イサクは父アブラハムから継承した神の祝福を長男エサウに与え、彼を後継者にしようとようと考えていました。しかし神のみ心は、それはエサウではなく弟のヤコブでした。
 エサウは、たった一杯の煮物と引き替えに長子の権利をヤコブに売り渡してしまうほど、神の祝福を軽んじていましが、それでもイサクは、お気に入りのエサウに祝福を与えようとします。一方、弟ヤコブに祝福を継がせたい母リベカは、ヤコブと共謀してイサクを騙します。そしてヤコブが祝福を受けてしまいました。
 リベカとヤコブのこの行為は、み心にかなったことではありません。しかしイサクはここに、主なる神のみ業を見たのでした。イサクは神のみ心にあえて目をつぶって、自分の思いを押し通そうとしたのです。にもかかわらず騙されて、結局ヤコブに祝福を与えてしまいました。そのことを知った時イサクは、主なる神は生きておられ、人間のあらゆる思いを超えてみ心を行なっておられることをハッキリと悟って、激しく震えたのです(33節)。
 「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ」(箴言19:21)。生きておられるまことの神は、たとえ私たちのたくらみや嘘、罪であっても、それさえも用いてみ心を成し遂げることがおできになるのです。
 私たちの人生にも、人の思いや計画を超えて、神のみ心が実現されていきます。私たちを救うために、み子をさえ惜しまずに与えて下さったお方は、どこまでも愛の神です。その神のみ心が 私たちの人生を貫いて、私たちを支えてくださるのです。何とありがたいことでしょうか。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤裕子)

 神によって義とされる、救いの恵みについて、ユダヤ人と異邦人における逆転した現実をパウロは語ります。真の神を知らず、義を追い求めもしなかった異邦人が救いの恵みにあずかったのに対して、熱心に律法の義を追い求めたイスラエルが救いに至らなかった、というのです。
 この両者の対照的な姿は、マタイ20章にあるぶどう園の労働者の譬え話を思い起こさせます。ぶどう園において、一日一デナリの報酬を約束されて労働者たちが働き始めました。夕暮れになり、主人は彼らに、夜明けから一日中働いた労働者も、夕方5時にやってきてたった一時間しか働かなかった労働者も、同じ一デナリを支払いました。すると、早朝から一日中働いた労働者が主人に文句を言いました。ほとんど働いていない人と自分たちが一緒の賃金はおかしい、自分たちの苦労はもっと評価されるべきだ、と。
 それに似て、ユダヤ人たちは自分たちの正しい行いによって神の義を得られると思っていました。しかし、救いは自分のわざによって獲得するものでなく、神が一方的な恵みとして与えてくださるものです。私たちはただ感謝して受け取るだけです。何の資格もない者たちを、御子キリストの十字架の犠牲のゆえに、救ってくださるのです。
 自分たちの実績を誇るユダヤ人たちにとり、キリストはつまずきの石となりました。しかし、神が置かれたこのつまずきの石は、自分の罪を徹底的に知らされた者にとっては救いの岩となります。私たちは皆、神のみ前では実績ゼロの者たちです。そのような私たちが、ただキリストの恵みによって救われたのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 救いの与った者たちについて、「神による選び」と説明したパウロは、ここでは「残された者」と表現しました。罪のゆえに滅びることになっていた「怒りの器」が、神の憐れみによって残されたというのです。
 その神の憐れみについて、預言者ホセアの言葉を引用して語ります。ホセアは自分の生まれた子の名を「あわれまれない者」、「私の民ではない者」と付けるように主に命じられます。それはイスラエルの民に対する神の思いを表していました。神の民イスラエルは、主に「私の民ではない」と告げられたのです。
 ホセアはさらに、妻ゴメルのことで大きな痛みを経験しました。彼女は子どもたちを生んだ後、ホセアのもとを去り、他の男性のところへ行き、ついには奴隷の身となっていました。そのとき、主はホセアに「姦淫の妻を愛せよ」と命じられました。ホセアは神の言葉に従い、ゴメルを代価を払って買い戻し、再び妻として迎えました。自らの経験をとおして、イスラエルをなおも愛そうとする神の大きな痛みを知ったのです。
