三回にわたって「だれが」と問うて、神に義とされた者たちの救いを否定できる者は誰もいないことを語ったパウロは、さらに「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか」と問いかけます。引き離す力を持っているように思えるものを列挙しながら、御子キリストを与えてくださった神の愛から、私たちを引き離すことができるものなど何もないことを告げます。たとえ様々な苦しみが襲ってきたとしても、「私たちは圧倒的な勝利者です」と。
 そしてついに、この手紙の頂点、そればかりか新約聖書のクライマックスとも言われるパウロの確信の言葉が語られます。「わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである」。人間を圧倒してしまう死さえも、キリストの十字架に表された神の愛から私たちを引き離すことなど出来ない、と高らかに宣言します。
 私たちはいつも、どこに神の愛を認めようとしているでしょうか。もし、自分の周りに起こってくる様々な出来事の中に神の愛を確かめようとするなら、いとも簡単に神の愛から引き離されたしまうことでしょう。神の愛は、御子キリストの十字架に決定的に表されています。私たちがこの神の愛から引き離されることがないのは、私たちが神をしっかりと捕らえているからではなく、神によって捕らえられているからです。信仰とは、神によって捕らえられていることを信じ、受け入れることです。救いの確かさは、私たちにあるのでなく、神の愛にあるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ローマ8章の最後の段落は、この手紙だけでなく、聖書全体における一つの頂点、クライマックスであると言われます。ここに、救いの喜びが高らかに歌い上げられています。
 パウロはこれまでの内容を要約して、「もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」と問いかけます。この「もし」は不確定な「もし」ではなく、「確かに神はわたしたちの味方なのだから」との意味です。そのとき、もはや神を信じる者たちに敵対できる者は誰もいない、と語ります。 信仰者に敵対する勢力は、神の前で私たちを訴え、罪に定めようとします。「この人にはこのような罪があるではないか」と訴えて断罪するのです。そして、私たちはそのような声に惑わされて、「私のような者は、とてもクリスチャンとは言えない」と、自ら罪に定めてしまうことがあります。
 けれどもパウロは、神がなされた救いのわざを指し示して、「敵対できる者は誰もいない」と告げます。父なる神は、御子をさえ惜しまずに私たちのために死に渡されたではないか、と。私たちの側にその資格があったからではなく、私たちがまだ敵であったときに、御子キリストは十字架で死んでくださいました。そしてキリストは今も、神の右の座にあって私たちのために神にとりなしをしておられます。この御子キリストがおられるからこそ、私たちは安心することができるのです。
 クリスマスにおいて、御子キリストは私たちの味方となるために、天の王座を降り、人となってこの世に来てくださいました。この神が私たちの味方としておられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 私たちは皆、人生の途中で、やりかけのことを残したまま天に召されて行きます。どんな人の死も、「途上の死」とも言うべき側面を持っています。旧約の偉大な信仰者モーセもそうでした。出エジプトの民を率いて40年の荒野の旅を続けた後、モーセたちはついに約束の地の手前までやってきました。ヨルダン川を渡ればそこが約束の地でした。
 ところが、神はモーセに対して、「おまえはこのヨルダンを渡ることができない」と言われました。約束の地に入ることなく、こちら側で死ぬというのです。詩篇90篇は「神の人モーセの祈」という表題が付いていますが、人は神から「人の子よ、帰れ」と声をかけられて死を迎えると記されています。モーセはこのとき、「モーセよ、帰ってきなさい」と声をかけられたのです。
 もう120才に達していたとはいえ、約束の地を目前にして死ななければならないのは、モーセにとっても無念だったでしょう。やりかけの仕事を残したまま、その途中で死を迎えるということは、全ての人にとって最後の、そして最大の試練でしょう。死の現実を受け入れるには葛藤があり、時間がかかるものです。
 モーセは民に向かって、「私はここで死ぬ」と告げることをとおして、自分の死を受け入れていきました。モーセは主の命令に従って、約束の地に入ることなく、あとは全てを主の御手に委ねて死んでいきました。
 私たちも、親しい者の命が奪われるとき、大きな悲しみを経験します。それでもなお、全ては主の御手にあり、深い神の御旨をそこにあると信じて受け止めます。そこに、新しい出発をする力が与えられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 100歳のアブラハムと90歳のサラに、神の約束の成就としてイサクが与えられました。しかし既にアブラハムには、女奴隷ハガルとの間に生まれたイシマエルがいました。それは神の約束を待ちきれなかったアブラハム夫婦の工作によるものでしたが、ここから家庭はお世継ぎ問題の修羅場となりました。
 身勝手なサラは、今や邪魔者となったイシマエル親子を荒野に追い出すよう、アブラハムに要求します。すると苦悩するアブラハムに神は語られました。「あなたは苦しまなくてよい。あなた方の不信仰から発したすべての問題の後始末を私が引き受ける」と。そしてイサクの子孫が正統な跡継ぎであり、同時にイシマエルをも祝福して一つの大いなる国民にすると、新しい約束をアブラハム夫婦とハガルに与えてくださったのでした。
