「前と右」
(詩篇16:1-11)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 この詩篇16篇には、「前」と「右」という言葉が2回ずつ出てきます。詩人ダビデは敵に命を狙われる危機にあって、主に向かって「私の避け所となってください」と叫び求めました。それは、主なる神以外のものを頼みとしても、そこには本当の幸いはないことを知っていたからです。そのとき、詩人は他の人を見る目が変わっていきました。かつては権力のある人、財を持つ人を羨んでいましたが、今は、神を畏れる人を尊敬するようになったのです。
 そのようなダビデは、「主はわたしの嗣業」(5)と告白します。イスラエルの12部族には、神からそれぞれの土地が割り当てられました。しかし、祭司としての部族であるレビ族だけは土地が与えられませんでした。神に仕えるレビ族にとって、主ご自身が嗣業である、とされたのです。ダビデは同じように、主こそ私の嗣業、と言いました。これほどの幸いはない、と言うのです。
 主に幸いを見いだした詩人は、「わたしは常に主をわたしの前に置く」と言いました。どんなときも神を意識し、神の御前で生きようとする姿勢を表します。その神は、「わたしの右にいます」と言います。神がご自身の力ある右の手で私を守っていてくださる、という信頼の表明です。だからこそ、「わたしは動かされることはない」と言い切ることができました。人生において困難がないというわけではありません。しかし、常に主の御前に生きるとき、主が私の右の手を握り、私を守り支えてくださる、と信じ抜いたのです。
 私たちもダビデのように、日々の生活において主を意識し、主の御前に生きようではありませんか。
(静まりのセミナー講師 太田和功一師)