 イスラエルを憐れむ神は、「私の民ではない」と言ったその場所で、「私の民である」と告げてくださるとパウロは語ります。「その場所で」とは、「そのままで」ということです。憐れみを受ける者たちは何の資格もないのに、悔い改めたわけでもないのに、罪人がそのままで恵みを受ける、それが贖いということです。
 罪人が憐れみを受ける「その場所」とは、キリストの十字架という場所です。十字架の下で、「あなたは罪人である」と告げられます。けれども同時に、そこで「あなたの罪は赦された」と告げられます。どんな人も、資格がない者たちが、憐れみを受けるように招かれているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 神が人間に対して絶対的な主権を持っておられる方であることを語ったパウロは、人々から出るであろう問いを取り上げます。「なぜ神は、なおも人を責められるのか」。罪の責任は神にあるのではないか、という人間の心の中にある問いです。
 これに対してパウロは、「神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか」と問い返します。神によって造られた存在である人間が、造り主である神に対して「なぜ自分をこのように造ったのか」と問うことがあるはずないではないか、と言うのです。
 ここで、パウロはキリスト教信仰の大切な土台である、神が造り主であり、人間は神によって造られた存在であることを明示します。この創造者と被造物との関係は、決して逆転できない絶対的な関係です。陶器師が自分の意のままに自由に器を造るように、主権者なる神は絶対的な主権を持っておられます。ところが人は、この秩序を逆転させて、自分が主人になろうとします。これこそ、聖書が語る罪です。神を否定し、自分が主権者になろうとするのです。「あなたは何者なのか」と問うのは、向きを変えて、本来のあるべき姿に戻るようにとの呼びかけです。
 造り主である神は、神に滅ぼされても当然の怒りの器に対し、大いなる寛容をもって忍耐し、あわれんでくださいました。私たち罪人を生かすために、御子キリストが十字架において神の怒りを受けてくださいました。神は、御子キリストを身代わりとするほどに、私たちをあわれみ、「あなたは尊い」と告げておられます。この神のあわれみが注がれていることが分かるとき、神に感謝して生きる者へと変えられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ある主人がぶどう園を造り、農夫たちに貸し与えて旅に出ました。収穫の季節が来たので、その分け前を受け取るために自分の僕を遣わしました。ところが、農夫たちは僕たちに暴力を振るい、ある者たちを殺してしまいました。主人はそれでも、再び僕たちを送りました。すると、農夫たちは同じように扱いました。主人は三度目の正直とばかりに、今度は自分の跡取り息子を遣わしました。ところが、農夫たちはぶどう園を自分たちのものにしようと考え、息子を殺してしまいました。
 この譬え話をされた主イエスは、「この後、主人はどうするだろうか」と人々に尋ねました。主人の怒りを想像させたのです。これを聞いていたのは、主イエスと衝突していた祭司長や長老たちでした。直前の主イエスによる宮きよめに腹を立てて、「何の権威があってこんなことをするのか」と文句を言ったのです。彼らの問いかけに対する答えとして、主イエスはこれを語られました。
 この譬え話の農夫たちのように、祭司長や長老たちは、この世が神のものであり、神の子イエスこそ主人であることを忘れていました。主イエスを殺すことによって、自分たちがこの世の主人になろうとしていたのです。祭司長たちだけではありません。私たちも、神の存在を私たちの生活の中から抹殺することにより、自分が主人になって生きようとします。それこそ、聖書が語る罪の根源です。神と人とを退け、自分が主になって生きてしまうのです。
 そのような私たちに対して、神は私たちを皆殺しにするのではなく、悔い改めて帰ってくるのを待っておられます。御子キリストを十字架で殺し、反対に私たちを生かそうと、愛をもって招いておられるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 神による一方的な選びについて、パウロは「神の側に不正があるのか」との問いを提示します。これは「神はいない」と言うようなものです。
