキリスト教信仰の大切な土台です。人間が神を造り出すのではなく、人間とこの世界を造られた神がおられるのです。そのお方に向かって、「天にいますわれらの父よ」と呼びかけるようにと主イエスは言われます。
 ただ、そう呼びかける私たちは、地上のさまざまなことに振り回されて生きています。その苦しみの中で、天の神に地上の私のこの苦しみや悩みが分かるはずがない、とさえ思ってしまうことがあります。しかし、私たちが忘れてはならないことは、私たちが目を上げる天は、復活された主イエスが帰って行かれたところです。天の神に呼びかけるとき、その傍らには、主イエスがおられます。私たちのために十字架で命を捨ててくださった主イエスが、天の神の右におられ、私たちの祈りをとりなしておられるのです。
 だからこそ、私たちは主イエスを頼みとし、大胆に、「天にいます神よ」と呼ぶことができるのです。
(仙台南光沢教会 佐藤信人牧師)

 主イエスが祈っておられる姿を見ていた弟子たちが、「わたしたちにも祈ることを教えてください」と願い出ました。主イエスの祈る姿を見て、自分たちの祈りとは全く違うことに気づかされたのでしょう。
 この弟子たちの求めに対して、主イエスは「主の祈り」を教えてくださいました。それに続いて、真夜中にパンを求めて隣人の家の戸を叩く人のたとえを語られました。長旅をしてやってきた友人のために、隣人にパンをもらおうとして必死に家の戸を叩く姿は、閉ざされている祈りの世界が開かれることを願い求める弟子たちの姿と重なります。
 このとき、弟子たちが目にしたのは、主イエスの祈りの世界は自分たちの知らない世界、別次元の世界ということでした。その主イエスの祈りの世界は、ヨルダン川で洗礼を受けられた直後の出来事に表されています。主イエスが祈っておられると、天が開いて、聖霊が主イエスの上に下り、天からの声が聞こえました。祈りとは、閉ざされていた天が開かれ、父なる神との対話が生まれる、そのようなものです。そのような世界になるために必要なもの、それが弟子たちに欠けていた聖霊なる神の働きでした。先ほどのたとえの最後で、主イエスは「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」と言われました。祈りを成り立たせる聖霊なる神を遣わしてくださるとの約束です。
 そして、聖霊の助けによって、天が開かれるために、「主の祈り」を与えて下さいました。主の命の息吹が注がれたこの祈りをとおして、聖霊が豊かに働き、天が開かれる出来事が私たちにも起こるのです。主エスは今日も、私たちをそのような祈りの世界へと招いておられます。
(仙台南光沢教会 佐藤信人牧師)

 主イエスは弟子たちと共にベタニヤに住むマルタ、マリヤ、ラザロの三姉弟の家に行かれました。姉のマルタはもてなしの準備をし、妹マリヤは高価なナルドの香油を惜しげもなく主イエスの足に注ぎました。思い思いのわざをもって、主イエスへの愛と感謝を表しました。
 そのような中、弟のラザロについて、聖書は「ラザロも加わっていた」とだけ記します。原文では「いた」という意味の言葉です。ラザロは何もせず、何も言葉を発せず、主イエスを前にしてただそこにいただけでした。私たちの日常生活の中で、何もせずにそこに存在するだけ、という時間がどれほどあるでしょうか。私たちは「いる」よりも「する」ことに価値を見いだします。「人間」を意味する英語は“human being”ですが、現代において、人は“human being”ではなく、“human doing”になっているとある人は評しました。何かをしていないと人間ではないかのように思える時代です。
 このラザロについて、聖書はラザロがしたことではなく、主イエスがラザロにしてくださったことを繰り返し記します。「イエスが死人の中からよみがえらせたラザロ」と。私たちが生きて行く中で、これこそ大事な点です。主イエスが私たちの人生に何をしてくださったか、これによって私たちは生きるのです。
 ラザロという名は「神は私の助け」という意味ですが、ラザロは主イエスによって甦らせていただき、助けていただいた自分を「ありのままの私」として受け止め、神の助けを信じて安心して生きることができたのです。この主イエスを信じることによって、私たちも「ありのままに」生きることができるのです。
(三沢キリスト教会 篠崎 和牧師)