「ありのままに」
(ヨハネ12:1-3)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 主イエスは弟子たちと共にベタニヤに住むマルタ、マリヤ、ラザロの三姉弟の家に行かれました。姉のマルタはもてなしの準備をし、妹マリヤは高価なナルドの香油を惜しげもなく主イエスの足に注ぎました。思い思いのわざをもって、主イエスへの愛と感謝を表しました。
 そのような中、弟のラザロについて、聖書は「ラザロも加わっていた」とだけ記します。原文では「いた」という意味の言葉です。ラザロは何もせず、何も言葉を発せず、主イエスを前にしてただそこにいただけでした。私たちの日常生活の中で、何もせずにそこに存在するだけ、という時間がどれほどあるでしょうか。私たちは「いる」よりも「する」ことに価値を見いだします。「人間」を意味する英語は“human being”ですが、現代において、人は“human being”ではなく、“human doing”になっているとある人は評しました。何かをしていないと人間ではないかのように思える時代です。
 このラザロについて、聖書はラザロがしたことではなく、主イエスがラザロにしてくださったことを繰り返し記します。「イエスが死人の中からよみがえらせたラザロ」と。私たちが生きて行く中で、これこそ大事な点です。主イエスが私たちの人生に何をしてくださったか、これによって私たちは生きるのです。
 ラザロという名は「神は私の助け」という意味ですが、ラザロは主イエスによって甦らせていただき、助けていただいた自分を「ありのままの私」として受け止め、神の助けを信じて安心して生きることができたのです。この主イエスを信じることによって、私たちも「ありのままに」生きることができるのです。
(三沢キリスト教会 篠崎 和牧師)