パウロはローマ教会の人々に、「眠りからさめるべき時が、すでにきている」と告げました。これはこの世の時間のことではなく、神の時のことです。すなわち、主イエスが再び地上においでになる時、再臨の時のことを指しています。主イエスの再臨が近づいている、というのです。パウロはそれを「救いの時」であると言います。主イエスは私たちを死に定めるのではなく、救いへと定めるために来られるからです。
 その近づいている時に備えて、「やみのわざを捨てて」と進めます。キリスト者が信仰の居眠りをしてしまい、闇のわざにふけってしまうことに忠告を与えています。それらをかなぐり捨てるようにと勧めます。
 さらに、「昼歩くように、つつましく歩こうではないか」と言います。救い主キリストの存在を消し去ってしまうとき、私たちの心は闇に覆われます。だからこそ、私たちは常に造り主なる神を畏れ、「あなたこそ私の主」と光なる主を心の中にお迎えして生きることが必要です。そのとき、キリスト者としてのつつましさ、品位というものが生まれます。
 それは、「主イエス・キリストを着なさい」とあるように、キリストを着た者たちだけが持つ品位です。私たちはすでに、洗礼とともにキリストを着た者たちです。ところが、信仰の居眠りを起こすとき、キリストを脱ぎ捨て、闇のわざを着込んでしまうことがあります。パウロは、繰り返し自覚的にキリストを着るようにと勧めます。私たちはキリストに包まれてこそ、私たちは生きることができます。やがての日、神の審きを受けるときも、キリストに覆われているがゆえに、安心して神の前に立つことができます。主キリストが執り成してくださるからです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 キリスト者の倫理として、パウロは隣人を愛すべきことを勧めます。律法を要約するならば、「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」というこの教えに尽きる、と言います。
 この教えについて、「自分を愛するように」という言葉をどのように受け止めるべきなのか、私たちは戸惑うことがあります。キリスト者は自分を愛してはいけない、自己否定の道を歩むべきだと考えるからです。自分を愛することと、隣人を愛することの二つは両立しないものだと思っているのです。それどころか、自分を愛するとは、自己中心の罪である、と思ってしまうのです。
 確かに、「自分を愛する」と表現されるとき、罪の匂いがする生き方があります。それは隣人ではなく自分を愛する、あるいは自分だけを愛するという利己的な愛、利己愛と呼ぶべき生き方です。これは隣人愛とは対立する生き方です。
 聖書が「自分を愛する」と言うとき、それは自分の存在を尊ぶ、大切にすることであり、健全な意味での自己愛と呼ぶべきものです。これは隣人愛と対立するものではなく、むしろ、本当に自分を尊び、受け入れることができる人だけが、隣人をそのままで愛することができるものです。ありのままの自分を愛することができない人は、隣人をそのままで愛することができません。私たちは自分を愛せず、自己否定の心に苦しんでいる者たちです。
 しかし、そのような無価値な者たちのために、主イエスが十字架にかかり、救い出してくださいました。「あなたはそれでよい」と神が告げてくださったのです。この神の大きな愛を受けるとき、私たちは初めて、ありのままの自分を愛し、人を愛して生きる者へと変えられていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 この詩は、人の命の儚さを語ります。しかも、「人の子よ、帰れ」という神の呼びかけによって人は死ななければならないと言います。その人生は、ひと夜の夢のように、夕方には枯れる草のようだと、詩人は語ります。日本人は、儚さの中に美しさを見いだしますが、聖書は死をさらに厳しく見つめ、人はなぜ死ななければならないのか、ということを語ります。すなわち、罪のゆえに神の裁きを受けて、人は死すべき存在となったことを遠慮なく告げます。
 そこで、詩人に一つの祈りが生まれました。「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」。余命期間を知ろうというのではなく、人生に終わりがあることを弁えて生きるように、ということです。神によって造られた被造物である私たちは、神によってその人生が閉じられる存在であることを自覚し、今をどのように生きるべきかを悟るようにというのです。
 そのとき、詩人にもう一つの祈りが生まれました。「主よ、み心を変えてください。いつまでお怒りになるのですか。あなたのしもべをあわれんでください」。「み心を変えてください」とは、他の訳では「帰ってきてください」と訳されるように、「悔い改める」をも意味する言葉です。神のほうが向きを変え、私たちのところに帰ってきてくださるしか、救いの道がない、というのです。
 この詩人の切なる祈りは、御子キリストの到来によって成就しました。神は向きを変えるようにして、私たちのところへ来てくださり、私たちの罪の裁きを御子に向けられました。このキリストの十字架の恵みにより、私たちは神の招きに応え、今ここで、安心して神のもとに帰ることができるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 十字架の死から甦られた主イエスは、ガリラヤ湖のほとりで弟子たちとお会いになり、ペテロに「わたしに従ってきなさい」と言われました。それは、殉教の死を覚悟した上で従うようにとの招きでした。そのとき、ペテロにまず求められたのは、固い決意や信仰などではなく、主イエスに対する愛でした。
