「駆け寄ってくださる神」
(ルカ15:11-24)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 「放蕩息子」の名が付けられたこの譬え話は、多くはこの息子の悔い改めが中心にして語られます。同じように、私たちも罪を素直に悔い改めるようにと勧められます。しかし、主イエスがルカ15章で三つの譬えを語られたとき、失われた側ではなく、失われたものを探し求めて大喜びをする人に焦点を当てています。
 この放蕩息子の譬えでも、主イエスは息子を迎え入れる父親の姿に焦点を当て、あなたがたの父なる神はこのようなお方である、と紹介しています。すなわち、この父親は、自分勝手に家を飛び出していった弟息子を何の条件も付けることなく、そのままで迎え入れています。
 息子の側には、「息子と呼ばれる資格などない」という拘りがあります。生きるために、家に帰って行かざるを得なくなったのですが、今さら息子としては帰ることなどできない、雇い人として家においてもらおうと考えたのです。息子にとり、父との断絶は大きいのです。その大きな断絶を乗り越えさせたものは、父の憐れみによる駆け寄りでした。帰るに帰れない息子を、父は走り寄って迎え入れたのです。息子の悔い改め具合など確かめもせず、そのままで受け入れたのです。罪を持った息子を無条件で赦したのです。
 私たちは、こちら側がちゃんと悔い改めたら、神も赦してくださる、と思っています。けれどもそうではありません。神は、私たちが悔い改める前から、赦しておられます。御子キリストが人となってこの世に来られたことは、父なる神の憐れみによる駆け寄りを表しています。主イエスの十字架によって、私たちの罪は赦されているのです。その赦しの恵みが分かるとき、私たちは心から悔い改めることができるのです。
(仙台南光沢教会 佐藤信人牧師)