 パウロはすぐさまそれを否定し、神はご自分があわれもうとする者をあわれまれることを、出エジプト記の聖句を引用して説明します。モーセに率いられてエジプトを出てきたイスラエルの民が、荒野において神に背き、金の子牛像を礼拝するという大きな罪を犯しました。民の執り成しをしたモーセに対して、神は罪を犯したイスラエルの民をあわれんでくださることを約束されました。
 さらに、この神の自由な選びの計画は、神に敵対するエジプト王パロまで入れられていたことをパウロは語ります。神がご自分の力を現すために、パロをも立てたというのです。「だから、神はそのあわれもうと思う者をあわれみ、かたくなにしようと思う者を、かたくなになさるのである」と。事実、エジプト王パロは神によって心をかたくなにされたと聖書は記しています。
 使徒パウロはローマ教会の信徒たちにこれらを書き送りながら、神のあわれみを受けるに相応しい生活をしなさい、と勧めているのではなく、神があわれんでくださったことを思い起こすように促します。今、彼らが神を信じる者として生かされているのは、自分たちのわざによるのではなく、神の一方的なあわれみによるものでした。その神の自由なあわれみは、御子キリストを十字架につけるという出来事に現されました。
 私たちに求められていることは、すでに注がれている神のあわれみを感謝をもって受けるだけです。恵みを受け取ることが信仰なのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 「わたしの隣人とはだれか」という律法学者たちの質問に答えて、主イエスは「良きサマリヤ人」という名で知られる譬え話をされました。
 一人のユダヤ人の旅人がエルサレムからエリコへと向かう途中、強盗に襲われ、持ち物を奪われ、半殺しにあって路上に投げ出されました。そこを通りかかった祭司とレビ人はそれぞれ道の向こう側を通り過ぎて行きました。ところが、あるサマリヤ人は、倒れている旅人を見て憐れに思い、相手が敵対関係にあったユダヤ人であるにも関わらず、彼を助けてあげました。
 祭司やレビ人には、死にかけていた旅人を助けてあげられないそれなりの理由があったことでしょう。サマリヤ人はなおさら、敵対関係にあった民族ですから、むしろ助けないほうが当然と思われます。その彼がなぜユダヤ人の旅人を助けたのか、その理由はただ一つ、「彼を見て気の毒に思い」ということです。これははらわたが痛むほどの深い憐れみの心を意味します。その憐れみの心は、敵対関係を吹き飛ばしたのです。
 この「憐れに思う」という言葉は、新約聖書では福音書だけに出てくる言葉であり、しかも、人間に対しては使われることのない、神や主イエスの心だけを示す言葉として使われています。それゆえ、このサマリヤ人は誰よりも主イエスご自身を表していると言われます。主イエスこそ、罪のために倒れてしまっている私たちを深く憐れみ、私たちを救うために、天の王座を降り、人間の世界へと降って来てくださいました。そればかりか、ご自分の命をかけて罪の代価を支払ってくださったのです。
 主イエスの十字架の憐れみを受けた者として、私たちは他者のために生きる者へと変えられたのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 同胞イスラエルの民が救われて行かない現実を前に、パウロは「神の言葉は無効になってしまったのか」という問いを提出します。これに対して、神の約束の言葉が無効になったのではなく、ヤコブの子孫だからといって全てがイスラエルとなるのではないこと、肉の子がそのまま神の子ではないと語ります。これはユダヤ人からすれば決して認めることのできない驚くべき言葉です。
 そのことを、アブラハムの子を例にして語ります。神は、妻サラに子が生まれるという約束の言葉を信じられなかったアブラハムとサラに、イサクを与えてくださいました。彼らの不信仰にもかかわらず、約束の言葉を成就してくださったのです。
 さらにパウロは、イサクの子として生まれた双子の兄エサウと弟ヤコブの選びについて取り上げます。妻リベカが子を宿したとき、神は「兄は弟に仕えるであろう」と告げられました。まだ子が生まれる前ですから、人間のわざによるのではなく、ただ一方的に神がヤコブを選ばれたということです。人間的には、ヤコブは問題があるような人物です。ところが神は、そのヤコブをイサクの跡取りとして選ばれました。