 十字架を前にした最後の晩餐の席でも、主イエスが弟子たちに求められたのは、互いに愛し合うことであり、それを「新しい戒め」として語られました。私たちは、新しく教えられなくても、互いに愛し合うべきことはよく分かっている、と思うものです。ところが、よく分かっているはずの愛を実践できない私たちです。そのような私たちが互いに愛し合って生きる者となるように、主は私たちを造り変えてくださいます。
 一度は主イエスを裏切ったペテロが、死に至るまで主に従って生きる者となるためには、主イエスを愛することが必要でした。その愛は、自分で生み出すものではなく、外から主イエスから与えられるものです。そのために、「わたしを愛するか」と主はペテロに三度問われました。主イエスを三度も否定したペテロにとり、それは悲しみと痛みを与える問いであったでしょう。けれどもそのとき、そのペテロを主イエスが愛しておられる、十字架で命をかけるほどに愛しておられることを痛みをもって知ったのです。
 この主イエスの十字架の愛を知った者たちは、主イエスを愛し、主に従って行く者へとされていきます。主の大きな愛に捕らえられて、私たちも愛に生きる者へと変えられていくのです。
(千葉栄光教会 安井厳牧師)

 パウロは、「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである」と勧めています。キリスト者が国家に対してどのような態度を取るべきかを語っています。この箇所は、時代や地域によって、その受け取り方はさまざまでしょう。信仰者によっては、教会はキリストだけに従うべきであって、この世の権威に従う必要などない、と考える人もいるでしょう。
 パウロがこのように勧めている理由は、「神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたもの」だからです。旧約のイスラエルの王たちとは違って、直接的には神によって立てられたわけではないとしても、神の許しのもとで立てられた権威であることをパウロは認めたのです。
 さらに、そのことを「彼は、あなたに益を与えるための神の僕なのである」と言います。もちろん、神を信じていない権力者たちは、そのようには考えていないでしょう。当時、地上の支配者たちは神の子孫と考えられていました。自分たちこそ神であると思っている王たちについて、「彼らは神ではない。神の僕だ」とパウロは語ったのです。民の益のために神が彼らを王として立てたというのです。神が立てた権威に従うことは、神に従うことを意味しました。
 ローマ帝国による迫害を受け、何度も投獄されていたパウロがこれを語っています。パウロは、ローマ総督ピラトの裁判を受けて十字架にかけられた主イエスの姿を見つめていたことでしょう。そこに神の大いなる支配があると信じて、上に立つ権威に服されたのです。
 「神などいない」と思えるこの世にあって、私たちはキリストの支配がこの世に及んでいることを信じて、歩みを続けたいと思います。

 奴隷となっていたエジプトを脱出したイスラエルの民が、荒野における40年の旅を終え、いよいよ約束の地カナンへと入って行こうとしていました。それを前に、死が近づいていた指導者モーセが民に向かって最後の言葉を語ったのがこの申命記です。その最後に、「イスラエルよ、あなたはしあわせである。だれがあなたのように、主に救われた民があるであろうか」と語りました。定住地を持たない民に、「あなたがたは最高に幸せな民だ」と告げたのです。
 その理由は、「神に並ぶ者はほかにはない」からです。他の神々とは比較にならないほどの神が与えられている、というのです。彼らにとり、主は安らぎを与える住まいであり、彼らの下には永遠の御腕がある、とのモーセは語ります。何が起こっても、主はその御腕を引っ込めることなく、彼らの存在を支え続けてくださるというのです。
 主がそのようなお方であると信じることができるのは、約束の言葉によってです。もし、目の前に見える状況から判断しようとするならば、神に見捨てられたかのように思える時もあることでしょう。けれども私たちは、神の約束の言葉によって、下には永遠の御腕がある、と信じるのです。事実、御子イエスは私たちのために、十字架という最も低い所へと降られました。御子キリストが神に捨てられたことにより、私たちはもはや神に捨てられることはないのです。主の十字架が、どん底で私たちを支えてくださいます。
 この恵みが分かるとき、並ぶ者なき神が与えられている私たちは、「私のような幸せな者はいない」と感謝しつつ生きる者とされるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 十字架を前にした主イエスは、弟子たちを連れてゲツセマネの園へ行き、苦しみの祈りをささげられました。十字架の死は、神の審きを受けて死ぬことを意味したからです。主は祈りの中で、ありのままの思いを口にされます。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯を私から過ぎ去らせてください」。
 けれども主イエスの祈りは、ご自分の思いを一方的に告げるだけの祈りではありませんでした。率直な思いを口にされた後で、「しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と言われました。死ぬほどの苦しみを味わいながら、そこでなお神のみ心を問うのです。み心が示されたならば、それに従います、という姿勢です。
 さらに、弟子たちの様子を見に行った後の祈りでは、「この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」と祈られました。十字架の死を父なる神のみ心として受け止めようとする祈りでした。私たちの祈りは、「みこころのままに」ではなく、「私の思いのままに」ではないでしょうか。神のみ心よりも自分の思いや考えのほうが正しい、と思っているのです。
