「すべて主のために」
(ローマ14:1-12)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 ローマ教会では、食べ物のことに続いて、特定の日を重んじるか否かという暦のことで意見の対立が生まれていました。ある人たちは、ユダヤ教の規定にあった断食の日を続けて重んじるべきだと考え、ある人たちはどの日も同じであり、その必要はない、と考えました。これらのことは、食べ物のことと同様、救いにおいては関係のないこと、どちらもで自由に選んでよい事柄です。そのため、パウロはどちらの考えが正しいか、という判定は下していません。
 その代わりに、「各自はそれぞれ心の中で、確信を持っておるべきである」と伝えます。その確信とは、独りよがりのものではなく、一つの基準があります。それは「主のために」という基準であり、確信です。肉を食べるか否か、特定の日を重んじるか否かも、「主のために」という視点から、自分の行動を選び取るように、ということです。これは、誰かがこうすべきと強制するものではありません。同じ「主のために」であっても、人によって肉を食べることもあれば、肉を食べないこともあるでしょう。それぞれが主のために選んでいればそれでよいのです。
 なぜ、キリスト者はすべて主のために生きるようになったのか。それは、生きるにしても死ぬにしても、私たちが主のものだからです。救われたということは、私たちがキリストの十字架によって神に買い取られたことであり、主のものとされたということです。「私は主のもの」とは、「イエスはわが主」ということです。こんな私がキリストの恵みによって主のものとされたことを知るとき、私たちは喜びをもって主のために生きることを始めるのです。
(仙台南光沢教会牧師 佐藤信人)