 全能なる神は人の思いや罪や弱さ、失敗をもご自分の計画に新たに取り込んでくださり、それをみ心に沿って用いることができるお方です。ただ、これは決して人の罪や弱さが正当化されているわけではありません。神はご自分の主権に基づいて、初めの計画からすればみ心ではない事柄にも心を配られ、憐れみを示してくださるということです。たとえそれが私たちの罪の結果であれ、私たちがどうすることも出来ない事態に、神はいつも慈しみ深く関わってくださり、尻ぬぐいをしてくださるのです。
 私たちはこのお方のみ手に自分の人生を委ね、私たちの内に神のみ心が成っていくことを求めて生きていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 私たちの祈りを執り成してくださる御霊は、「神の御旨にかなうとりなし」をしてくださいます。私たちに対する神の御旨、深いご計画は、予め選び出してくださった私たちを完全に救ってくださることです。その目標に向かって、御霊がとりなしておられるというのです。
 だからこそ、パウロは有名な28節でこう述べます。「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」。
神は私たちのために、全てのことが最終的には益となるように働き続けておられるというのです。
 「すべてのこと」と言われると、本当にそうだろうか?と疑問に思うことがあるでしょう。そのようには思えない現実があるからです。そうなると、本当の問題は、何を益とみなすか、ということであり、そもそも「これが最善である」と決めるのは誰か、ということです。私たちがこの聖句を読むとき、「全てのことは私が願っているような益へと変えられる」と読もうとするでしょう。益であるかどうかを判断するのは自分であると考えるのです。
 しかし、私たちにとって何が最善であるかを知っておられるのは神です。私たちを召された神は、私たち以上に、何が最善であるかを知っておられます。私たちの目には、今はそのことが見えないかもしれません。ずっと後になって、「本当に神が最善をなしてくださった」と気づくことがあります。それゆえ、私たちは御子をさえ与えてくださった神の愛を信じて、神が最善をなしてくださると信じて今を生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 教会堂を建てるときの起工式などでよく読まれるこの詩は、新会堂の建築を願う私たちが常に心に留めておくべき聖句です。表題に「ソロモンがよんだ都もうでの歌」とありますが、この1、2節には「むなしい」という言葉が繰り返されています。家を建てるのも、町を守るのも、また日々の労働においても、主が共にいて働いてくださるのでなければ、その人間のわざは空しい、と言うのです。これは人間の働きそのものを全否定しているのではありません。神の存在を計算に入れず、神を抜きにしてわざを進めようとすることの空しさを語っています。
 このように詩人が語るのは、私たち信仰者が、主に対する信仰を告白しながらも、現実的なわざになると、神を退け、自分たちの知恵や力だけで事を進めようとするからです。主なる神ではなく、いつの間にか自分たちが主人となってしまいます。そのような私たちに、主の導きに信頼し、具体的なわざにおいて、主を中心に迎え入れるようにと勧めます。
 出エジプトの民が荒野で幕屋を建設するときも、主が命じられたとおりに従いました。その主の御心を熱心に求めたからこそ、使徒行伝の教会は激しく意見をぶつけ合いました。しかし、一度結論が出ると、潔く自分の考えを取り下げ、「これぞ主の御心」と信じて一致協力しました。話し合いの中に、主が御心を現してくださると信じていたのです。
 主を中心にお迎えした神の民は、ヨルダン川を渡るときも勇気をもって踏み出し、幕屋を建設するときも、主によって心を動かされ、喜んでささげものをしました。私たちも「主が建ててくださる」と信じ、主のみわざに期待しつつ、信仰の一歩を踏み出して行きたいと思います。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 私たちは罪による弱さとともに、被造物としての限界による弱さがあります。その弱さの一つの表れとして、大きな苦しみや悲しみに遭ったとき、どう祈ったらいいか分からない、という弱さに直面します。神に祈りたいことはたくさんあるにも関わらず、祈りの言葉が見つからず、ただうめくしかないことがあります。パウロは、祈れないのは私たちの不信仰によるのではなく、私たちの弱さだと言います。
 そのとき、私たちの内に住んでおられる御霊が、弱い私たちを助けてくださいます。御霊が同じようにうめきながら、私たちのために執りなしてくださるというのです。私たちはその御霊のうめきを聴くことはできません。しかし、御霊がうめきながら私たちのために執りなしておられることを信じることができます。
 その御霊は、私たちのために正しい執りなしをしてくださいます。それは、神の御旨にかなう執りなしです。私たちは自己中心のため、神の心に反するような祈りをささげることがあります。御霊は、私たちの願っているとおりになるように執りなすのではなく、神の御心に沿って執りなしをしてくださいます。
