「差し伸べられている神の御手」
(ローマ10:14-21)

カテゴリー 礼拝メッセージ要約(説教者による)

 福音を告げる者たちの足の美しさを語ったパウロは、「しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない」と、同胞ユダヤ人が救われない現実を語ります。それはパウロにとって大きな悲しみでした。異邦人が救われて行く一方、神の民イスラエルが福音を拒んでいるのです。
 何が問題なのか、パウロは「信仰は聞くことによるのであり」と述べます。福音が語られているにも関わらず、彼らは聞こうとしないのです。キリストについて語る言葉を神の語りかけとして、神の言葉として聞こうとしなかったのです。私たちの信仰は、聖書を神の言葉として聞く、という一点にかかっています。神の言葉である聖書が語っているからこそ、私たちはそれを信じるのです。
 イスラエルの民は、聞こえなかったと言い訳をします。しかしパウロは、聖書を引用しつつ、神の言葉は世界中に伝えられたと反論します。また、自分たちに分かるようには伝えられなかったという弁明に対しても、律法を知らなかった異邦人でさえ、福音を聞いて信じたという事実を取り上げ、聞いても信じようとしなかっただけだと言います。
 すると、イスラエルの民には救いの望みなど全くないように思いますが、神はその民に対して、「わたしは服従せずに反抗する民に、終日わたしの手をさし伸べていた」というのです。神は、選ばれた民を決して見捨てることなく、どこまでも救いの御手を差し伸べていてくださいます。放蕩息子の父親が、息子の帰りを待ち続けたように、神は背く者たちの立ち帰りを待っておられます。このような神だからこそ、私たちは帰って行くことができるのです。