 そのような私たちが、「みこころのままに」と祈れるのは、私たちの救いのために、御子イエスが十字架の杯を受けてくださったからです。神のみ心とは、私たちを救おうとするみ心であり、そのためには御子をさえ死に渡されました。その神のみ心に従われた主イエスは、救いの杯を差し出しながら、「みな、この杯から飲め」と私たちを招いておられます。この主イエスの十字架の恵みに与った者たちは、最善なる神のみ心に信頼し、「みこころのままに」と祈る者とされるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 パウロはキリスト者の具体的な生き方について語る中で、「悪をもって悪に報いず」と勧め、「自分で復讐してはならない」と命じます。迫害に苦しむローマ教会の人々の中に、迫害する者を呪う心、復讐したい心が生じていたのでしょう。
 自分で復讐する代わりに、「神の怒りに任せなさい」と言います。人の悪に対して報いを与えるのは神の領域のことだからです。神だけに許されている悪への報復を人間がしようとするとき、それは自ら神に成り代わる態度です。私がこの世の支配者だと言うようなものです。そうしたくなるのは、神の支配を信じ切れていないからではないでしょうか。神の支配を信じるからこそ、復讐は神の任せることができます。
 私たちがなすべきことは、「神よ、私に代わってあの人を厳しく罰してください」と復讐を願い求めることではありません。パウロは、「すべての人に対して善を図りなさい」と勧めます。悪に対して悪をもって報いるのではなく、善をもって返すというのです。それによって、相手を悔い改めへと招くのです。
 このような高い倫理に、私たちは尻込みしそうになります。だからこそパウロは、「愛する者たちよ」と呼びかけます。これは、「神に愛されている者たちよ」ということです。私たちもかつては神の敵であり、悪に対して悪をもって報いられても仕方のない者たちでした。ところが神は、私たちに罰を下すのではなく、御子キリストを十字架につけ、罪人への深い愛を示されました。他者によって存在を否定されていた者たちが、神によって全面肯定されたのです。この神の恵みのゆえに、私たちは善をもって悪に報いる道を歩むように押し出されているのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 パウロは、救いの恵みに与った者たちのあるべき姿として、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と勧めました。「共に」ということは、一般でも言われていることです。しかし、聖書が語っていることは、福音の恵みによって生かされているあなたがたは、このように生きることができる、ということです。
 まず、「喜ぶ者と共に喜ぶ」ことが勧められていますが、私たちは他の人が喜んでいるとき、一緒になって喜ぶことができない弱さを抱えています。その人をねたましく思ってしまうのです。
 そのような私たちにとって、「泣く者と共に泣く」ことのほうがやさしいと思うかもしれません。けれどもそれは、見せかけの同情となり、あるいは心理的に上に立って、苦しんでいる人をさらに苦しめてしまうことがあります。「泣く者と共に泣く」とは、相手が泣いているのを止めることなく、泣くのをそのまま受け入れることです。励まそうとすることにより、「いつまでも泣いていないで……」というメッセージを送ってしまうことがあり、「共に泣く」ということに失敗してしまいます。
 そのような私たちがこのパウロの勧めを生きることができるのは、主イエス・キリストが、私たちと共に喜び、泣いてくださったお方だからです。主イエスは、私たち罪人たちのところにまで降りてきて、十字架の死に至るまで、私たちに寄り添ってくださいました。主の十字架は、「どこまでもあなたがたと共にいる」というメッセージです。救い主のこの寄り添いを受けた者たちは、小さなキリストとして、他者のもとへ遣わされていくのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)

 ダビデによるこの賛歌は、ダビデの驚きが賛美の原動力となっています。ダビデはまず、夜空に浮かぶ月や星の美しさに驚きます。けれどもそのとき、美しい雄大な自然そのものをほめたたえるのではありません。ダビデの目は、月や星にとどまるのではなく、それらを造られた神へと向けられます。そして、創造者である神のみわざをほめたたえるのです。ここが、被造物を神として拝んでしまう人々と、真の神を信じる者たちの大きな違いです。
 次に、ダビデの目は天から地へと降りてきます。宇宙の広大さと、それらを造られた神の大きさに比べたら、自分はなんと小さな存在であるかと驚きます。私たちはいつも他の人と自分とを比較して考えるため、高慢になったり、卑屈になったりします。けれどもダビデは、創造者なる神の大きさと自分とを比べて、自分の小ささを実感しました。
 けれどもそのとき、ダビデが最も驚いたことは、偉大な神がその小さな自分を顧みておられるということでした。「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか。人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」。天の神が自分のことを顧みておられることを知ったとき、自分を見る目が変わりました。価値なき者と見ていた自分を価値ある者と見るようになったのです。
 私たちはダビデ以上に、神を賛美する理由を知っています。神が私たちを顧みてくださって、御子キリストをこの世に送り、私たちのために十字架にかけてくださったからです。御子キリストがご自分の命と引き換えにするほどに、私たちを価値ある者と見てくださいました。この神の大きな恵みに驚いた者たちは、心から神を賛美して生きるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)