 なぜ神はエサウではなく、ヤコブを選ばれたのか、その理由は「神がそのように選ばれた」としか説明できません。神がそのように計画されたということです。
 その神は、救いの計画の中心として、御子キリストを世に遣わし、十字架につけられました。私たちを救うために、驚くべき恵みのわざをなしてくださいました。そればかりか、私たち一人一人を救いの計画の中に入れてくださいました。私たちが救われたのは、神の一方的な選びの恵みによるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 罪を犯したために国が滅ぼされた絶望的な状況の中で、神がどのようなお方であるかを思い起こしたとき、そこに望みが生まれ、神を待ち望む心が与えられました。
 エレミヤは、神による救いのわざを待ち望む姿勢について、「主の救を静かに待ち望むことは、良いことである」と言い、さらに「主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい」と語ります。「静かに」「黙して」とあるのは、神が自分たちの罪を示されたとき、もはや言い訳をするのではなく、それをそのまま受け止めようとする態度です。自分の罪と真正面から向き合うことをエレミヤは勧めます。
 このときエレミヤは、「満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ」と語ります。「もうそれでよい」と言われるまで、神による罪の指摘をそのままで受け止めるようにとの勧めです。これは、私たちが罪を示されたとき、「満ち足りるまでにはずかしめを受ける」ということが出来ないからです。しばしば安易な悔い改めがなされます。自分の罪を十分に見つめることをしないままで、実に簡単に罪を悔い改め、「私は赦された」というところに立とうとします。
 そのように自分の罪を見つめることを避け、安易な悔い改めがなされるのは、心の底に大きな恐れがあるからでしょう。自分の真相を知らされることの恐れであり、神に捨てられることへの恐れです。自分の罪を見つめることができないとしたら、それは私たちが神の赦しを信じ切れていないからではないでしょうか。しかし、神の尽きざるいつくしみを信じるからこそ、私たちは安心して自らに絶望することができます。神を信じるからこそ、神の前に悔いくずおれることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 紀元前586年、南王国ユダがバビロニア帝国によって滅ぼされ、都エルサレムは破壊されて焼け野原になり、指導者たちは連行され、男たちは殺され、女たちは犯され、生き残った者たちも飢えのために死んでいく、そのような悲惨な光景を目の当たりにした預言者エレミヤは、涙を流しながらこの哀歌を作りました。
 この哀歌に、嘆きの歌の特徴の一つである「なぜ」という言葉が出てこないのは、哀しみの原因が民の罪にあることをエレミヤはよく知っていたからです。神の怒りを受けて滅ぼされたために、もはや絶望するしかありませんでした。
けれどもエレミヤは、「しかし」と述べて、絶望のただ中で希望を語ります。それまで目の前の悲惨な光景ばかりを見つめていたエレミヤが神ご自身に目を向けたとき、そこに一筋の希望が生まれました。エレミヤが思い起こしたことは、「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない」ということでした。神が民と結んでくださった契約のゆえに、神はご自分の民を決して捨てることはないことを思い起こしたのです。
 この神のいつくしみとあわれみを支えるのは、神の真実です。「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい」。私たちの信仰は、この尽きることのない神の真実にかかっています。私たちの真実さが私たちを救うのではありません。私たちの望みは、神がどんなときにも真実を貫いてくださる、という点にあります。
 一年の歩みの中で、私たちは哀しみに沈み込むことがあるかもしれません。しかし、主のいつくしみ、その真実は尽きることがないゆえに、朝ごとに新しい命が与えられ、立ち上がることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)