 パウロはさらに、この8章の後半で、御子イエスによる執りなしを紹介します。私たちのために十字架で命をかけて執りなしをしてくださった主イエスが、今は神の右の座にあって私たちのために執りなしをしておられるというのです。地上にあっては御霊がうめきをもって私たちの祈りを執りなし、天においては御子イエスが執りなし、父なる神がそれを聴いてくださいます。
 三位一体の神の働きがあるからこそ、私たちは苦しみの中で、「アバ、父よ」と叫ぶことができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 神の養子とされたキリスト者は、御子キリストと共に「共同の相続人」とされました。それにより、キリストの栄光を共にするだけでなく、苦しみをも共にする者となりました。キリスト者であるために受ける苦しみとともに、人として避けることのできない苦しみがあります。
 その苦しみについて、パウロはここで、「やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない」と言いました。苦しみなど知らないパウロではありません。彼は誰よりも多くの苦しみを経験してきた人でした。そのため、苦しみがどれほど人間から望みを奪い去ってしまう力を持っているかをよく知っていました。
 苦しみに耐える人々の姿を「うめく」と表現します。言葉で表現できない複雑な気持ちを心の中に抱えているとき、人はうめくことしかできません。それは人間だけでなく、被造物全体がうめきつつ、世の終わりにおける救いの完成を待ち望んでいるというのです。
 パウロは、世の終わりに与えられる救いの恵みの豊かさをまっすぐに見つめていた人でした。今は覆いがかかって見ることができない神の国の世界について、まだ存在していないのではなく、幕が降りている舞台の向こう側で準備が整えられているように、神の側では私たちに豊かな救いの恵みを与えようと、すでに用意していてくださいます。
 その栄光ある世界を信仰をもって見つめたとき、「今のこの苦しみは取るに足りない」とパウロは言い切ったのです。信仰をもって神の世界を見つめるところに、今を耐え忍んで生きる力が与えられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 神の霊に導かれて生きる者たちは神の子であるとパウロは語ります。洗礼によって受けた霊は、「恐れをいだかせる奴隷の霊」ではなく、「子たる身分を授ける霊」だと言います。
 このように語るのは、神の子とされたはずのキリスト者が、主人を恐れる奴隷のような心で生きてしまうことがあるからでしょう。アダムが罪を犯したとき、神を恐れて木の陰に身を隠したように、罪を持った人間は、断罪されるのではないかと神を恐れてしまうのです。
 そのような私たちに、「あなたがたはもはや奴隷ではなく、神の子とされたのだ」と語ります。裁かれるのではないかと神を怖がって生きる必要はなくなりました。「子たる身分を授ける霊」によって、天の神を「アバ、父よ」と呼ぶことができるようになりました。「アバ」とは、主イエスが使っておられたアラム語で父親を意味する幼児語です。「パパ」と親しく呼びかけるときの言葉です。幼子が父親の懐に飛び込むようにして、愛と信頼を込めて、「お父さん」と呼びかけるのです。
 主イエスがこの言葉を実際に口にされたのは、十字架を前にしたゲツセマネの祈りのときです。死の苦しみの中で、「アバ、父よ」と叫び声を上げられました。その主イエスが、私たちに同じように神を呼ぶように勧めておられます。
 私たちの中には、「父よ」と神を呼ぶことを躊躇する思いがあるかもしれません。そのような私たちが心から「父よ」と神を呼ぶことができるのは、神と罪人との間にある深い溝を乗り越えるようにして、神が人となってこの世に来てくださり、十字架で命をかけてくださったからです。この神の大きな愛に応えて、「父よ」と呼ぶ者にされるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 この書を書いている伝道者の周りにいる老いた者たちの中に、「わたしにはなんの楽しみ(喜び)もない」と嘆く人たちがいたようです。年とともに、それまで楽しみとしていたものが一つずつ奪われて行ったからでしょう。伝道者は2節から6節にかけて、人が年とともに衰えていく様子を描写し、ついにはちりに帰る現実を語ります。
 そのように衰えていく老人たちが「なんの楽しみもない」と嘆く姿を見つめながら、伝道者は「空の空、いっさいは空である」と語ります。これは、この書の最初から著者が語ってきたことでした。「空」という字は、「のみなどであけられた穴」という意味です。人の心には大きな穴があいてしまっていて、心がそれを感じ取るとき、空しさとなって意識されます。これは、なにも老人だけでなく、若者たちにも共通する問題です。ただ、若者たちは、その空しさを忘れさせてくれる様々な楽しみがあるため、心の空洞を意識しないで済んでいるだけです。けれどもその重要な問題が問題化するときが来ます。老年となって、この世の楽しみが奪われてしまうときです。もはや、心の穴を埋めることができなくなるのです。
 だからこそ、伝道者はすべての人に対して、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と勧めます。私たちが空しさから解放されるのは、私たちの本当の価値を知っておられる造り主なる神を知ることによってです。私たちの心にあいている穴は、神を受け入れるための場所です。神を心の王座に主人として迎え入れるとき、老いてなお喜びに生きる人生がそこから始まるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)